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「聞くに速く、語るに遅く、怒るに遅く」

サムエル記上 3章1~10節
ヤコブの手紙 1章19~27節

「主日礼拝」

井ノ川 勝 牧師

2026年8月2日

00:00 / 35:49

2026.8.2. 「聞くに速く、語るに遅く、怒るに遅く」

      サムエル記上3:1~10,ヤコブ1:19~27


1.①北陸の金沢に、北陸学院というキリスト教学校があり、北陸の地に、教育と伝道の両面に渡り、主から与えられた大切な使命に生きて来ました。それと同じように、大阪に大阪女学院というキリスト教学校があります。この大阪女学院の院長をされた方に、西村次郎という方がおりました。玉出教会の教会員でもありました。西村次郎が晩年、東京の滝野川教会で説教をされています。「わが墓標」という題の説教です。この説教の直後、亡くなられています。将に、遺言説教となりました。私は信徒が語られた説教の中で、日本説教史に遺したい説教だと思っています。

 この説教の中で、秋田高陽教会の創立90周年に刊行された、塩谷牧師の説教集『イエスへの道しるべ』を紹介しています。特に、その中の「道」という題の説教に注目しています。その説教で、塩谷牧師はこう語られています。

 キリスト教というものは、キリストの教えとして日本にも世界各国にも伝わって来なかった。キリストの道として伝えられた。明治の初め、アメリカの教会から遣わされた若き伝道者夫妻が、日本の各地で伝道を始めた。様々な宗教、風俗習慣が根深く残る地で、日本人の魂に向かって、たどたどしい日本語で、生けるキリストを伝えた。それを聞いた日本人は、キリストの教えが分かって、洗礼を受けたのではなかった。祖国を離れ、異教の地で、ひたすらキリストを伝える若き宣教師夫妻の生きる姿勢に感銘を受けて、洗礼へと導かれた。「あの教えを信じている人」ではなくて、「ああいう生活をしている人」に感銘を受けた。宣教師の生き方、日々の生活に、生けるキリストが生きている。生けるキリストが証しされている。それに日本人は感銘を受け、「私もあのように生きたい」と思った。

 最初の教会の伝道を語った使徒言行録には、「この道の者」という言葉が繰り返し用いられています。「この道の者」とは、「キリストの道に生きる者」です。「キリストの教えを信じる者」ではなく、「キリストの道に生きる者」。そこに最初の教会に生きた信徒たちの信仰の姿勢があったのです。私が繰り返し語ることがあります。私ども教会の信仰を表す言葉は、「キリスト教」ではなく、「キリスト道」です。キリストの教えを知識として学ぶのではなく、キリストの道を生きることにあります。

 西村次郎がこの説教の中で強調していることがあります。「今日のキリスト教会に力がない。教勢が仲々伸びない。どこに問題があるのか。私ども信徒が生活の中でキリストを証ししているか。キリストの道を生きているか。そこに問題があるのではないか」。

 

この朝、私どもが聞いた御言葉は、ヤコブの手紙です。今日初めて、御言葉に触れた方もいるかもしれません。しかし、恐らく、皆さんの誰もが心に留められた言葉は、この御言葉ではないでしょうか。

「私の愛するきょうだいたち、よくわきまえておきなさい。人は誰でも、聞くに速く、語るに遅く、怒るに遅くあるべきです。人の怒りは神の義を実現しないからです」。

 誰もが身につまされる御言葉です。日本にもこれに似た格言があります。恐らく、この御言葉も、当時の格言ではなかったかと言われています。例えば、信仰の格言である箴言10章19節に、こういう御言葉があります。

「言葉数が多いときには背きを避けられず、唇を制すれば悟りを得る」。また、旧約聖書の納められなかった続編があります。その中に、シラ書(集会の書)があります。その5章11節に、「耳を傾けるときは速やかに、しかし、ゆっくりと答えよ」。

