「自分の足で立て」
エゼキエル書2:1~10
使徒言行録26:12~18
主日礼拝
井ノ川勝
2025年2月16日
1.①先日、北陸学院と東京神学大学から卒業式の案内が届きました。そのお知らせを読みながら、ああ、後半月すると卒業式のシーズンなのだと、改めて思いました。金沢教会で礼拝を捧げている高校3年生、大学4年生にとって、新しい旅立ちが近づいています。高校、大学で学びをする。何故、私どもは学ぶのか。それは高校生、大学生がいつも問いかけている問いです。そのような問いかけに対する答えの真ん中に立つのは、自分の足で立つためです。自立した人間となるためです。
それでは自分の足で立つ。自立した人間となるとは、どういうことなのでしょうか。この朝、私どもが聴いたエゼキエル書2章、使徒言行録26章の御言葉において、主なる神が預言者エゼキエル、伝道者パウロに向かって、共通して語りかけている御言葉があります。「自分の足で立て」。主なる神が求めておられることがある。それは神の御前で自分の足で立ち、自立した人間として生きよということです。一体どういう思いを込めて、主なる神はこの御言葉を語られているのでしょうか。
②使徒言行録26章12節以下の御言葉に注目したいと願います。この場面はどのような場面なのでしょうか。伝道者パウロは捕らえられ、ローマに護送されることになりました。ローマに旅立つ前に、カイサリアで、ローマの総督フェストゥスと、ユダヤの王アグリッパの前で、伝道者パウロは弁明する機会が与えられました。一人は異邦人の権力者、もう一人はユダヤ人の権力者の前で、伝道者パウロは謂わば、神の言葉を語る。説教をしています。説教は礼拝でなされるものでありますが、同時に、裁判の席で、権力者を前にしてなされるものでもあります。ここで伝道者パウロは心動かす説教をしています。
日本のプロテスタント教会の第二世代の代表的な伝道者に、髙倉徳太郎牧師がいました。力ある御言葉を語る説教者でした。この御言葉で説教をしています。その説教題は、「福音者の迫力」です。二人の権力者の前で、福音を語る伝道者パウロは聖霊に執り成されて、大胆に生けるキリストを証ししている。そこには「福音者の迫力」がある。福音を語る者の迫力がある。一体どのような御言葉を、伝道者パウロはここで語ったのだろうか。
2.①伝道者パウロは自らの回心の出来事を語っているのです。甦られた主イエス・キリストがキリスト者を迫害し、教会の敵であったこの私にも現れ、この私を異邦人にキリストを伝える伝道者へと召し出して下さった。この使徒言行録で、パウロの回心の出来事が語られるのは、三度目です。9章、22章、そしてこの26章で語られています。語られている内容は同じです。しかし、三度目の自らの回心を語るこの場面で、初めて語られている御言葉があります。それが重要なことです。
パウロは自らの回心の出来事をこう語ります。国境を越えて、シリアのダマスコへ逃げたキリスト者たちを追いかけて、パウロはダマスコへ向かいました。その途中、パウロは天からの光を見ました。その光は太陽よりも明るく輝き、パウロと同行していた者たちの周りを照らしました。パウロたちはその光の前に、地に倒れました。その光こそ、甦られた主イエス・キリストであったのです。甦られた主イエスはパウロに語りかけます。
「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。
甦られた主イエスはサウルの名を二度まで呼びかけます。「サウル」、甦られた主イエスと出会う前の名です。この時、サウルは初めて甦られた主イエスと出会ったのです。ところが、甦られた主イエスはサウルの名を知っておられた。しかも、キリスト者を迫害することは、わたしを迫害することなのだと、心痛めておられます。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。
その後に語られた御言葉が、ここで初めて登場します。
「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」。
当時の格言だと言われています。元々は農耕で使われていた言葉です。牛の首に軛をはめ、田畑を耕す。牛が真っ直ぐに歩かないと、牛の足にとげの付いた棒で、真っ直ぐに歩くよう誘導する。そこから生まれた言葉です。自分より大いなる存在を蹴飛ばすと、怪我をする。パウロはキリスト者を迫害した。それは取りも直さず、主イエス・キリストを迫害し、反抗していたことであった。
光の前で打ち倒されたパウロは尋ねます。「主よ、あなたはどなたですか」。甦られた主イエスは答えられました。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ、自分の足で立て」。
「起き上がれ、自分の足で立て」。この御言葉こそ、三度目の自らの回心の出来事を語る中で、初めて登場した御言葉です。注目すべき御言葉です。
②しかし、考えて見れば、とても不思議です。パウロ程、自分の足で立ち、自立した人間として歩んで来た人物はいません。パウロが甦られた主イエスと出会う前の自らを語った御言葉があります。パウロの履歴書です。フィリピの信徒への手紙3章5~6節です。新約364頁。
「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」。
現代風に言い換えればこうなります。私は由緒ある家の出身。誰よりも熱心に学び、一流の大学を出て、律法学者となり、数々の業績を上げ、社会から評価されて来た。将に、パウロは自分の足で立ち、自立した人間であることを誇っていたのです。
ところが、甦られた主イエス・キリストは、そのようなパウロを打ち倒し、打ち砕き、起き上がれ、自分の足で立てと、命じられるのです。主イエスが命じられる「自分の足で立て」とは、どういう意味なのでしょうか。
