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「自分を救わぬ主イエス」

エゼキエル37:11~14
ルカ23:32~43

主日礼拝

井ノ川勝

2024年3月17日

00:00 / 37:44

1.①先週の火曜日、私は有志の伝道者と共に、能登半島地震で被災された七尾教会、輪島教会、富来伝道所を問安しました。冷たい雨が降り注ぐ中、輪島の町に立ちました。町はしいーんと静まりかえっていました。そこで生活する人々の声も、生活の匂いも聞こえ来ませんでした。昨年11月、地区の教師会を輪島教会で行いましたが、変わり果てた町並みに、言葉を失いました。牧師会後、教会の近くのうどん屋に行きましたが、そのうどん屋の建物も、多くの建物も全壊していました。以前のまま建っている家も、立ち入り禁止との札が貼られていました。輪島教会は土台から会堂が半壊し、牧師館も隣の建物が寄りかかっていて、破損していました。教会の再建、町の再建のためにどれ程の歳月が必要とされるのか想像することさえ出来ない程に、町全体が甚大な被害を受けていました。それはそこに生きている人々の心の被害を映し出していました。雨漏りがする礼拝堂で、新藤牧師を囲み、有志の伝道者と共に、祈りを捧げました。

 土台から半壊した輪島教会の会堂の屋根の十字架は倒れることなく、立ち続けていました。甚大な痛手を負った輪島の町を、いつものように見守っていました。十字架にかかり、甦られた主イエス・キリストのまなざしが、被災された町に、深い傷を負った町の一人一人に、変わることなく注がれているのだと、十字架を眺めながら心に刻みました。

 

②カトリックの信仰に生きた作家に、遠藤周作がいました。皆さんの中でも、その作品を愛読された方が多くいると思います。最近、日本キリスト教団出版局が、「遠藤周作探求」3巻を刊行されました。遠藤周作の代表作『沈黙』、最後の著作『深い河』を通して、著者が私どもに何を語りかけようとされたのかを読み解こうとするものです。私も改めてその著作を読み直しています。特に、最後の作品となりました『深い河』です。

誰もが人に打ち明けることの出来ない過去の罪、痛み、悲しみを心の奥に秘めながら生きています。誰もが自分では負いきれない過去の罪、過ち、心の傷、悲しみを、必死に背負いながら生きています。誰もが過去の罪、過ち、心の傷、悲しみを流してくれる深い河を求めています。

過去の罪、心の傷、悲しみを抱えて、それぞれがインド旅行に参加します。母なる河と呼ばれるガンジ河の前に立ちます。そこには群衆が押し寄せ、人生に纏わり付いた罪、汚れ、病、悲しみを洗い流しています。死体も流れて来ます。旅行に参加した女性が深い河を前にして、こう語ります。

「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です。その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています」。

しかし、作者はこの深い河に、救いがあるとは語っていません。本の題名『深い河』に、「ディープ・リバー」とカタカナの英語の文字が綴られています。黒人霊歌から採られた題名です。本の裏表紙に、黒人霊歌が掲げられています。

「深い河、神よ、わたしは河を渡って、集いの地に行きたい」。

目の前の深い河に救いがあるのではない。深い河の向こうに救いがある。私は河を渡って、集いの地に行きたい。この黒人霊歌に込められた祈りは、過去の罪、心の傷、悲しみを抱えて生きている私どもの切実な祈りでもあります。

 この『深き河』という小説に、通奏低音のように流れている歌があります。イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」です。各章の題名も、この「苦難の僕の歌」から採られています。

「彼は醜く、威厳もない。みじめで、みすぼらしい。

 人は彼を蔑み、みすてた

 忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる

 まことに彼は我々の病を負い

 我々の悲しみを担った」。

 この詩で歌われている、我々の病を担い、我々の悲しみを担った「苦難の僕」こそ、十字架につけられた主イエスであると、私どもは受け留めています。

 

2.①受難節の日々を歩んでいる私どもに、今日の主の日、与えられた御言葉は、ルカによる福音書23章32節以下の御言葉です。このような御言葉から始まっていました。

「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた」。

「人々はイエスを十字架につけた」。重い言葉です。問題は、主イエスを十字架につけた人々とは、誰を指しているのかです。主イエスを十字架につける場面では、実に多くの人々が登場しています。主イエスを裁いたローマの総督ピラト、ローマの兵士、信仰の指導者である祭司長、律法学者たち、ユダヤの群衆、主イエスと共に十字架につけられた二人の犯罪人です。これらの人々は民族も異なれば、身分も、立場も、考え方も全く異なります。しかし、主イエスを十字架につけることにおいては、一致しているのです。これらの人々が共通して語っている言葉があります。「自分を救ってみろ」。

 ユダヤの議員たちが主イエスをあざ笑って言いました。

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。

 ローマの兵士たちも主イエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して言いました。

「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。

 主イエスと共に十字架にかけられた犯罪人の一人が、主イエスをののしりながら言いました。

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。

「自分を救ってみろ」。主イエスへの嘲りの言葉です。「もし、お前が救い主であるならば、神の呪いのしるしである十字架から降りるという奇跡を行うことなど出来るはずではないか。自分を救えない救い主が、俺たちを救うことなど出来るはずはないではないか。自分を救えぬ救い主など、本物の救い主ではない。お前はやはり偽物の救い主であったのだ」。

