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「自分の決められた道を走り通し」

イザヤ12:1~6
使徒言行録20:17~38

主日礼拝

牧師 井ノ川勝

2023年8月20日

00:00 / 37:54

1.①先週、『本のひろば』というキリスト教書籍の新刊を紹介する月刊誌が送られて来ました。その冒頭に、「本との出会い」というコーナーがあり、様々な伝道者、神学者が、自分を変えた本との出会いを綴っています。私も以前、執筆したことがあります。先週、届いた『本のひろば』では、ある女性伝道者が交換留学生としてオーストラリアに行った時の思い出を綴っていました。環境の変化、言葉の壁、様々なことで、留学に対し抱いて希望が折れてしまい、寂しさの中に置かれてしまいました。その時、中学校のクラス担任から本が送られて来ました。「時間があったらこの本を読みなさい」というメモが添えられてありました。その本とは、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』でした。エンデはドイツの児童文学者であり、『モモ』を始めとして、世界中の子どもたち、人々に愛読されています。この伝道者は一晩でいっきに、『はてしない物語』を読みました。恩師は恐らくホームシックに罹っているのではないかと心配し、この本を送って来られたのです。エンデはこう語っています。

「本当の物語は、みんなそれぞれにはてしない物語なんだよ」。

 私ども一人一人は誰も、自分のストーリーを思い描きながら生きています。私はこのような物語の主人公となって生きたいと願っています。しかし、しばしば私どもは自分の思い描いたようなストーリーを生きることが出来ません。失敗と挫折を繰り返します。挫折から立ち直ることが出来なくなります。

こんなはずではなかったと、打ち破られた自分の夢物語ばかりを追うようになります。それではいつまで経っても、立ち上がることは出来ません。

 しかし、そのような時にこそ、聖書の御言葉と出会ってほしいのです。聖書は神のはてしない物語が綴られています。神のはてしない物語に触れた時、私の新しい物語、ストーリーが始まるのです。私の小さな物語が、実は、神のはてしない物語の中に組み込まれて、新しい物語を生きることが出来るようになるのです。

 

②この朝、伝道者パウロが語ったこの言葉に注目したいのです。

「しかし、自分の決められた道を走り通し」。

 ここで注意をしてほしいのです。「自分が決めた道を走り通し」ではありません。「自分の決められた道を走り通し」です。言い換えればこうなります。「神に示された自分の決められた道を走り通し」。

パウロには自分の思い描いていたストーリーがありました。ユダヤ人の信仰の中心にある律法を究め、成果を上げ、律法学者として大成し、皆から賞賛を浴びることでした。また、パウロは熱烈なユダヤ教徒として、十字架につけられたイエスを救い主と信ずるキリスト教会を迫害し、キリスト者を一人も残さず断つことを目的としていました。ところが、甦られたキリストと出会うことにより、自分の思い描いたストーリーを覆され、神のはてしない物語の中に、自分の新しいストーリーを組み入れられたのです。キリスト教会の最大の敵が、世界の民族に、キリストを伝える伝道者として召し出されたのです。それ以来、伝道者パウロは神に示された自分の道を走り通して来ました。

 パウロは自らの伝道者としての人生を、「歩く」というよりも、「走る」ことで捕らえて来ました。ここにパウロの特色ある人生の捉え方があります。パウロは「走る」ことを繰り返し語っています。

「キリストの日に、自分が走ったことが無駄でなく」。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。「あなたがたも賞を得るように走りなさい」。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた行程を走りとおし」。

 

2.①私が大学に入学して最初に出会った説教集があります。東京神学大学の大木英夫先生の『キリスト入門』です。大学の正門の前に、小さなキリスト教書店がありました。お金がないものですから、いつも立ち読みが多かったのですが、女性の店主はいつも笑顔で優しい方でした。キリスト者とはこういう方なのだと思わされました。書棚には『キリスト教入門』という本は沢山並べられてありましたが、『キリスト入門』は大木先生の一冊の本だけでした。キリスト教という教養、知識の入門ではなく、生けるキリストに直接お会いし、キリストという門に入門する。そのことを目指す説教集でした。この説教集は立ち読みではなく、購入しました。その説教集の中に、「走れパウロ」という題の説教がありました。太宰治の『走れメロス』と重ね合わせながら語った説教です。キリストと出会った者は、パウロのように走り出す人生を送るのだと語られていました。そして私もパウロのように、神に示された自分の決められた道を走り通す人生を送りたいと願いました。

 パウロは何故、走り出すのでしょうか。歩き出すことから走り出すことに変えられたのでしょうか。「わたしは、霊に促されて」と語っています。この言葉は面白い言葉です。「御霊に縛られて」、「御霊に絡められて」とも訳すことが出来ます。御霊に縛られてしまったら、身動きが取れなくなる。不自由極まりないと思ってしまいます。しかし、御霊に縛られると、そこでこそ本当に自由を与えられ、自分らしく喜んで生きることが出来るのです。