もう一度、甦られた主イエス・キリストがパウロに語られた御言葉に、注目しましょう。
「起き上がれ、自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす」。
教会の迫害者であったパウロを、甦られた主イエス・キリストは打ち倒し、打ち砕き、神に立ち帰らせ、悔い改めさせ、そしてキリストの奉仕者、キリストの証人として立たせ、キリストを全世界の人々に証しするために遣わされる。主は驚くべきことを行われました。自分の足で立て。それは甦られた主イエス・キリストから新しい召命を与えられることです。キリストから新しい使命を託されて、キリストの奉仕者、証人として召し出されることです。キリストから召し出され、使命を託され、遣わされることです。それが自分の足で立て、自立して生きよということです。
伝道者パウロは、22節でこう語っています。
「私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べませんでした」。
自分の足で立て。それは主の助けをいただいて、固く立つことです。主が私どもを主の御用のために立たせ、用いて下さる。それ故、主にあって自分の足で立て。伝道者パウロは語ります。私は主から託されたこと以外、何一つ語ったことはなかった。私は唯一の光・甦られた主イエス・キリストのみを語り伝えて来た。
パウロはこれまで、自分は誰よりも学問、知識を身に着け、あらゆることが見えていると誇っていました。私には光が見えているのだと自負していました。しかし、パウロは見るべきものを見ていなかった。見るべきものに目を閉ざしていた。甦られた主イエス・キリストに出会うことにより、自分の足で立っていたパウロは打ち倒されました。私だけは見えると誇っていた目は見えなくなりました。しかし、甦られた主イエス・キリストによって、新たに召しを与えられ、キリストの証人として立ち上がらせていただき、唯一の光・甦られた主イエス・キリストを見る目を開かれたのです。
パウロは甦られた主イエスによって遣わされるのです。ユダヤ人も異邦人も、御言葉によって神に立ち帰らせ、目を開かせ、光である主があなたと共に生きておられることを見させるために。どんな苦しみ、悲しみの中にあっても、あなたを支配しているのはサタンでも、闇でもなく、甦られた主イエス・キリストの光の中にある。その光の中で自分の足で立とう。
3.①「自分の足で立て」。主なる神がエゼキエルを預言者として召し出された時に語られた御言葉でもあります。国が滅ぼされ、遠い異教の地で捕囚生活をしていた時、エゼキエルは主なる神の語りかけを聴きました。
「人の子よ、自分の足で立て」。主の霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。主の霊がわたしの中に入り、自分の足で立たせたとは、どういうことなのでしょうか。主なる神は語られます。
「口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」。
わたしが見ていると、主の手がわたしに差し伸べられた。その手に巻物があった。表にも裏にも文字が記されていた。哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。主は語られた。
「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ」。
わたしがその巻物を食べると、それは蜜のように口に甘かった。巻物の表と裏に記された言葉は、哀歌と呻きと嘆きの言葉です。神の審きの言葉です。苦くて辛い言葉です。しかし、それらの神の言葉を口に入れて、吐き出さず記、何度も何度も噛み締めると、その苦くて辛い言葉から蜜のような甘さが滲み出て来た。主の霊によって自分の足で立て。それは言い換えれば、主の御言葉によって自分の足で立て。主の御言葉を選り好みせず、何度も噛み締め、自分の足で立ちなさい。
エゼキエルは主から遣わされます。捕囚の地に連れて来られた神に反抗した神の民に、神の厳しい審きの言葉を伝えるために、主によって召し出され、自分の足で立たされ、遣わされたのです。
②今日は時間の関係で朗読しなかったのですが、使徒言行録26章24節以下の御言葉も、「自分の足で立て」という主題が展開されています。伝道者パウロが引き続き、ローマの総督フェストゥスと、ユダヤの王アグリッパの前で、説教している場面です。
フェストゥスは伝道者パウロの説教を聴き、大声で反応しました。
「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」。面白い反応です。しかし、福音に触れた者の誰もが抱く反応ではないでしょうか。ウィン宣教師が主から遣わされて北陸の地で、キリストを伝え、福音を伝えた。それに対して、北陸の人々はこういう歌を歌って反応しました。
「耶蘇教徒の弱虫は、磔拝んで、涙を流す」。
十字架で処刑されたイエスというみすぼらしい男を、私どもの救い主として涙を流して拝んでいる耶蘇教徒は、何と愚かなことだろうか。どう考えても、頭がおかしいとしか言いようがない。
それに対し、伝道者パウロは応えます。
「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います」。
