「若者は幻を見、老人は夢を見る」
ヨエル3:1~5
使徒言行録2:14~24
井ノ川勝
2025年6月8日
1.①皆さんは今、どんな夢を抱いて生きているでしょうか。私ども人間は夢を見ながら生きています。しかし、私のように年齢を積み重ね、高齢になりますと、自分の遺された日々が僅かになっています。人生の終わりが見えて来ます。死と向き合わなければならなくなります。そういう現実と向き合って生きなければならなくなります。もはや夢など見ていられなくなります。夢を抱いて生きることは、若者にこそふさわしいと思ってしまいます。若者には将来の道が限りなく広がっています。様々な夢を抱きながら、将来へ向かって生きることが出来る。そのような若者を見ていると、うらやましさを感じることがあります。しかし、若者も、今日の閉塞状況の時代にあって、将来に対して夢を抱いて生きることが、なかなか困難になっています。今日の時代は、私どもの夢を呑み込んでしまうような時代となっています。
②この朝、私どもは特別な日を迎えました。地上で心を合わせて祈っていた弟子たちの群れに聖霊が降り、教会が誕生した日です。聖霊降臨日、ペンテコステと呼んでいます。地上に教会が誕生したということは、私どもにとって、一体どのような意味があったのでしょうか。この朝、私どもが聴いた使徒言行録は、ひと言で言い表しました。
「神は言われる。終わりの日に、私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」。
聖霊が注がれた時、若者は幻を見、老人は夢を見る。そのような主の群れが誕生した。
私どもの内側から生まれる夢は、儚く散って行きます。私どもの内側から生まれる幻は、幻想に変わり、幻滅して行きます。しかし、聖霊は私どもに主から与えられる幻、夢を見させて下さる。それは決して儚く散ることはありません。聖霊によって、若者は幻を見る。老人も夢を見る。幻を見ながら生きる主の群れ。夢を見ながら生きる主の群れ。そのような主の群れが、聖霊によって地上に誕生したのです。
2.①今日の御言葉は私にとって忘れられない御言葉です。私の伝道者としての原点にある御言葉です。神学校の4年生の時、『東京神学大学学報』に、「若き後輩諸君へ」というコーナーがありました。先輩伝道者が若い伝道者へ、伝道・牧会に関し助言する欄です。その中に、伊勢の山田教会の冨山光一牧師の文章がありました。「耕岩播種・魳の遠火焼き」という文章でした。その文章に感銘を受けました。伊勢神宮の前で、主から与えられた幻、夢を抱いて生き生きと伝道している主の群れがあることに、感動しました。まさか、神学校卒業後、伊勢の山田教会の伝道師として遣わされるとは思っても見なかったことでした。
「牧師として、忘れてはならぬのは、自分の教会がある此の地です。勿論、それぞれの土地の特色もあるでしょうが、どこについても云える事は、此の町は、神なく、キリストなく、自分が伝道せねば亡びる他ない町だ、と云う事です。しかも、問われるのは、此の町を、牧師であるわたしは、誰よりも愛しているか、と云う事です。まして蔑視したり敵視したりするのは、もっての也です。愛するからこそ、主キリストを宣べるのです。
しかも伝道は、決して気負い立ってするものとは限りません。大先輩から『伝道は魳の遠火焼きで』と教えられました。『かます』と云う肉のあつい魚を塩焼きにするこつです。ある年の元旦、参詣者の雑踏する伊勢神宮への道で、マイクを手に『こんな神様は、うその神様です』と叫びつづけた都会から来た伝道者の一団がありました。叫んでおいて、又すぐに帰って行くのです。こんな自己陶酔型の伝道をされては、耕岩播種も遠火焼きも帳消しです。伊勢神宮そのものと戦うためには、此の町の中に、何年かかっても教会につらなる本物のクリスチャンをつくる以外にない、と確信します。そして教会は、そのためにこそ、強くならねばならぬのです。何年かかろうと問題ではありません。所謂国家神道は、それ以外には、打ち破られないと信じています。