 パウロは何度も伝道旅行に出かけました。ところが、自分の立てた伝道計画がことごとく失敗に終わる。行く先々、伝道の門が閉ざされてしまった。伝道の挫折を味わいました。頭を抱え込みながら、もう駄目だと諦めかけながらも、神に祈り求めた。ところが、聖霊が思い掛けない伝道の道を拓いて下さった。エーゲ海を越えて、ギリシャ半島にキリストを伝える道を拓いて下さった。こうしてパウロは聖霊に捕らえられて、キリストを初めてヨーロッパ大陸に運んだのです。パウロの伝道計画になかったことです。御霊に捕らえられたからこそ、御霊の示しを受けて、パウロは走り出したのです。しかも、パウロ一人で走り出したのではありません。伝道者の仲間と共に走り出したのです。それ故、今日の御言葉の主語は「わたしたち」と複数形になっています。自分が決めた道を走り通していた頃、パウロはただ一人で走っていました。ただ一人でいつも先頭を走り、優越感に浸っていました。しかし、甦られたキリストと出会い、キリストによって自分の決められた道を走り通すようになってから、パウロはただ一人で走らなくなりました。共に走る仲間が与えられました。そこにパウロの走り通す人生の特色があります。

パラリンピックの視覚障がい者のマラソンを観て、すぐに気づくことがあります。伴走者がいることです。しかも視覚障がい者と伴走者とが輪になった一本の紐で結ばれていることです。一人で走るのではなく、伴走者とランナーは共に走ることで繋がり、サポートを受けます。お互いが信じ合うことにより、目標を目指して走ることが出来ます。

伝道者パウロにとっての伴走者、それは生けるキリストです。聖霊です。そして伝道者の仲間です。パウロの傍らにいつも伴走者がいたからこそ、走り通すことが出来るのです。ここに教会の姿があります。

 

②伝道者パウロはこう語っています。

「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」。

パウロが死を覚悟して語った言葉です。この言葉は、パウロの3回に亘る伝道旅行の最後の場面で語られた説教の言葉です。パウロと一行は小アジアの港町ミレトスに寄航しました。後はエルサレムに向かって帰るだけ。しかし、最後にどうしても会いたい人々がいた。エフェソ教会の長老たちです。パウロが三年間、腰を据えて伝道して生まれた教会です。パウロはエフェソの長老たちを呼び寄せ、御言葉を語りました。その説教が、別れの説教、遺言説教と言われています。もう二度と会うことはない。涙を流しながら語った説教です。涙を流しながら聴いた説教です。説教を語り、説教を聴くことは、将に一期一会の出来事です。次の機会にまた御言葉を語り、聴けるという保証は一切ありません。

パウロは遺言説教で一体何を語ったのでしょうか。しばしば教会とは何か、教会は何のために、この世界の只中に立っているのか、教会の使命とは何か、と問われることがあります。その時に必ず指摘される御言葉が、パウロのこの遺言説教なのです。パウロは語ります。

「そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。だから、特に今日ははっきり言います。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです」。

 こう前置きをして、核心部分を語ります。

「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」。

 教会は建物ではありません。主イエス・キリストの群れです。教会は、神が御子キリストの血によって御自分のものとなさった神の教会です。「神の教会」。この言葉が強調されています。教会は神のものです。そのために、神が御子キリストの血によって自分のものとなさったのです。牧師のものでもない、長老のものでもない、信徒のものでもない。神のもの、神の教会です。聖霊は、神の教会の世話をさせるために、牧会させるために、長老をこの群れの監督者に任命なさったのです。長老任職式に読まれる御言葉です。「監督」という言葉は、上に立つという意味ではありません。「群れ全体を見渡す」という言葉から生まれました。

 当時の教会は今日のように、一つの教会に一人の牧師が定住する程、伝道者が多くはいませんでした。幾つもの教会を巡回しながら伝道しました。それぞれの教会は、信徒の中から選ばれ、立てられた長老が牧会したのです。長老の務めは神の教会を牧会することです。守り抜くことです。それが主キリストから託された任務です。「任務」という言葉は「義務」という意味でもあります。それはしなければならない義務です。逃れられない義務です。しかし、主キリストから託された義務だからこそ、「喜びの義務」なのです。

 ここでパウロは驚くべきことを語っています。教会は外からも、内からも試練と誘惑が入り込み、揺れ動くのです。私が去った後、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで、群れを荒らすかもしれない。更に驚くべきことは、あなたたがた長老の中からも、邪説を唱えて主の弟子たち、教会員たちを従わせようとする者が現れるかもしれない。だから、私が3年間、あなたがた一人一人に昼も夜も涙を流して教えて来た説教の御言葉を思い起こして、目を覚ましていなさい。長老にとって大切なことは、御言葉によっていつも目を覚ましていることです。御言葉によって目を覚ましていなければ、神の教会を牧会することも、守ることも出来ません。

 