 しかし、伝道者ヤコブは単なる信仰の格言として、この言葉を引用しているのではありません。私どもの信仰の根幹に関わることを語っているのです。

 私どもの誰もが、この御言葉を聞いた時、身につまされる思いがするのは、何故でしょうか。私どもは日々の生活において、日々の対話において、「聞くに遅く、語るに速く、怒るに速い」からです。親と子どもの対話において、夫と妻との対話において、教師と生徒との対話において、職場の上司と部下との対話において、私どもは相手の言葉、思いを聞く前に、自分の方から一方的に語りかけます。相手が自分の思うような反応を示さないと、怒りが爆発します。「あなたは、私の言葉をちゃんと聞いているの」と怒りが爆発します。

 私どもは何故、怒るのでしょうか。自分が正しいと思っているからです。相手が間違っていると思っているからです。お互いが自分が正しいと思って、怒りと怒りがぶつかり合う。それは私どもの日常の対話だけでなく、国と国同士、民族と民族同士の争いにも起きていることです。深刻な問題を引き起こし、泥沼状態に陥っています。しかし、この御言葉は語ります。あなたの怒りは、神の義しさが明らかにされているかどうか。あなたの正しさではなく、神の義しさが貫かれた怒りになっているかどうか。

 

2.①伝道者ヤコブがこの御言葉で、何よりも強調していることは、「聞く」ことです。それ故に、「聞くに速く」。真っ先に聞くことに集中しよう。聞くことに遅くあってはならないと語るのです。

 ヤコブの手紙5章の結びで、とても大切なことが語られています。13節以下。

「あなたがたの中で苦しんでいる人があれば、祈りなさい。喜んでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」。

病気や苦しみで、自分で祈れない時には、教会の長老を呼んで、代わりに祈ってもらないさいと勧めています。牧会的な対話が問われているのです。ヤコブの手紙は、何よりも牧会的な言葉に溢れています。

 病気や苦しみ、悲しみの中にある方と対話をする時に、何よりも大切なことは、相手の声を聞くことです。声にならない声、魂の叫びを聞くことです。「あなたはこうしなさい」と指示するのではなく、ひたすら聞くことです。

 今日から神学生が夏期伝道実習を1か月間始められます。そういうこともありまして、神学生時代のことを想い起こしていました。「牧会カウンセリング」という授業があり、永福町教会の三永恭平牧師が教えておられました。その授業の内容が、やがて本になりました。『牧会カウンセリング読本 こころを聴く』。

 三永先生が繰り返し強調されたことがあります。牧会カウンセリングの基本は、「傾聴する」ことにある。心を傾けて、相手の心を聴く、聴き取ることにある。それ故、「聞く」という言葉ではなく、「聴く」という言葉を用います。将に、ヤコブが語る「聞くに速く、語るに遅く、怒るに遅く」です。

 

しかし、この御言葉は、人と人との対話を語っている御言葉なのでしょうか。ヤコブの手紙も、他の新約聖書の手紙と同様に、礼拝で朗読された御言葉です。礼拝を礼拝として成り立たせる説教の言葉でありました。と言うことは、神と人との対話が問われていると言えるのです。それがこの御言葉です。

「私の愛するきょうだいたち、よくわきまえておきなさい。人は誰でも、聞くに速く、語るに遅く、怒るに遅くあるべきです。人の怒りは神の義を実現しないからです」。

 私どもの礼拝、信仰生活の生命線は何と言いましても、「神の御言葉を聴く」ことに懸かっています。神の御言葉を聴くことなしに、伝道者の説教も、信徒の牧会的対話も、祈りも成り立ちません。神の御言葉を聴くことに遅くあってはならないのです。神の御言葉を聴くことに真っ先に速く、いや、終始聴き続けなければならないことです。神の御言葉を聴くことを止めた時に、私どもの信仰のいのちは絶たれるのです。

 水曜日の「聖書研究・祈祷会」を、「聖書黙想・祈祷会」に4月より改めました。近年、「聖書黙想」ということが重んじられるようになりました。「黙想」というのは、黙ってひたすら聖書の御言葉を通し、神が今、私に語りかける声を聴くことです。元々はカトリック教会が重んじて来たことです。カトリック教会は「観想」と呼びました。聖書の御言葉を聴くことを通して、神が今、私に語りかける声を聴き、神がここに生きておられることを霊のまなざしで観るのです。

