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「自分の足で立て」

エゼキエル書 2章1~3節
使徒言行録 26章12~33節

「主日礼拝」

井ノ川 勝 牧師

2026年5月24日

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2026.5.24. 「自分の足で立て」

      エゼキエル2:1~3:3,使徒言行録26:12~33


1.①今朝の礼拝にも、多くの高校生が出席されています。日々、高校生活を送りながら、問いかけることがあると思います。何故、こんなにも多くのことを勉強しなければならないのか。高校生活での様々な学び、様々な経験、先生、友だちとの交わり。喜びもあれば、辛いこともいっぱいあります。挫折することもあります。しかし、全ては、自分の足で立つためです。自立した人間となるためです。しかし、問題は、自立した人間になるとはどういうことなのでしょうか。親から独立して生きることでしょうか。

 自分の足で立つ。自立した人間として生きる。このことは高校生だけに求められていることではありません。全ての人間に求められていることです。自立した人間として生きるとは、どういうことなのか。私ども全てに、日々、問われていることです。

 この朝も、私どもは、主に招かれて神の御前に立って、礼拝を捧げています。教会が願うことは、キリストを信じ、キリストに従って生きることです。信仰に生きることは、何も特別な人間になることではありません。信仰に生きることこそ、自分の足で立ち、自立した人間として生きることなのです。

 

「自分の足で立て」。実は、この御言葉を語られたのは、甦られた主イエス・キリストでした。しかも、教会の最大の敵、キリスト者を迫害していたパウロに向かって語られた御言葉でした。この朝、私どもが聴いた使徒言行録26章16節に、その御言葉が語られています。

「起き上がれ、自分の足で立て」。

 伝道者パウロが、甦られた主イエス・キリストと出会った出来事を振り返りながら、語った言葉です。実は、使徒言行録に、「パウロの回心」の出来事が三度記されています。その三回目が今日の御言葉です。伝道者パウロは捕らえられ、ローマ皇帝に引き渡されるために、ローマへ連れて行かれようとしている。それに先だち、ローマから遣わされたフェストス、ユダヤの王アツリッパの前で審問を受けた。その時、パウロは自らの回心の出来事を語りながら、二人に向かって弁明をしました。いや、説教をしました。伝道をしました。自らの回心の出来事を語った三度目の回心の御言葉には、一回目、二回目の回心の御言葉には語られていなかった、甦られた主イエスの御言葉が語られています。それがこの御言葉です。

「起き上がれ、自分の足で立て」。

 

2.①元々、パウロは熱烈なユダヤ教の学者でした。十字架で誠にみすぼらし死に方をしたイエスを救い主として拝むキリスト者に我慢がなりませんでした。一人一人を片っ端から捕らえ、牢屋にぶち込みました。教会の最大の敵、迫害者として恐れられていました。

 この時も、エルサレムから遠いシリアのダマスコまで逃げて行ったキリスト者たちを捕まえるために、パウロは追いかけて行きました。ダマスコに近づいた時、突然、天から光が射し込んた。太陽よりも明るい眩しい光です。パウロは地に倒れた。その時、甦られた主イエスがパウロに語りかけました。

「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」。

キリスト者を迫害することは、取りも直さず、主イエスを迫害することだと、主イエスは語りかけた。この時、主イエスは更に語りかけた。

「突き棒を蹴ると痛い目に遭うものだ」。

この御言葉も三回目の回心の御言葉だけに記されています。当時の、格言とも言われています。家畜の首にくびきをはめ、田畑を耕す。家畜は嫌がって、前に進まない。その時、かかとの後ろに尖った棒を付けた。家畜が嫌がって後ろ足を蹴り上げると、その尖った棒に当たり、痛い目に遭う。それ故、前に進まざるを得ない。そのような日常生活から生まれた格言です。それと同じように、神に逆らうと、痛い目に遭う。しかし、神のご用のために働かされるようになる。