3.①そしてパウロは語ります。

「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」。

 伝道者パウロはいつまでも、エフェソの長老と共にいることは出来ません。エフェソの長老たちと共に、神の教会を守り、牧会することは出来ません。主から託された次の使命のために旅立たなければなりません。伝道者にとって、それは後ろ髪を引かれるような厳しいことでした。パウロに今、出来ることはこのことだけでした。

「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」。

 この「委ねる」という言葉は別れの挨拶の言葉となりました。日本語で言えば、「さようなら」です。しかし、欧米の別れの挨拶の言葉は、「神にあなたを委ねます」という意味です。パウロのこの言葉から生まれました。私どもは礼拝が終わったら、「また来週、会いましょうね」と言って別れます。しかし、来週、再び会って、共に礼拝を捧げられる保証はありません。それが最後の別れになるかもしれないのです。それ故、「神にあなたを委ねます」と挨拶を交わし、別れるのです。この言葉は主イエスの十字架上での最後の祈りの言葉となりました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。従って、臨終の祈りの言葉ともなりました。

 「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたを委ねます。神の恵みの言葉は、あなたがたを造り上げます」。

 この「造り上げる」という言葉は、「家を建てる」という意味でもあります。あなたがたの家を建てる。教会という家を建てて行く。そこから教会建築、教会形成という言葉が生まれました。しかし同時に、あなたの人格を造り上げる、という意味でもあります。神の恵みの言葉は、長老という人格を造り上げて行く。私という人格を造り上げて行く。教会は人間の人格を造り上げる神の言葉を語る使命が主から託されているのです。教会は神の御前で、自立した人間を造り上げるために、神の言葉を語る使命が主から託されているのです。

 

②パウロの遺言説教で更に、興味深いのは、結びの言葉です。

「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるより与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました」。

 パウロがここで引用した主イエスの言葉、「受けるより与える方が幸いである」。この御言葉は福音書には記されていません。福音書に記されることなく、伝えられた主イエスの御言葉があった。その代表的な御言葉です。しかし、主イエスが福音書で語られた御言葉と響き合っています。何よりも主イエスの地上のお姿を最もよく現している御言葉でもあります。「受けるより与える方が幸いである」。

 私どもは主の恵みを受けながら、周りの人々の愛を受けながら生きています。しかし、受けた主の恵みを自分の胸の内にそっと仕舞い込んでおくのではなく、受けた恵みを与えて生きることは、何と幸いなことかと、主イエスは語られるのです。伝道とは将に、主から受けた恵みを与える幸いに生きることです。伝道者パウロが遺言説教で最初に語った言葉は、このことに尽きるのです。

「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」。

 

4.①金沢南部教会で長く伝道、牧会された大隅啓三牧師が訳された説教集があります。スコットランドの優れた説教者であったジェームズ・スチュアート牧師の『永遠の王者』です。その説教集の最後に、「わたしはあなたがたを神にゆだねる」という題で、使徒言行録の今日の御言葉を説き明かした説教があります。素晴らしい説教です。

 教会は神とその恵みの言葉とに委ねながら、走り続ける、前進し続ける主の群れです。70代になっても、80代になっても、90代になっても、神の恵みの言葉によって、共に走り続ける、前進し続けるのです。一体どこまで走り続ける、前進し続けるのでしょうか。パウロが存在を懸けて語った御国、神の国に至るまでです。それは死を超えて、天にある永遠の教会を目指す旅でもあります。

スチュアート牧師は想像をたくましくして語ります。御国において、パウロはダマスコへ向かう途上、甦られたキリストとの出会いを語るであろう。サマリアの女はヤクブの井戸で、キリストとお会いしたことを語るであろう。ペトロはガリラヤの湖で、大漁の奇跡を味わい、主イエスに従ったことを語るであろう。ザアカイはいちじく桑の木の上から主イエスと出会ったことを語るであろう。最後まで主イエスの甦りを疑ったトマスは、甦られたキリストと出会ったことを語るであろう。そして私どもも一人一人キリストとの出会いを語り出すであろう。このように、あなたがたが委ねた神とその恵みの御言葉は、あなたがたを造り上げ、更に、聖別されたすべての人々と共に、御国を継がせる力があるのです。

 

②教会は本当に不思議な群れだと思います。赤ちゃんから90歳を越えた方まで、様々な年代の方が、様々な境遇で生まれ育った方が、しかし、主イエス・キリストによって呼び出され、神の教会、キリストの群れに加えられ、御国を目指して、共に自分の決められた道を走り通す群れとされている。私どもの計画になかったことです。ただ御霊に捕らえられたからです。神のはてしない物語を生きる者とされました。願わくば、私どもが一丸となって走り通す姿勢を通して、主から受けた恵み、ひたすら与える幸いに生きたいと願います。

 

 お祈りいたします。

「御霊が私どもを捕らえました。神のはてしない物語を生きる者とされました。神が御子の血で御自分のものとなさった神の教会に連なって生きる者とされました。神とその恵みの言葉とに委ねて、御国を目指して走り通す私どもの足取りを軽やかなものにして下さい。主から受けた恵みを与える幸いに生きさせて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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