 私どもプロテスタント教会が「聖書黙想」を重んじるようになったのは、第二次世界大戦下です。ヒットラー率いるナチスに抵抗した伝道者たちは、ただ御言葉を武器として闘いました。説教一本で闘った。神以外の者を神として拝み、膝まずかない闘いでした。そこで重んじたのが、「聖書黙想」です。聖書は遠い昔の書物ではない。私どもを生かし、魂を救ういのちの御言葉である。神は聖書を通して、今、ここに生きている私どもに、何を語りかけようとしているのか。神の生ける声をひたすら聴いたのです。聖書の御言葉からいのちを与えられ、その御言葉を闘いの中にある教会員に伝え、ナチと闘ったのです。

 伝道者は御言葉を伝え、語ります。しかし、伝道者こそ何よりも、神の御言葉に聴き、神の生ける御声を聴かなければ、説教出来ません。説教している今も、神の御言葉に聴きながら、御言葉を語っているのです。聴くことを中断していないのです。

 

3.①「聴くに速く、語るに遅く、怒るに遅く」。この御言葉は旧新約聖書を貫く生命線です。実は、北陸学院小学校の1学期の最後の礼拝で、この御言葉を語りながら、少年サムエルの物語を語りました。小学生が集中して聴いた御言葉です。それがサムエル記上3章の御言葉です。神の御言葉が聞かれなくなって久しい日々が続きました。少年サムエルはエリ先生の許で、寝食を共にして修行をしていました。夜、眠っていると、神がサムエルに語りかけました。サムエルはエリ先生が呼んでいると思いました。それを二度繰り返した。エリ先生は神がサムエルに語りかけているのだと気づいた。それ故、今度、神が語りかけたら、こう答えなさいと教えました。神が三度、サムエルに語りかけます。「サムエルよ、サムエルよ」。サムエルは起き上がり答えました。「主よ、お話下さい。僕は聴きます」。少年サムエルのこの言葉は、私どもの礼拝の姿勢、日々の祈りの姿勢を表す大切な言葉となりました。「主よ、お話下さい。僕は聴きます」。

 「聞く」ということを集中的に語るのが、申命記です。特に、申命記6章4節です。「聞け、イスラエルよ」。「聞け」。元の言葉はヘブライ語で、「シェマー」と言います。「シェマー」「聞け」と言う言葉は、そのまま申命記6章4節の御言葉を指し示すようになりました。

「聞け、イスラエルよ、私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。

 主イエスが律法の中で、最も重要な戒めと言われた御言葉です。あなたの子どもたちに繰り返して告げなさい。家に座っている時も、道を歩いている時も、寝ている時も、起きている時も、御言葉を唱えなさい。この御言葉を紙に書き記し、手に結びなさい、額に記章として付けなさい。家の入り口の柱と町の門にも書き記しなさい。御言葉を聴くことに徹底しています。それだけ御言葉が日常生活にとって、欠かせない御言葉であるということです。御言葉を聴くことなしに、日常生活は成り立たない。

 伝道者ヤコブは語ります。神はあなたの魂に、御言葉の種を蒔かれた。あなたの魂に、植え付けられた御言葉がある。御言葉はあなたの魂を救い、生かす力がある。

 

「御言葉を行う人になりなさい。ただ聞くだけの人であってはなりません」。御言葉を聞くことを重んじながら、御言葉を聞くだけであってはならない、御言葉を行う人になりなさい、とヤコブは勧めます。矛盾していないのでしょうか。実は、ヤコブの手紙の強調点がここにあります。私どもの信仰生活の弱点でもあります。他の言葉で言えば、こういうことです。信仰と行い、礼拝と平日の生活です。信仰があっても、行いが伴わない。礼拝を捧げていても、平日の生活では信仰が生きていない。誰もが悩んでいることです。しかし、伝道者ヤコブは、信仰と行いは一つ、礼拝と平日の生活も一つに結び付いていることを強調するのです。

 「御言葉を行う人になりなさい」。ヤコブが強調するこの御言葉を、私はこのように言い換えることが出来ると思います。「御言葉を生きる人になりなさい」。御言葉を生きる中に、信仰と行い、礼拝と平日の生活が含まれるのです。主イエスも、申命記の御言葉に基づきながら語られました。