此の牧師の方針に沿う牧会に、之を支持する長老会の存在が、絶対に必要です。長老会は、教会を治める役をもつものですが、そのためには『強い長老会を作る』と云う事こそ大事です。云わば、牧会の中心は此の事です。使徒行伝2・14以下に、ペンテコステ当日の教会の第一声があります。そこでは、説教者のペテロ一人が立ち上がっているのではなく、『11人と共に』立ち上がっているのです。之が、教会の中核の姿です。説教を大事にする長老会、説教を中心におく役員会、をつくるために、心を配る事、之が教会だと、私は考えるのです」。
②心を合わせ祈っていた弟子たちの群れに、聖霊が降った時、弟子たちは何をしたのでしょうか。ペトロは11人の弟子と共に立ち上がり、声を張り上げて、御言葉を語り出しました。聖霊を注がれた教会は、人々に向かって、この世界に向かって、御言葉を語り出すのです。教会が誕生した日に語られた最初の説教となりました。それから2千年間、教会はどんなに厳しい時代にあっても、御言葉を語り続けて来ました。聖霊が注がれる時に、語るべき主の御言葉が与えられるのです。
説教は聖書の御言葉を語ります。ペトロの説教は、預言者ヨエルの御言葉を語るものでした。預言者ヨエルが預言した御言葉が、今将に、聖霊降臨の出来事において成就した、と語りました。
「神は言われる。終わりの日に、私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。その日、男女の奴隷にも、わが霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」。
主の霊は全ての肉なる者に注がれます。そこには何の差別も、区別もありません。聖霊によって主の群れに導かれるのは、若者、老人、息子、娘、男女の奴隷、全ての者たちです。この世においては、身分の差があります。差別があります。軽んじられています。しかし、聖霊によって招かれた者たちが交わる主の群れには、何の差別もありません。全ての者に聖霊が注がれ、全ての者が預言をする。すなわち、御言葉を語り出すのです。息子も、娘も、若者も、老人も、男女の奴隷も、皆、御言葉を語り出すのです。この世の社会にかつて存在しなかった交わり、主の群れが誕生しました。
聖霊によって主の群れに招かれた私どもは、聖霊を注がれた器です。聖霊の道具です。聖霊の楽器です。聖霊は神の息です。聖霊が注がれることにより、聖霊の楽器である私どもは、主を賛美する音色を奏でるのです。息子も、娘も、若者も、老人も、男女の奴隷も、主を賛美する音色を、この世界に向かって奏でるのです。
ペトロは預言者ヨエルの言葉を語りました。しかし、一箇所だけ変えた言葉があります。預言者ヨエルは、主の霊が注がれる終わりの日を、「主の大いなる恐るべき日が来る前に」と語りました。しかし、ペトロはこのように変えました。「主の大いなる輝かしい日が来る前に」。聖霊が注がれた時、全ての者が聖霊の楽器となって、主を賛美する音色を奏でる。それは何と輝かしいことではないか。主を賛美する音色を奏でることにより、あなたも共に主を賛美しようではないかと招くのです。それ故、ペトロは語るのです。
「しかし、主の名を呼び求める者、主の名を賛美する者は皆、救われる」。
3.①聖霊降臨の日に行われた教会の説教、ペトロの説教の中で、特に、この御言葉を心に留めたいと思います。
「若者は幻を見、老人は夢を見る」。
ここで、若者は幻を見、老人は夢を見ると、幻と夢を区別しています。しかし、いずれも主から与えられた幻、夢という意味で、内容の違いはないと云われています。聖書は様々な場面で、幻、夢を語ります。その場面を私どもは幾つも想い起こすことが出来ます。創世記のヤコブの夢、ヨセフの夢があります。預言者アモス、ダニエルが語る幻、見た幻があります。マリアの夫ヨセフが見た夢があります。黙示録で、伝道者ヨハネが見た幻があります。聖書は私どもに幻を与え、夢を見させる御言葉です。その中で、特に注目したいのが、箴言29章18節の御言葉です。旧約1014頁。
「幻がばければ民はちりぢりになる。教えを守る者は幸いである」。
新共同訳ではこのように訳されていました。
「幻がなければ民は堕落する」。
「幻なき民は滅びる」ということです。主の民が生き続けるか、滅びるかは、主が与えられる幻を見ているかどうかに関わっているのです。
口語訳ではこう訳されていました。
