「自分に託された命をどのように用いますか」
イザヤ書52章7~10節
ルカによる福音書19章11~27節
主日礼拝
牧師 畑雅乃(内灘教会)
2023年11月26日
来週には、主を待ち望むアドヴェントを迎えます。アドヴェントは、クリスマスまでの間、主イエス・キリストのお誕生日のお祝いを待つだけではなく、やがて、主イエスが再び来られる時を、新たに待ち望む時として過ごす時でもあります。そういう中で、今朝ご一緒に読みますのは、主イエスによって語られた「ムナのたとえ話」です。私たちは、十字架と復活の後、天へと上げられた主イエスが、世の終わりにもう一度来られる再臨までの間の、主イエスの不在の時を生きています。たとえ目で見たり、手で触れるような仕方で主イエスと出会うことが出来なくても、主イエスを信じる私たちは主イエスが王として帰って来られることを信じて、主イエスの僕として生きています。そして、主イエスが語られた「ムナのたとえ」は、主人が旅に出ている不在の間、あなたは神に与えられた宝をどのように用いますかと問われているのです。
主イエスが語るたとえ話。最初に冒頭の言葉に注目しましょう。
人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。(一一節)
押さえておきたいのは、「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていた」、このところです。主イエスが今、居るのはエリコの町です。間もなく都のエルサレムへ入場します。この時、ローマ帝国の支配下にあったユダヤの国の人々の期待は絶頂を迎えるように高まっていました。ナザレのイエスが都に発つ。きっと何か起こり、神の不思議が現れるに違ない。ローマ帝国からの解放を願っていたのです。この中には、「天が裂けて天の軍勢が地に降りてくる。主イエスの指示のもとに、神に背く軍勢を打ち倒すんだ。遂には天と地が一つになるぞ」、このように信じている人々もいました。そして主イエスは、これらの人々の心を知って、いやそうではないこれを言われる。「神の国」とは「神の王としてのご支配」という意味です。その神の国は、直ちに来るものではない。確かに神の国は来る。しかし、そこに至るまでには時間の猶予があるんだ。これを告げます。そして、このメッセージを分かりやすく語るのが、今日私たちが読んでいるムナの譬えです。
家柄の立派な人が、王の位を授かるために、旅へ出ることになりました。当時の世の中ではよく分かることでした。例えば、ヘロデ家がそうでした。父親のヘロデ大王が亡くなります。すると息子は、ヘロデ大王が治めていた領土の支配権を受け継ぐためにローマまで出向いて行ったんです。ローマ帝国から息子である自分に、王の位を授けてもらう。その必要があったんです。当時の人々にとっては、とても実際的な話です。そして、これはたとえ話。位を受けるために旅立つ人。これに喩えられているのは、主イエスご自身です。主イエスは、世の旅を終えて神の御許へと帰られます。神の国で、神からすべての権威と権能を授けられる。そして、主イエスは王の位を取って帰る人のように、再び世に帰って来る。これが、終末再臨の時です。地上におられる主イエス、やがて天に昇られ、神に右にお座りになる。神の体系を身に帯びられます。そして、そこからもう一度私たちのいるところへ帰って来られる。
王の位を受けるために旅立つ主人、彼は出発に先立って十人の僕たちを呼びました。そして、彼ら一人一人に一ムナのお金を託すんです。私が戻って来るまでに、このお金を元手にして商売をしなさい。このように命じました。一ムナと言うのは、当時の社会で労働者三ヶ月分の賃金に相当する、こう言われています。十人の僕たちには、主人が帰って来るまでという限定された時間と、一ムナという現金が託されました。時間と宝が託されました。どれほどの日数が過ぎたんでしょう。やがて王の位を受けた主人が、旅先から帰って来ました。
僕たちが呼び集められます。主人と僕たちが行う決算です。ある者は、託された一ムナで十ムナを儲けた。また、ある者は一ムナで五ムナを儲けた。それぞれに成果を報告し、主人からご褒美をいただきます。そして、次の僕が出てきました。彼は働きませんでした。怖かったんです。もし下手にお金を動かして、損を出したらどうしよう。気難しい主人は何をするか分からない。そうであれば、布に包んでしまっておこう。託されたものに手を付けないで、そのまま返してしまおう。こう考えました。事の次第を述べた時、主人はたいそう怒りました。
主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。(二二から二六節)
まことに厳しい結末です。さて、これはたとえ話です。主イエスは、気難しい主人のようなんだ。こういう話ではありません。ポイントがあります。私たちには、登場した僕たちのように主イエスから、時間と宝が託されている。これを言います。これがポイントです。私たちは、誰しもエンドレスの人生を生きているわけではありません。いつか終わる人生を生きているんです。大きく取れば、歴史の終末。小さく取れば、人生の終わり。限りある時間を与えられて、生きている。そして、私たちにも宝が託されています。私たちに託されている宝とは、何を言うんでしょう。狭く考えたくないと思うのです。教会でよく言うんです。あの人は、音楽の賜物が与えられている。この人は、教会学校の先生で何十年も子どもたちを教えている。あそこにいるのは。お花の先生でいつも綺麗に生けてくださる。私は、何の賜物もない。今日の聖書は、そのようなことを言っているのではありません。むしろ、十人の僕たちに公平に一ムナずつが渡されているんです。託された宝というのは、個別的な才能の事ではありません。これが出来るとか、あれが出来ないとか、あれはあるけどこれがないとか、そういう話ではありません。むしろ、私たちすべての者に共通して与えられている宝のことです。主人であるイエス・キリストの僕に託されている宝です。