伝道者パウロは異邦人、ユダヤ人を代表する二人の権力者の前で、弁明しつつ、二人に生けるキリストを伝えようと、必死に伝道しているのです。パウロのこの伝道説教も面白いですね。わたしは頭がおかしいわけではない。真実で理に適ったことを話している。フェストゥス閣下、アグリッパ王、あなたがたもご存じでしょう。主イエスが十字架で殺され、三日目に甦られた出来事を。この出来事は世界の片隅、歴史の片隅で起こった出来事ではありません。世界のど真ん中、歴史のど真ん中で起きた神の出来事です。それは世界、歴史に生きる全ての人々のために起きた出来事です。あなたがたのために起きた出来事です。それ故、あなたがたに関係のない出来事ではないのです。
アグリッパ王はすぐに反応して応えます。
「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」。
これも伝道者パウロの伝道に対する率直な反応です。あなたは短時間で私を説き伏せて、キリスト者にしてしまうつもりなのか。それに対する伝道者パウロの言葉は心惹かれる言葉です。
「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります」。
御言葉を受け入れるのに、短い時間であろうと長い時間であろうと問題ではない。大切なことは、今日、ここで、わたしが語る言葉を聞く全ての人がわたしのようになって下さることなのだ。「わたしのようになってほしい」。それが伝道者パウロの伝道説教の核心です。どういうことなのでしょうか。
伝道者パウロが繰り返し語った言葉があります。「わたしに倣う者となりなさい」。自分の足で立つ。それは伝道者であるわたしを見えれば、よく分かるでしょう。しばしばこれと相反することが語られます。伝道者であるわたしを見るな。わたしを見ると躓くから。わたしが指し示している主イエスだけを見なさい。しかし、それでは相手に福音が伝わらない。キリストの証人となって自分の足で立つことは、わたしのようになってほしい。わたしを生かしているのは、生ける主イエス・キリストなのだ。伝道者パウロはこのようにも語りました。わたしは「罪人の頭」「罪人の親分」。だからこそ、誰よりも真っ先に、誰よりも多く、キリストの憐れみを受けなければならない。その点で、わたしは全ての人のお手本、模範であるのだ。
ここで注目してほしいことがあります。伝道者パウロはこのように語っているのです。注意して聞いて下さい。
「今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります」。
私のようになってほしいと、私が説得するのではないのです。神に祈っているのです。神が聖霊を通して、あなたを説得してほしいと神に祈っているのです。伝道は聖霊の御業です。それ故、聖霊が必ず説得して下さることを信じ、神に祈るのです。
4.①私は伝道者パウロのこの伝道説教がとても好きです。もう一度、最後の御言葉を朗読します。
「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが」。
説教の最初で紹介した髙倉徳太郎牧師は、この伝道者パウロの御言葉を「福音者の迫力」と呼びました。同時に、伝道者パウロのユーモアがここにあります。御言葉を受け入れて、私のようになって下さい。しかし、鎖に繋がれることは別ですが。伝道者パウロは二人の権力者の手によって、囚人として捕らえられ、鉄の鎖に繋がれています。不自由な身です。ところが、パウロは全く自由です。自由に喜んで福音を、二人の権力者に向かって語っています。福音という目に見えない鎖に繋がれて、キリストの僕、奴隷とされたものは、不自由ではなく、諸々の力、諸霊から解き放たれて自由なのだ。自由のあるところに喜びがある。むしろ、二人の権力者こそ、権力の鎖に繋がれて、不自由ではないか。どうか生けるキリストを受け入れ、福音の鎖に繋がれて自由になってほしい。権力の鎖から解き放たれて自由になってほしい。そこにこそ自分の足で立てがあるのです。
しばしば洗礼を受け、キリスト者になると、いろいろと制約を受け、不自由になると心配される方があります。むしろ逆なのです。洗礼を受け、キリストに生かされて生きることは、諸々の力、諸霊から解き放たれて自由な喜びに生きることが出来るのです。そこに自立した生き方があるのです。
②東北大学でヨーロッパ思想史を専門とされていた宮田光雄さんが、『キリスト教と笑い』という本を書かれています。言い換えれば、「キリスト教とユーモア」です。第二次世界大戦下、ナチの支配下で、ユダヤ人や、ナチに抵抗した伝道者たちは厳しい弾圧を受けた。過酷で、望みなき深刻な状況の中で、しかし、福音に生きた。福音に生きることこそ神の自由に生きることです。福音から生まれるユーモアを忘れなかった。福音のユーモアは、深刻な心の中に、ゆとりを生み出す。福音の空間を生み出す。それが過酷な現実と向き合いながらも、自分の足で立って生きる勇気と力を与えたのです。
「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになって下さることを神に祈ります。このように鎖につながれていることは別ですが」。
キリストの福音という鎖に繋がれ、キリストの奴隷とされた私どもは、そこでこそ自分の足で立ち、真実な福音の自由、喜びに生きるのです。キリストの証人として立つ私どもは、あなたも私のようになってほしいと、生活を通して、言葉と存在を通して、私どもを生かすキリストを証しするのです。
お祈りいたします。
「主よ、私どもを捕らえて下さい。ただあなたの御言葉によって。私どもを福音の鎖に繋がれたキリストの奴隷として立たせて下さい。そこにこそ真実の自由、喜びがあるからです。あなたも私のようになってほしいと、キリストの証人として証しさせて下さい。神の御前でキリストにある自立した人間として生かして下さい。この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。