「幻がなければ民はわがままにふるまう」。面白い訳です。こちらの方が元の言葉に近いのです。主の民に生きる一人一人が、主から与えられる幻を見るのではなく、自分の内側から生まれる幻、自分勝手な幻を見、それを自己主張したら、わがままに振る舞うようになる。それ故、聖書協会共同訳はこう訳しました。
「幻がなければ民はちりぢりになる」。ちりぢりになって散って行く。それ故、幻なき民は堕落するのです。滅びるのです。
裏返して言えばこう言えます。主が与えて下さる幻によって、主の民は一つとされ、主の民として形造られるのです。
「幻がなければ民はちりぢりになる。教えを守る者は幸いである」。
ここで注目すべきことは、主の幻と主の教え、主の御言葉が一つであることです。主の幻は主の御言葉であるのです。
②4月の下旬、定期教会総会が開催されました。2025年の教会形成の方針、伝道計画が可決されました。そこで私が強調したことがあります。6年後の2031年5月1日、金沢教会は教会創立150周年を迎えます。教会員皆で、その日を迎えましょう。そのために教会が一つになって、お互い祈り合い、慰め合い、支え合って行きましょう。各部、各委員会が、主から託された伝道の幻は何か。それを祈りつつ、話し合ってほしい。長老会で報告してほしい。教会創立150周年への伝道の幻と課題を、今、各部・各委員会で話し合い、報告してもらっています。
金沢教会が所属している日本基督教団では、もう大分前より、2030年問題という言葉が飛び交っています。2030年になると、伝道者の数が、教会数を下回る。今、献身者が減少し、教団の各神学校も卒業生が少なくなっています。今既に、牧師のいない教会が増えており、一人の牧師が複数の教会を兼牧しています。石川地区も、内灘教会、恵泉教会が無牧師の状態です。各教会の礼拝出席者も減少しています。受洗者が与えられない状態です。
日本基督教団の月刊誌『信徒の友』で、教団総幹事が「2023年問題」を様々なデータを示して論じていました。これは日本基督教団だけの問題ではなく、他の教団も、カトリックも、献身者の減少、教会員の減少という事態に直面しています。統計的に見えれば、深刻な状態です。いろいろな伝道の手立てを打っても、効果が見られません。人間的に見れば、悲観的な状況ばかりが見えて来ます。
しかし、聖霊によって誕生した主の群れ・教会は、この世の統計に生きるのではありません。人間的な知恵に生きるのではありません。目の前の厳しい現実に逆らってまで、主から託された伝道の幻に生きるのです。主の幻を見ることにおいて、私どもが一つになるのです。主の幻を仰ぎ見ながら、前進して行くのです。
主の幻とは一体何でしょうか。甦られた主イエス・キリストは弟子たちに現れ、40日間寝食を共にされ、改めて御言葉を教えられました。十字架の意味、ご復活の意味を、御言葉を通して教え叩き込みました。甦られた主イエス・キリストが天に昇って行かれる時、弟子たちに向かって、主の幻を示されました。
「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」。
甦られた主イエス・キリストの伝道の幻こそ、主の群れ・教会の伝道の幻です。甦られた主イエスのまなざしは、エルサレムに留まっていません。ユダヤ、サマリアに留まっていません。地の果てまで及んでいます。地の果てまで、あなたがたは私の証人となって、生けるキリストを伝えるという遠大な伝道の幻を見ておられます。北陸伝道に遣わされたウィン宣教師、イライザ婦人が北陸の地に辿り着いた時、「ここが地の果てか」と思わず口にされました。地の果てである北陸の地を、甦られた主イエス・キリストは既にまなざしを注いでおられたのです。
4.①今から19年前、東京神学大学で実践神学を教えておられた山口隆康牧師が、『伝道の幻に生きる教会の建設』という小冊子を書かれました。その中心にあるのが、使徒言行録です。日本伝道論をいくら理屈で語っても、説明しても伝道は進展しない。「伝道の幻を生み出す伝道論」がどうしても必要である。それはただ聖霊によって導かれるものです。「幻(ヴィジョン)を描くことのできる伝道論」は、どこから生まれるのか。それは聖霊によって導かれる「伝道黙想」である。取り分け、使徒言行録を「伝道黙想」することにある。実際、山口牧師は「使徒言行録による伝道黙想」を幾つか紹介しています。