 「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」。

甦られた主イエスは、教会の迫害者に向かって、二度までも、「サウル、サウル」と名を呼びかけられる。パウロは答えた。

「主よ、あなたはどなたですか」。

パウロも、十字架でみすぼらしい死に方をし、蔑んでいたイエスを、「主よ」と呼んでいる。甦られた主イエスは答えられた。

「私は、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。私があなたに現れたのは、あなたが私を見たこと、そして、これから私が示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである」。

この御言葉がとても大切です。

「立ち上がれ、自分の足で立て。私があなたに現れたのは、あなたを私の奉仕や、私の証し人とするためである」。

 神は本当に驚くべきことを行われます。教会の最大の敵、迫害者パウロを捕らえて、キリストを伝える伝道者として召し、立てられたからです。これがパウロの回心の出来事、召命の出来事です。

 

さて、問題は、甦られた主イエスが語られた、「起き上がれ、自分の足で立て」。この御言葉には、どのような意味があるのかです。

 「自分の足で立て」。他人の手を借りるな。自分が身に着けた知識だけで、自分が培ってきた力だけで立ちなさい、という意味なのでしょうか。実は、パウロほど、自分の知識、自分の力だけで立って来た人物はいません。パウロがかつても自分を振り返り、自らの知識、力を誇っている御言葉があります。フィリピの信徒への手紙3章4節以下です。新約356頁。今日風に言い換えれば、こうなります。

 私は血統の良い家柄に生まれた。生後間もなく、神に選ばれたしるしを身に帯びた。名門の学校で、有名な学者から、律法の英才教育を受けた。一流の学校を首席で卒業し、律法の学者となった。知識だけではない。律法を守り、律法に生きることにおいて、非の打ち所のない者であった。家柄、学歴、業績、地位、全てにおいて、私は自分の足で立ち、自らを誇って生きて来た。

 ところが、甦られた主イエスとお会いし、私にとって誇りであったこれらのものが、キリストにあって塵芥となった。私はキリストの内に、本当の私を発見した。キリストと出会うことは、本当の私と出会うことです。自分を誇る生き方から、キリストのみを誇りとして生きる。それこそが、自分の足で立つことです。

 教会の迫害者であったパウロは、甦られた主イエスに捕らえられた。新しい使命を与えられて、自分の足で立つ者とされました。

「起き上がれ、自分の足で立て。私があなたに現れたのは、あなたを私の奉仕者、私の証し人とするためである」。

「自分の足で立て」と、甦られた主イエスから語りかけられる。それは同時に、甦られた主イエスから、新たな召し、使命を与えられて、キリストの奉仕者、キリストの証し人として立たせられ、遣わされる者とされることです。「立つ」ことが、召しと遣わされること、召命と派遣と結び付いています。

 

3.①本日は、聖霊降臨日、ペンテコステの礼拝を捧げています。天から聖霊が降り、主の群れ・教会が誕生し、全世界の民族に向かって、キリストの福音を語り始めた出来事が起こった日です。それを記しているのが、使徒言行録です。聖霊によって生まれた教会にとって、その後の教会の歩みを方向付ける出来事がありました。使徒言行録3章に記されています。

 生まれつき足の不自由な男に向かって、ペトロが語った御言葉です。

「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。

すると、男は躍り上がって立ち上がり、歩き出し、神を賛美するようになった。ここに、「立ち上がれ」という言葉が語られています。甦られた主イエスが語られた御言葉を、教会が語り出した。それがこの御言葉です。

「イエス・キリストの名によって立ち上がれ、歩きなさい」。

「自分の足で立て」。言い換えれば、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩き、神を賛美する」ことです。神を賛美するために、イエス・キリストの名によって、立ち上がることです。

 聖霊降臨の出来事は教会誕生の出来事です。全ての民族に、キリストの名を伝える伝道が始まった出来事です。世界中の全てのキリスト教会の出発点がここにあります。金沢教会の出発点がここにあります。教会は何のために、地上に生まれたのでしょうか。自分の足で立つ人間を生み出すためです。自立した人間を生み出すためです。イエス・キリストの名によって立ち上がり、神を賛美する人間を生み出すためです。そこに自立した人間の姿があるからです。