 しかし、果たしてどうでしょうか。もしこの時、主イエスが十字架から降りて来たら、主イエスを救い主として認めたでしょうか。救い主として信じたでしょうか。決してしなかったと思います。人々は心の底から、主イエスを救い主だと信じていなかったからです。自分たちが期待する救い主ではなかったからです。自分たちの願い通りに動いてくれる救い主ではなかったからです。

 主イエスは十字架から降りようとはしませんでした。十字架の上に留まり続けました。主イエスには、自分を救うことなど一切関心がありませんでした。自分を救うことを放棄されました。人々を救うことに、全てを注ぎ込まれました。十字架の上に留まり続けることが、人々を救うことになるのだと信じていたからです。主イエスは十字架の上で、あの小説『深い河』で通奏低音となっていた、イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」を口ずさまれていたに違いありません。苦難の僕と十字架にかけられた自分自身とを重ね合わせていたに違いありません。

「彼は醜く、威厳もない。みじめで、みすぼらしい

 人は彼を蔑み、見すてた

 忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる

 まことに彼は我々の病を負い

 我々の悲しみを担った」。

 十字架で主イエスが負われたもの、それは私どもの負いきれない罪、過ち、私どもの癒されない病、痛み、悲しみ、私どもが受け入れられない不条理な苦しみであったのです。

 あの小説『深い河』で、裏表紙に掲げられている黒人霊歌の祈り。

「深い河、神よ、わたしは河を渡って、集いの地に行きたい」。

主イエスが私どもの全てを背負って、悲しみの象徴である深い河を渡って、死の象徴である深い河を渡って、集いの地、神の御許に運んで下さる。ここに私どもの救いがあるのです。

 

②「自分を救ってみろ」と、人々から大声で罵られていた時、主イエスは何をされていたのでしょうか。十字架の上で、主イエスはひたすら祈っておられました。その祈りを、ルカ福音書は書き留めています。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。

不思議な祈りです。「自分を救ってみろ」と、大声で罵り、嘲る人々に向かって、主イエスは十字架の上で、呪うことも、審くこともしていません。むしろ、赦しを祈られているのです。赦すことに集中して祈られています。誠に驚きです。このような祈りは、主イエスだけにしか出来ません。

 今、水曜日の祈祷会で、教会員の証しをしていただいています。私がどのようにして教会に導かれ、キリストと出会い、キリストに救われ、洗礼を受けたのかを話していただいています。そこで語られる中に、二つの出会いがあります。一つはキリスト者との出会いです。「私はこの方と出会ったから救われた」。キリスト者である両親との出会いがあります。キリスト者である北陸学院の教師との出会いがあります。キリスト者である北陸学院の友人との出会いがあります。もう一つは御言葉との出会いです。「私はこの御言葉によって救われた」。誰もが救いへ導かれた御言葉がある。多くの方が挙げられる御言葉の一つが、この御言葉です。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。

主イエスの十字架上の祈りが、将に、私のための祈りであったと受け留めたからです。

 宗教改革者ルターが、この十字架上の主イエスの祈りを説教されています。

「主イエスは十字架上で、大祭司として祈りを捧げておられる。われらを救うのは、他ならぬこの大祭司の祈りなのです」。大祭司とは、神と私どもとの間に立って、執り成しの祈りを捧げる者です。私どもを代表し、私どもに代わって、私どもの救いのために、自らのいのちを神に献げて執り成し祈る存在です。

 「父よ、彼らをお赦しください」。「赦す」という言葉は、ルカが繰り返し用いて、重んじる言葉です。例えば、ルカ福音書5章17節以下に、中風の男を板に乗せて、主イエスの許に運んで来た友人たちの物語がありました。家の中は群衆に阻まれて、入ることが出来なかった。しかし、友人たちは諦めなかった。屋根に上り、瓦をはがし、病院をつり降ろし、主イエスと出会わせた。主イエスは友人たちの信仰を見て、病人に向かって、「あなたの罪は赦された」と語られた。ところが、そこで律法学者たちと論争が起きた。彼らは語ります。

「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」。

主イエスは答えられた。

「わたしこそ、神から罪を赦す権威を授けられた人の子、救い主である」と。

病気を癒すことは医者でも出来る。しかし、罪を赦すことは神にしか出来ない。主イエスこそ罪を赦す権威を神から委ねられた救い主である。そして今、十字架上で、主イエスは自分を十字架につけた人々に向かって、罪の赦しを祈られています。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。

 