使徒言行録は聖霊よって教会が誕生し、聖霊によって生けるキリストが地の果てにまで伝えられて行く伝道物語です。伝道の主体は使徒たちにあるのではなく、聖霊です。それ故、聖霊行伝と呼ばれて来ました。
今、水曜日の祈祷会で、使徒言行録を採り上げたのも、このような理由があったからです。使徒言行録の御言葉を共に黙想することにより、主から伝道の幻を与えられ、一つの主の群れとなり、聖霊の道具、聖霊の楽器となって、一人一人が用いられたいと願ったからです。
聖霊は、私どもの伝道の行き詰まりを突破します。伝道の停滞に風穴を開け、新しい風を注ぎます。私どもの伝道計画の行き詰まりを超えて、思いも寄らない仕方で、新たな伝道の道を拓かれます。私どもの理屈、理論を超えて、神の奇跡を起こします。私の夫、私の友人を洗礼に導くのは無理だという私どもの愚かさを打ち砕き、洗礼への道を拓かれます。
②私が高校生の頃、ラジオの深夜放送が流行していました。その中に、大学受験講座もありました。英語の講座で、キング牧師の説教「私には夢がある」、ケネディー大統領の就任演説の一部が音声で流され、解説する内容がありました。二人の説教、演説は、いかにリズムカルで、イメージ豊かな言葉で語られているか。それを味わってほしいと解説していました。
キング牧師の説教「私には夢がある」は、厳しい黒人差別という現実を前にして語った説教です。
「私には夢がある。今は小さい私の四人の子供たちが、いつの日か肌の色ではなく、内なる人格で評価される国で住めるようになるという夢が。
私には夢がある。いつの日か幼い黒人の少年少女が、幼い白人の少年少女と手に手をとって姉妹兄弟となることができるという夢が。
私には夢がある。いつの日か、全ての谷は隆起し、丘や谷は低地となる。荒れ地は平らになり、歪んだ地も真っ直ぐになり、そして主の栄光が現れる。その光景を肉なる者が共に見るという夢である。
これがわれわれの希望なのだ。この信仰をもって私は南部に帰っていく。この信仰をもってすれば、われわれは絶望の山から希望の石を切り出すことができ、この国の騒々しい不協和音を美しい兄弟愛の交響曲に作り替えることができる。この信仰をもってすれば、われわれは共に働き、共に祈り、共に闘い、共に投獄され、また、いつの日か解き放たれると固く信じつつ共に自由の為に立ち上がることができるのだ。
そして、その日には、全ての神の子たちが、あの歌を新しい意味を込めて歌うことができるだろう。・・全ての村、全ての集落、全ての州、全ての町から自由の鐘を打ち鳴らせば、われわれは黒人であれ白人であれ、ユダヤ人であれ異邦人であれ、プロテスタントであれカトリックであれ、全ての神の子供たちが手に手を取り合って一緒に歌うことができるであろう、あの昔馴染みの黒人霊歌を。
『ついに自由だ!ついに自由だ!全能の神に感謝します。われわれはついに自由になった!』」。
「私には夢がある」。この言葉が繰り返されます。主の幻を仰ぎ見ることが出来るから、厳しい差別の現実に立ち向かうことが出来るのだ、と呼びかける説教です。
③「神は言われる。終わりの日に、私はすべての肉なる者にわが霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。その日、男女の奴隷にも、わが霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」。
聖霊は今、私どもにどのような御業を行い、幻を見せようとされているのでしょうか。私どもは祈り求めます。
「聖霊になる神よ、私どもを聖霊の道具として用いて下さい。聖霊の楽器として、あなたの賛美する音色を奏でさせて下さい」。
お祈りいたします。
「主よ、あなたの霊を注いで下さい。若者に幻を見させて下さい。老人に夢を見させて下さい。伝道の幻を見させて下さい。主の御言葉を奏でる聖霊の楽器として下さい。主の息吹を注ぎ、主への賛美の音色を奏でる主の群れとして下さい。主の幻を見つつ、主の伝道に喜んで生きる主の群れとして下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。