 

明治の初め、アメリカの諸教会から遣わされた宣教師が、日本の各地で、生けるキリストを伝えました。北陸の地には、トマス・ウィン宣教師、イライザ夫人が遣わされました。宣教師が語る福音を通して、日本人は初めて、神の御前に立つことを経験しました。神の面前に、一人一人が立つことを経験しました。それはこれまで経験したことのない、背筋が真っ直ぐに立つ畏れを伴うものでした。同時に、天におられる神を、イエス・キリストの名によって、「アッバ、父よ」「われらの父よ」と呼ぶ喜びを伴うものでした。今まで経験したことのないものでした。天の父の香りを嗅ぐ経験をしました。

 日本人は神社を参拝する時、一人一人が自分の都合の良い時間に参拝します。しかし、教会の礼拝は、主の日の朝、主に呼ばれ、主の群れとして、神の御前に立ちます。それは同時に、主の群れに属する一人一人が、神の面前に立つことでもあります。

 神は私ども一人一人の名を呼び、語りかけます。私ども一人一人は、神の呼びかけに応えて、「アッバ、父よ」と呼びます。神は神の面前に立つ私ども一人一人に、キリストの奉仕者、キリストの証し人として生きなさいと、召しを与え、遣わされます。甦られた主イエス・キリストの呼びかけに、応えて生きる。キリストから託された召しと使命に、喜んで応えて生きる。それこそが、自分の足で立て、自立した人間として生きよ、です。

 明治の青年たちは、日本の近代化のため、キリストの召しに応え、ある者は伝道者、ある者は教育者、ある者は政治家、ある者は実業家として、社会の中で、自分の足で立つ、キリストの名によって立つ者として、奉仕したのです。

 

4.①「自分の足で立て」。甦られた主イエス・キリストが語られたこの御言葉は、既に、神が語られています。エゼキルを預言者として召した時です。それがエゼキエル書2章、3章の、「エゼキエルの召命の出来事」です。

 「主は私に言われた。『人の子よ、自分の足で立ちなさい。私はあなたに語ろう』。主が語られたとき、霊が私の中に入り、私を自分の足で立たせた」。

 甦られた主イエスは、エゼキエルを召したこの神の御言葉を心に刻みながら、パウロに語られたのだと言えます。「自分の足で立て」。この御言葉がやはり、預言者として立てる主の召しと結び付いています。ここで注目すべきことは、主がこの御言葉を語られた時、霊がエゼキエルの中に入り、自分の足で立たせたことです。霊がエゼキエルの中に入る。それはどういうことなのか。その後で、主は語られます。

「人の子よ、口を開け、私が与えるものを食べなさい」。エゼキエルが見ると、主の御手には巻物があった。表にも裏にも文字が記されていた。哀歌と呻きと嘆きの言葉が記されていた。神の御言葉です。主は語られた。

 「人の子よ、私が与えるこの巻物を食べ、それで腹を満たしなさい」。エゼキエルが神の御言葉を食べると、口の中で蜜のように甘かった。神の御言葉は聴くものではなく、いのちの糧として食べるもの。哀歌と呻きと嘆きの御言葉も、何度も咀嚼し、噛み締めると、蜜のように甘くなる。

 自分の足で立て。それは、聖霊が注がれ、御言葉を食べて、主の召しに応えて立ち上がることです。それは伝道者、預言者だけでなく、信徒一人一人にも呼びかけられていることです。

 

「自分の足で立て」。甦られた主イエスがこの御言葉を語られた時に、もう一つ心に刻んでおられた御言葉があります。それがエゼキエル書37章です。旧約1338頁。

 戦いにより、神の都エルサレムは陥落し、神の民は遠い異教の地で捕囚の民として生活を余儀なくされました。バビロン捕囚の出来事です。預言者エゼキルはその現実を目の当たりにしました。平野にはおびただしい骨があり、枯れ果てていました。それが、バビロン捕囚状態にあった神の民の現実でした。主はエゼキエルに語りかけた。