3.①それでは、私どもの罪が赦されるとは、どういうことなのでしょうか。「赦される」という言葉は、「解き放たれる」という意味でもあります。私どもは実に様々な目に見えない罪の縄目に縛られて生きています。想い出す度に苦しくて、呼吸困難に陥っています。胸がぎゅっと締め付けられます。拭い去ることの出来ない過去の罪、過ちがあります。取り返しのつかない失敗、後悔があります。癒されない心の傷、悲しみ、痛みがあります。解決出来ない重荷、苦しみがあります。このような目に見えない罪の縄目が、幾重にも私どもを縛り付けるのです。しかし、主イエスが私どものために、私どもに代わって、私どもの過去の罪も、過ちも、失敗も、後悔も、心の傷も、悲しみも、痛みも、重荷も、苦しみも、全てを負って下さった。そのことにより、私どもは解き放たれているのです。自由の呼吸をしているのです。解き放たれて生かされているのです。それが罪が赦されることです。

 十字架上の主イエスの祈りは短い祈りですが、一つ一つの言葉に深みがあります。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。

主イエスを十字架につけた人々は、恐らく、自分たちは義しいことをしていると自信満々に思ったことでしょう。「イエスという男は本物の救い主ではない。偽りの救い主だ。それ故、十字架につけて、神に呪われて滅ぶべき存在なのだ」。自分たちは正当な裁きをし、正当な理由で、正当な手段を用いて、主イエスを十字架につけたのだと胸を張ったことでしょう。しかし、主イエスは祈られました。「自分が何をしているのか知らないのです」。

 私どもには知っていて犯す罪、意識して犯す罪もあります。しかし、知らないで犯している罪も多くあるのです。無知な罪程、恐ろしいものはありません。神の御子、救い主を十字架にまでつけてしまうのですから。主イエスを十字架につけて殺すということは、神の言葉を十字架につけて殺すことでもあります。神の言葉を聴くことを拒み、抹殺するのです。

 新約聖書の多くの文書を書いている、最初の教会の代表的な伝道者パウロ、ルカと共に様々な民族に主イエス・キリストを伝えた伝道者パウロが、このような嘆きを上げています。

「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ8章15節、24節)。

 伝道者パウロはまた、こういう言葉も語っています。

「知識は人を高ぶらせます。・・自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」(コリント一8章1~2節)。

 自分では義しいと思ってしていることが、実は、主イエスの十字架のまなざしからすれば、自分が何をしているのか分かっていない。焦点のずれたことをしている。罪という言葉は、「的外れ」という意味でもあります。私どもの罪が、救い主であり、神の御子である主イエスを裁き、十字架につけるということで、最も鮮やかに明らかにされたのです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。

 

②説教の冒頭で、遠藤周作の最後の著作となった『深い河』を紹介しました。その最後の場面も、印象深いものです。マザー・テレサと同じ修道会に属している修道女が、倒れた人を介抱する場面があります。インド旅行に参加した男性が嘲って言います。

「意味ないな。そんなことぐらいで、印度に貧しい連中や物乞いはなくならないもの。むなしく滑稽にみえます」。同じ旅行に参加した女性が修道女に話しかけます。「何のために、そんなことを、なさっているのですか」。修道女は答えます。

「それしか・・この世界で信じられるものがありませんもの。わたしたちは」。

著者はそこにこういう言葉を添えています。「それしか、と言ったのか、その人しかと言ったのか、よく聞きとれなかった」。勿論、著者は「この世界で、その人しか信じられるものがありませんもの」と聞き取らせたかったのです。修道女が語った「この世界でその人しか信じられるものがありませんもの」。「その人」とは、この小説の通奏低音として歌われている「苦難の僕」です。十字架の主イエスです。

「彼は醜く、威厳もない。みじめで、みすぼらしい

 人は彼を蔑み、見すてた

 忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる

 まことに彼は我々の病を負い

 我々の悲しみを担った」。

 過去の罪、過ちに苛まれる私どもの真ん中に、多くの命が奪われ、多くの涙が流されている能登半島の被災地の真ん中に、憎み争う世界の真ん中に、十字架の主イエスが立たれる。十字架の上で、主イエスが捧げられた執り成しの祈りが立つのです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。

 

4.①ルカ福音書を綴ったルカは、最初の教会の物語である使徒言行録を第二部として綴りました。その最初に、教会の最初の殉教者ステパノの殉教の死の場面があります。7章54節以下です。石を投げつけられる中で、ステファノは天を見上げ祈りを捧げました。天が開き、甦られた主イエスが神の右に立って、ステファノを執り成しているお姿が見えた。ステファノは主イエスの執り成しの祈り声を合わせて祈られた。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」。主イエスは主の祈りを通して、私どもにこう祈りなさいと口移しされました。「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある者を皆赦しますから」。主の教会は、十字架の主イエスの執り成しの祈りを、世界の真ん中に立たせるために、主から使命を与えられているのです。世界の真ん中に立つのは、主の赦しなのです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」。

 

 お祈りいたします。

「自分こそが義しいと確信をもって犯す罪があります。知らずに犯す罪があります。主イエスのまなざしから見れば、私どもが行うことは、いつも的が外れています。十字架の主イエスの執り成しの祈り触れさせて下さい。自分の罪に気づかせて下さい。主イエスの執り成しによって、私どもを罪から解き放って下さい。主のために生きる者とさせて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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