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「自分たちのために泣け」

哀歌2:18~19
ルカ23:26~31

主日礼拝

井ノ川 勝

2024年2月11日

00:00 / 36:26

1.①新しい年を迎えた最初の日、誰もがこの一年間の家族の幸いを祈りました。帰省した家族を迎えて、一家団欒、元日の夕べの食卓に与ることを楽しみにしていました。ところが、元日の夕べ、能登半島地震という思いも寄らない出来事が起こりました。多くの家族の命が失われ、家族との思い出がいっぱい詰まっていた家が倒壊し、故郷の懐かしい景色が一変しました。自分たちの大切な生活が一瞬にしてひっくり返されました。今尚、多くの方々が避難所で厳しい生活をしています。輪島教会も会堂が倒壊し、今朝も、避難所で数名の者が集い、礼拝を捧げています。

 この一ヶ月、被災地でたくさんの涙が流されました。家族を喪った悲しみの涙、悔し涙があります。家族を助けられなかった後悔の涙があります。自分たちがこつこつと築き上げた家族の物語が一瞬にして崩れ去り、これからどうのように歩んで行ったらよいのか分からない、途方に暮れる涙、落胆の涙があります。誰にもぶつけることの出来ない怒りの涙があります。実に様々な涙が、自分たちが歩んで来た大地に流され、染み込んでいます。その涙は今でも尚、乾くことがありません。私どもも被災地の方々の涙に、重ね合わせて涙を流して来ました。

 

②このような悲しみを心に刻みながら、今週の水曜日から受難節を迎えようとしています。主イエスの十字架の道を歩まれた御苦しみ、悲しみを覚えながら、私どもの祈りを集める時です。受難節を控えた主の日、私どもが聴いた御言葉は、十字架の道を歩まれる主イエスの後に従った人たちの物語です。ここには主イエスの12人の弟子たちの姿はありません。主イエスが捕らえられると、皆、主イエスを見捨てて逃げ去ってしまいました。十字架の道を歩まれる主イエスの後に従ったのは、二組の人でありました。

 一人は、キレネ人シモンです。キレネというのは、北アフリカの地中海沿岸の都市です。今日のリビアの東部に当たります。シモンは離散したユダヤ人として、キレネ出身でした。そして今はエルサレム郊外の田舎で、畑仕事をしていた農夫であったのではないかと言われています。ユダヤ人の大切な祭である過越の祭、出エジプトの出来事を記念する祭を祝うために、エルサレムに来ていました。たまたま主イエスが十字架の道を歩まれる場面に出くわしました。そして人々から無理矢理、主イエスが背負っていた十字架を背負わされ、主イエスの後ろから運ばせました。シモンは、主イエスの十字架を担うという特別な経験をさせられました。

 そしてもう一組は、民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、主イエスの後ろから従っていました。涙を流し、嘆き悲しみながら、主イエスの後ろから従う婦人たちがいた。

 無理矢理、主イエスの十字架を背負わされ、主イエスの後ろから十字架を運んだシモン。涙を流し、嘆き悲しみながら、主イエスの後から従う婦人たち。ここに教会の姿があるのだと、ルカ福音書は私どもに語りかけています。ここに輪島教会の群れの姿があります。ここに私ども金沢教会の姿があるのです。

 主イエスが弟子たちに向かって初めて、わたしは多くの苦しみを受け、排斥され、十字架の道を歩まなければならないことを打ち明けられた場面があります。その時、主イエスは弟子たちに向かって、このように語られました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。

 教会は主イエスに従う群れです。日々、自分の十字架を背負って、主イエスに従う群れです。そこに主イエスの弟子の姿があります。その主イエスの弟子の姿の模範として、ここに二組の人が登場しています。主イエスの十字架を無理矢理背負わされ、主イエスの後ろから十字架を運んだシモン。そして、涙を流し、嘆き悲しみながら主イエスの後ろから従った婦人たちです。今朝は特に、涙を流し、嘆き悲しみながら主イエスに従った婦人たちに注目したいのです。主イエスの後ろから従った婦人たちを描いているのは、ルカ福音書だけです。それだけにルカ福音書は、この婦人たちの姿を強調したかったのだと思います。私ども教会の姿と重ね合わせているからです。