「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」。

 ヤコブの手紙は「イエス・キリスト」という言葉が2回しか用いられていません。冒頭の「主イエス・キリストの僕ヤコブ」。2章1節「私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰」。しかし、決してキリストへの信仰を軽視している訳ではありません。今日の箇所にも、このような御言葉がありました。

「自由の律法を一心に見つめて離れずにいる人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人になります」。

 この御言葉を巡って様々な理解がありますが、ここで注目すべきは「自由の律法」という言葉です。伝道者パウロがガラテヤの信徒への手紙5章で、こう語っていました。

「自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。しっかり絶って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません」。

キリストの十字架の贖いにより、私どもを縛り付ける諸々の奴隷の軛から解放され、自由の律法を与えられた。キリストの自由の律法、自由の御言葉を一心に見つめて離れない。いや、キリストが私どもを一心に見つめて離さない。私どもがキリストと密着して生活する以上に、キリストが私どもに密着して生活して下さる。生きて下さる。そのような人は御言葉を聞いて忘れてしまう人ではなく、御言葉を行う人、御言葉に生きる人とされているのです。

 

4.①先週、「東京神学大学学報」が送られて来ました。その中に、キリスト教学校伝道協議会での特別講演をされた、立教学院の院長、聖公会の牧師・西原廉太先生の「キリスト教学校における後継者養成の幻」講演がありました。教会だけでなく、キリスト教学校も厳しい現実に直面しています。今、必要なことは、キリスト教学校に集う生徒、学生に、御言葉を知識として教えるのではなく、御言葉を命のパンとして食べさせることである。聖書の御言葉は、何度も国を滅ぼされる中で、この御言葉を食べなければ生きて行けない。そのような命の御言葉として伝えられた。聖書の御言葉は聴いて、食べて、生きた御言葉である。私どもの生き方、存在を変える御言葉である。

 更に、西原先生は語られますこの世界、この社会の片隅で、様々な困難や悲しみ、孤独の中で、声を出すことが出来ないでいる者、かすかな声で癒しと救いを求めている人々の存在を、聴き取ることが出来る人間を育て上げることが、キリスト教学校の使命として求められている。それは教会の使命でもあります。ここにも、「聴くに速く、語るに遅く、怒るに遅く」の御言葉の現代的な課題、展開があります。

 

説教の冒頭で、西村次郎の「わが墓標」といい題の説教を紹介しました。そこで語られます。安田龍門という和歌山県粉河出身の画家・彫刻家がいた。家は貧しかったが、苦学して東京芸大に入学した。愈々、卒業制作に取りかかる段になったが、モデルを雇うお金がなかった。意気消沈し、悄然として故郷粉河に帰った。母が言った。「せがれや、モデルというのはべっぴんさんじゃなきゃいかんかのう。このおばあをモデルに画いてみんさい」。龍門はこのひと言ではっと目が開かれた。「母の像」という絵を描いた。その絵を通して才能を認められ、フランスへ留学した。フランス留学中、母の訃報を聞いた。帰りたくても、お金がないので帰れなかった。その時、一編の詩を綴った。

「母上よ、私はあなたの墓標になりたい。私をあなたの墓標にして下さい」。

西村次郎は語ります。私どもキリスト者にとっては、このような祈りになる。

「イエスさま、どうぞ私をあなたの墓標にして下さい。イエスさま、私はあなたの墓標です」。

 私どもがキリストの墓標として生きる。私どもの生活、言葉、生きる姿勢を通して、生けるキリストが私を生きておられることが証しされる。キリストの言葉を聴いて生きるとは、将にそのことです。私一人ではなく、私ども教会の生き方を通して、生けるキリストを証しして行くのです。

 

 お祈りいたします。

「言葉において罪を犯す私どもが、キリストの十字架の血によって、私どもの魂に受け付けられた御言葉によって、私どもを打ち砕き、生かして下さい。聞くに速く、語るに遅く、怒るに遅く。この御言葉に生かして下さい。私どもの生活、言葉、生き方を通し、生けるキリストが私を生きておられることを証しさせて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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