「人の子よ、この骨は生き返ることができるか」。

エゼキエルは答えた。

「主なる神よ、あなたはご存じです」。

 先週の火曜日、水曜日、名古屋中央教会で、中部教区総会が行われました。中部教区は北陸3県、東海3県の102の教会、伝道所の集まりです。1日目の夕、中部教区の諸教会の現状と将来を巡って、懇談会が行われました。どの教会も厳しい教勢と財政状況にあります。それぞれの教会を支えて来た信徒が次々に主の御許にめされる。献身者が減少し、伝道者を派遣出来ず、無牧師の教会が増えています。数字だけ見れば、教会の将来は明るい兆しは全く見えない。闇で覆われています。私どもが生きる今日の世界も、戦争、紛争の対立の中にあって、どこを見ても枯れた骨が横たわっている現実です。教会もまた、枯れた骨が横たわっているような現実です。どこにも希望が見えない。心までもが絶望に支配されてします。将に、枯れた骨に化してします。そのような現実を前にして、主は私どもに尋ねるのです。

「人の子よ、この骨は生き返ることができるか」。

私どもは答えます。

「主なる神よ、あなたはご存じです」。

 主は預言者エゼキエルに語ります。

「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる。今、私はあなたがたの中に霊を吹き込む。するとあなたがたは生き返る。私はあなたがたの上に筋を付け、肉を生じさせ、皮膚で覆い、その中に霊を与える。するとあなたがたは生き返る。こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる」。

 エゼキエルは主が語られた通りに、御言葉を語りました。

「霊よ、四方から吹いて来い。これら殺された者の中に吹きつけよ。彼らは生き返る」。

 すると、霊が枯れた骨に化した神の民の中に入った。神の民は生き返り、自分の足で立ち、おびただしい大軍、集団となった。ここにも「自分の足で立つ」という御言葉が語られます。御霊と御言葉により、神の民が自分の足で立ち上がった。聖霊降臨の出来事が起きた。神の民として立つことと、神の民の一人一人が立つことは一つなのです。神の民が聖霊と御言葉によって、生き返り、自分の足で立つ集団となった。枯れた骨に化した神の民を再生させるのは、ただ神の御霊と御言葉による以外にはない。

 

5.①厳しい教会の現実を目の当たりにし、私どもの信仰、心までも枯れた骨と化してしまう。それこそが深刻な問題です。枯れた骨に化した神の民を再生させるものは、神の霊と御言葉による以外にはないのです。甦られた主イエスが、家の中に閉じこもっていた弟子たちに、真っ先に語られ、行われたことは何か。「聖霊を受けよ」。甦られたいのちの息を、弟子たちに注がれた。枯れた骨に化した弟子たちは再生し、扉を開いて、御言葉を語り出した。

「主イエス・キリストは甦って、生きておられる」。

 枯れた骨に化した世界の再生のためには、神の民の再生が欠くことが出来ません。たとえ小さな主の群れであっても、神の霊と御言葉により再生した神の民・教会が、世界の再生のため執り成すために、自分の足で立つのです。

 

本日、「ニカイア信条」を告白しました。「使徒信条」と共に、全てのキリスト教会の土台にある信仰告白です。日本の教会の最初の信仰告白にも影響を与えた大切な信仰告白です。中でも、聖霊への信仰が明確です。

「われらは、主にして、命を与える聖霊を信ず」。

この聖霊信仰への上に、われらの教会は健やかに立つのです。

 

 お祈りいたします。

「聖霊を注いで下さい。御言葉を語りかけて下さい。枯れた骨と化した私どもの心、硬直した神の民の信仰を、霊と御言葉によって打ち砕いて下さい。新たに造り替えて下さい。教会の主、世界の主である神を賛美するために、立ち上がらせて下さい。聖霊の道具として、神の民に連なる私ども一人一人を遣わして下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

 

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