 

2.①しかし、この場面で、私どもが注目すべきことは、何と申しましても、この時、執られた主イエスの動作と、この時、語られた主イエスの言葉です。主イエスは最後の晩餐の後、オリーブ山で夜を徹して祈られました。その後、捕らえられ、裁判の連続でした。主イエスは裁判の場面で、何も語られなかった。沈黙を貫かれました。その主イエスが十字架へ向かわれる最後の場面で、婦人たちの方を振り向いて、語られた。それだけに注目すべき御言葉です。

「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」。

 主イエスは自分の背後に、婦人たちの嘆き悲しむ泣き声を聴かれたのでしょう。それ故、婦人たちに振り向いて語られた言葉です。不思議な言葉です。婦人たちの涙は、十字架へ向かう主イエスのために注がれています。しかし、主イエスはその涙を拒否されます。

「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」。

一体、どのような思いが込められた主イエスの言葉なのでしょうか。主イエスの後ろから従った婦人たちが流された涙は、主イエスに対する同情の涙でした。何の罪もない主イエス、私どもが愛して尊敬する主イエスが、何故、十字架にかけられて殺されなければならないのか。「何とお可哀想なことか。何と痛ましいことか。何と不憫なことか」。婦人たちの涙は主イエスへの同情の涙であったのです。しかし、主イエスは自分に注がれる同情の涙を、一切拒否されます。むしろ、自分たちのために泣けと語られるのです。自分たちのために泣いてよいのだと語られるのです。主イエスは振り向いて、婦人たちの涙に目を留められるのです。

 

②私どもは何故、涙を流すのでしょうか。それは自分に関わることだからです。しかし、私どもはしばしば涙を流すことにおいて、悲しみ、泣くことにおいて、罪を犯してしまいます。自己中心に陥ってしまいます。「誰も私の悲しみなど分かってくれない」。「あなたになんか、私の悲しみなど分からない」。私の悲しみに同情の涙を流すことを突っぱねます。「私の方が絶対に正しい。間違っているのはあなたの方なんだ」。自分の正しさを分かってくれない、相手を涙を流しながら裁き、それに鈍感な周りの人々を裁きます。「何故、私にだけこのような不幸がいつも訪れるのだ。私ほど不幸な人間はいない。私は何と可愛そうな人間なのか」。自分で自分を憐れみ、自己憐憫の涙を流します。

 しかし、ここで主イエスが語られた「自分のために泣け」。それは自己中心的な涙を流せと語られているのではありません。主イエスは振り向いて、婦人たちの涙に目を留められて語られた。「わたしのために泣くな。むしろ、自分たちのために泣け」。それはこのような思いが込められていました。「あなたがたの泣き方が間違っている。あなたがたが流す涙の方向が間違っている。あなたがたが流す涙の向きを変えなさい。涙を流す姿勢を変えなさい」。

 婦人たちの目の前には、十字架へ向かわれる主イエスのお姿があります。婦人たちはその主イエスのお姿を見て、「何とお可哀想なことか。何と痛ましいことか」と同情の涙を流しました。しかし、その涙は、何故、主イエスが十字架へ向かわれるのか、それを正しく捕らえた涙ではない。何故、主イエスが十字架へ向かわれるのか、それが本当に分かったならば、涙の方向も変わるのです。流す涙の意味も変わるのです。私どもが流す様々な涙の真ん中に、私どもが本当に流さなければならない涙が、主イエスによって与えられるのです。私どもが本当に悲しまなければならない悲しみが、主イエスによって備えられるのです。

 