長い教会の歴史の中で、このムナというのは、神の福音、あるいは神の言葉、そのように理解することが出来ると考えられてきました。宝は、主イエスから託された福音。そうであれば、このムナを増やすということは、福音伝道ということになります。ここで主人に叱られている僕は、失敗を恐れて、福音を広げ、増やすことを怠りました。ここで思わされることは、「失敗を恐れて」ということです。この失敗を恐れる根底には、神の導き、助け、守りを信じ切ることの出来ない不信仰があるのかもしれません。主イエスが何よりも問題にされたのは、神に委ねて全力を注ぐことの出来ない不信仰であったのではないでしょうか。
私たちは自分のことを大事にし過ぎると、前に進むことが出来なくなっていきます。モノの譬えですが、道に迷ってうずくまっているのなら、いつまでもそのままです。先に進んでみて、道の開かれることがあります。むしろ人生の道は、進んで行くうちに、道が出来て行くんです。聖書は、「さあ頑張れ」とは言いません」。「一人で歩け」とも言いません。聖書は、「あなたの前に、主イエスが先立って歩んで下さる。だから、この方の背中を見ながら歩いて行こう」。これを言います。具体的なことを言えば、このようにして聖書のメッセージを聞くことです。自分自身で祈りをささげ、神に問いつつ、求めつつ歩んで行く。
『ムナのたとえ』で、主人が怒ったのは儲けが出なかったからではありません。主人は、十ムナ儲けた人に対しても、五ムナ儲けた人に対しても、同じように褒めています。出来の良さ悪さを比較していません。主人が怒ったのは、託した一ムナを使わなかったからです。生かさなかったからです。
では、その一ムナをどのように使うのか。
私たちは、どこかで思い違いをしていることがあります。キリスト者として奉仕の心で大きな事業を興すこと。教会に沢山の人を集めて教勢を伸ばすこと。それも、勿論大切です。でも、そうではないんです。私たちは、強くなくていい。弱くていいんです。弱く打ちひしがれた者が、どうやって生きているのか。キリストにすがり生きている。礼拝と祈りの生活の中で生き続けていく。それが、福音を大胆に伝える生活へと繋がっていきます。私たちに求められていることは、失敗を恐れずに、主から頂いた福音を大胆に伝えていくということです。これが、主イエスが再び来られる時までに、私たちに委ねられ、求められていることです。その福音伝道が失敗したらどうするのかと私たちは考えますが、そもそもその福音伝道に失敗などあるのでしょうか。例えば、牧師です。洗礼を授けた人数で、その牧師が成功したか失敗したかは決められません。洗礼は、神の御業だからです。目に見える成果で、失敗も成功もはかることなど出来ません。私たちは、ただ神の御業の道具となります。神がしなさいと言うことをする。それだけです。そうであれば、失敗とは何か。それは、福音を布に包んでしまってしまうこと、福音を隠し、福音を見えなくしてしまうことです。自分がキリスト者であることを、自分が信じ、自分がそれによって生かされている主イエスの福音を、隠してしまうことです。
主人は、王の位を受けて帰るために遠い国へ旅立つことになったと言います。やがて、王の位を受けて戻ってくる。これが再臨です。主イエスが、まことの王として、神の国を完成する為に再び来られるということです。
主イエスは、「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。」(一二節)、「しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。」(一四節)と言われました。主イエスは、ご自身が王として戻って来られることを、人々は望んではいないと言われます。だから、一ムナ与えられた僕たちが、それを増やすということは、逆風の中での働きであることを主イエスは知っておられたのです。しかし、その逆風の中の営みであったとしても、その逆風を恐れて何もしない、増やそうとしない。主イエスに与えられた神の福音を、神の言葉を隠すなと主イエスはおっしゃったのです。福音を伝えていくのに、何の苦労もない時代も場所もありません。いつでも、どこでも、福音を伝えていくということは逆風の中での営みです。しかし、失敗を恐れたくないのです。最初から、神のための働きに失敗などありません。
主人が王となって帰って来るのを待っている僕たち、それが、主イエス・キリストを信じる信仰者の姿です。私たちの人生は、それ自体が恵みの賜物です。主イエスが、私たちに福音を託されそこで「生きなさい」、仰って下さる。「力強い愛を注いで、私は行く先を導くから、生きてみなさい」、仰る。
喩えに出てくる主人は、十ムナ儲けた僕に言いました。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』主人にとって一ムナは、ごく小さなもの。つまりそれほどに、主イエスは大きいんです。迷ったり、躓いたり失敗する。これを過剰に恐れるべきではありません。かえって踏み出す中で、歩んで行く中で、私たちは主イエスの大きさを知るんです。一ムナの人生を、五倍にも十倍にも変えてくださる主イエスの恵みの大きさを知って行く。たとえ話は、最後に述べています。
ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」(二七節)
これは終末の時に、神に背く者たちに与えられる裁きを示すものです。裁かれるから、怖いから一生懸命生きましょう。こうではありません。いつか終わりが来る、と言っているんです。私たちは限りのあるいのちを生きています。だから、遅くならないうちに立ち上がりましょう。私たちのために十字架について、復活を遂げてくださった主イエスを信頼します。この方を信頼して、その後ろ姿を見失わないようにして、自分らしく一歩を踏み出し福音を伝えて行けばいいんです。