3.①私が伊勢の教会で伝道していた時、毎年、京都の宇治カルメル会修道院黙想の家をお借りして、説教の研修会が行われていました。その修道院の庭に、主イエスの十字架の道行きがありました。主イエスが十字架におかかりになられるまで、十字架の道の途上で起きた14の場面が、絵で表され、御言葉が記されています。その一つ一つの場面で立ち止まり、黙想し、祈りを捧げる。そのようにして主イエスの十字架の道を、私どもも歩んで行く。主イエスが歩まれて十字架の道は、悲しみの道と呼ばれています。私どもも主イエスの後ろから悲しみの道を辿って従って行くのです。受難節にカトリック教会が重んじる黙想と祈りです。私どもプロテスタント教会にはそのような慣習はありません。しかし、私どもも聖書の受難物語を黙想し、祈りを重ねながら、主イエスの十字架の道を辿るのです。何故、主イエスは十字架の道を歩まねばならなかったのかを、心に刻むのです。

 主イエスが振り向いて、婦人たちの涙に目を留められた時、このような言葉を続けて語られました。厳しい言葉です。

「人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。

 そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、

丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める」。

 後半の御言葉は、預言者ホセアが語った御言葉です。ホセアは他のどの預言者よりも、神の愛を語りました。神と私どもは夫婦の愛の関係であると語りました。しかし、妻である私どもは夫である神を裏切り、他の男性の許、他の神々の許へと走って行った。夫への愛を貫けなかった。夫である神を裏切った妻である私どもの上に、山が崩れ去る、丘が覆い被さる。厳しい神の審きに、私どもは押し潰される。

 主イエスはこの預言者ホセアの言葉を語られた後に、婦人たちに向かって、こう語られた。

「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか」。

 生の木は水分を含んで瑞々しいので、火にくべてもなかなか燃えません。しかし、枯れ木は水分を含んでいないので、火にくべるとすぐに燃え尽きてしまう。私どもが枯れ木に譬えられている。神の審きの火で、すぐに燃やされてしまう。

 

②主イエスが何故、十字架の道を歩まねばならなかったのか。神への愛を貫けなかった私どもが山が崩れ、丘が覆い被さり、滅びないためです。枯れ木である私どもが神の審きの火の中で、燃え尽き、滅びることがないためです。私どもの目の前におられる主イエスは私どもの身代わりとなって、十字架の道を歩まれる。主イエスが十字架の道を歩まれた意味が分かれば、私どもの流す涙の方向も変わるのです。主イエスへの同情の涙ではなく、自分たちのために泣くのです。それは言い換えればこういうことです。私どもの涙の真ん中に、主イエスが立って下さる。私どもの悲しみの真ん中に、主イエスが立って下さる。その時、私どもの涙の向きも、悲しみの向きも変えられるのです。

 主イエスは「平地の説教」の冒頭の「幸いの教え」でこう語られました。

「今泣いている人々は、幸いである」。「悲しんでいる人々は、幸いである」。主イエスこそ涙の意味を知り、立たなければならない悲しみの中に立って下さったお方です。ルカ福音書は他の福音書に比べ、主イエスの悲しみ、主イエスの涙を描いている福音書です。主イエスは語られました。13章33節。

「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」。

 主イエスは今日も明日も、次の日も十字架の道を進まねばならないと、決意されています。そして涙を流して、悲しみ嘆かれています。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる」。

 エルサレム、それは神の都です。私ども全人類を代表する町、人々です。私どものことを、主イエスは涙を流して、悲しみ嘆かれているのです。父なる神は雌鶏が雛を羽の下に集めるように、何度も預言者を遣わし、御言葉を語り、招かれた。しかし、あなたがたは神の招きに応じようとしなかった。主イエスの深い悲しみがあります。

 そして更に、主イエスは語られた。19章41節です。主イエスがエルサレムに近づき、都が見えた時、都のために泣き、涙を流しながら、悲しみ嘆きつつ語られました。

「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」。

 神が何度もあなたがたを訪ねて、御言葉を語られた。しかし、神の御言葉を聴こうとしないエルサレムは、自ら滅びを招いている。

 

4.①伊勢の教会で伝道していた時、教会に幼稚園がありました。1月、年長組はコマ回しに熱中します。いかに回転よく、勢いよく、長く、自分のコマを回すことが出来るのか、友だちと競い合います。私も園児たちに負けじと、コマ回しに熱中しました。コマが回転よく、勢いよく、長く回るためには、心棒がしっかりとしていなくてはなりません。心棒がぐらぐらしていたのでは、勢いよく、長く回ることは出来ません。勢いよく、長く回るコマを見つめながら、私どもの生きる姿勢と重なり合っていると思いました。私どもの生きる心棒とは何でしょうか。私どもは悲しみの中で、苦しみの中で、心が硬くなって、立ち上がることが出来ません。一度自分がこう思うと、それを変えようとしません。私どもの心は頑なで、なかなか向きを変えようとしません。自分の思い、自分の考えが心棒になると、なかなか私どもは向きを変えようとしません。

 しかし、主イエスが私どもの涙の真ん中に立ち、悲しみの真ん中に立たれた時、主イエスが私どもの心棒となって下さる。そして頑なな私どもの心の向きを変えて下さるのです。私どもの涙の向きも、私どもの悲しみの向きも変えて下さるのです。伝道者パウロはコリントの教会へ宛てた手紙で、こう語りました。コリント二7章10節。(新約333頁)。

「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。

 主イエスが私どもの涙、悲しみの中心に立たれ、私どもの涙の向き、悲しみの向きを変えて下さる。私どもが涙の中で、悲しみの中で、滅びることがないように、向きを変えて下さる。悔い改めさせて下さる。救いへと導いて下さる。そのために、主イエスは十字架の道を進まなければならなかったのです。

 

②十字架の道を進まれた主イエスは振り向いて、嘆き悲しむ婦人たちに語られました。「わたしのために泣くな、自分たちのために泣け」。

 主イエスは重要な場面で、振り向かれています。主イエスの弟子ペトロが、捕らえられた主イエスの様子を窺いに、大祭司の家の中庭に入り込んだ。しかし、そこで三度、「あなたもイエスと共にいた」と言われ、ペトロは三度、「あの人を知らない」と主イエスを否んだ。その時、鶏が鳴いた。この場面で、ルカ福音書だけが書き留めていることがあります。

「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出し、外に出て、激しく泣いた」。

 振り向かれた主イエスのまなざしは、どのようなまなざしだったのでしょうか。裏切ったペトロへの怒りのまなざしでしょうか。「ほら、わたしが言った通りになったではないか」と、あきれ果てたまなざしでしょうか。それとも憐れみのまなざしでしょうか。

 ペトロは最後の晩餐の席で、主イエスに向かってこう豪語しました。

「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」。

しかし、主イエスは語られた。

「シモン、シモン、しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

 主イエスを三度知らないと言って、裏切ったペトロに、主イエスは振り向いて憐れみのまなざしを注がれた。「わたしはあなたの信仰が無くならないように祈っている」と、憐れみのまなざしを注がれた。主イエスの御言葉が悲しみの中で、心棒として堅く立った。それ故、主の御言葉により、ペトロは悲しみの向きを変えられ、後に悔い改めて、主の弟子として再び立つことが出来たのです。ペトロの流した涙は立ち直れない涙ではなく、悔い改めに導かれる涙となったのです。ここにも、主イエスが振り返って婦人たちに語られた言葉があります。「わたしのために泣くな、自分たちのために泣け」。

 

5.①受難節の季節、中心にある御言葉の一つが、詩編51編です。悔い改めの詩編です。19節。

「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」。

 主が注がれる霊と言葉により、私どもの悔いる心が打ち砕かれ、悔い改めへと導かれ、主に立ち帰って生きる方向へと導かれる。主に立ち帰って、主の懐で、自分の罪を悲しみ、泣き、涙を流すことが出来る。主の懐こそ、主イエスが進まれた主の十字架であるのです。

 

 お祈りいたします。

「悲しみの中でも心が頑なになります。涙を流しながらも、自己中心的になってしまいます。悲しみの中から立ち上がることが出来ません。私どもの悲しみも涙を知る主イエスが振り返り、語りかけられるのです。主の御言葉が私どもの心の心棒となって、私どもの心を自分の内から解き放ち、主へと向けさせて下さるのです。主よ、あなたに立ち帰り、あなたの懐で、自分の罪を悲しみ、泣き、涙を流させて下さい。主に立ち帰って、新たに生きさせて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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