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「萎えた手と弱った膝をまっすぐに」

箴言4:18~27
ヘブライ12:1~13

主日礼拝

井ノ川勝

2025年1月19日

00:00 / 38:20

1.①お正月は様々な地域で、駅伝競争が行われていました。ニュースやテレビで見る機会がありました。駅伝競走の特徴は、一人のランナーが長距離を走るのではありません。複数のランナーがコースを分担して長距離を走ります。そこで重要な意味を持つのが「襷」です。一人のランナーが次のランナーに、襷を受け渡して行くのです。しかもその襷は、今回の競技に参加したランナーだけでなく、その大学が創部以来、先輩から引き渡された襷を受け継ぎ、引き渡して行くという意味が込められています。襷には創部以来の全てのランナーの祈りと魂が込められています。駅伝競走は日本で発祥した競技だと言われています。何故、日本人は駅伝競争に共感するのでしょうか。襷を受け渡しながら、長距離を走り抜いて行く。それが人生と重なるところがあるからです。同時に、私ども信仰者にとっては、信仰生活と重なるところがあるからです。

 金沢教会は今年、教会創立144周年を迎えます。実に、長い年月、この北陸の地で、信仰を走り抜いて来たのです。信仰の先達から受け継いだ信仰の襷をしっかりと握り締めて、次の世代の信仰者に引き渡して行くのです。そのようにして、天の故郷を目指して、地上の長い信仰の道程を走り抜いて行くのです。

 しかし、駅伝競走と決定的に違うところがあります。駅伝競争では襷を受け継ぐのは、一人のランナーです。しかし、信仰の襷を受け継ぐのは、私ども教会に連なる全ての者です。共に信仰の襷を握り締めて、お互いが励まし合いながら、天の故郷を目指し、信仰の道程を走り抜いて行くのです。次の世代に信仰の襷を引き渡して行くのです。


この朝、与えられた御言葉は、ヘブライ人への手紙12章の御言葉です。ここでも、私どもの信仰をマラソンランナーに譬えています。

「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」。

誰が最初にゴールのテープを切るのか、一等賞を争う競争ではありません。全てのランナーがゴールに到達するために、励まし合いながらゴールを目指すレースです。それが私ども信仰者のマラソンレースの特徴です。

 昨日、今日と、大学入学共通テストが行われています。金沢教会の礼拝に出席している何人もの方が受験しています。一年間準備をして来た成果を発揮する時です。大学入学共通テストというレースを勝ち抜いて、合格というテープを突破し、自分の人生の道を切り拓いて行きます。人生のランナーとして、勝利の栄冠を手にするために走り抜いて行きます。しかし、信仰のレースは全く違うのです。

「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」。

注目すべきは、「自分に定められている競争」です。元の言葉は、「自分の目の前に置かれた競争」です。自分の目の前に置かれた道を走るのです。一体、誰が私どもの目の前に道を置いたのでしょうか。神です。それ故、神が私どもに定めた道、神が私どもに与えられた道を、私どもは走るのです。

 人生の道は自分の能力によって切り拓いて行く面があります。しかし、それは激しい競争を勝ち抜く道でもあります。挫折感を味わい、道が閉ざされてしまうことに直面します。しかし、私どもの人生の道、信仰の道は、神が私どもの目の前に備えて下さった道、神が定め、与えて下さった道でもあるのです。挫折の中で、失敗の中で、道が閉ざされた中で、しかし、神は新しい道を備えて下さっておられるのです。神が私どものために用意して下さった道を信じて走るのです。


2.①人生の道も、信仰の道も、長い道程を走り抜きます。それ故、忍耐が伴います。忍耐なくして長い道程を走り抜くことは出来ません。この手紙は元々、礼拝で語られた説教であったと言われています。説教を聴いている教会員の中に、共に信仰の道程を走り続けていた信仰の仲間の中に、気力を失い、疲れ果ててしまった者がいたのです。あるいは、信仰の道程を走ることを止めようとしていた者がいたのです。長い信仰の道程には、様々な出来事が起こります。思い掛けない試練に直面します。悲しみの出来事が起こります。信仰が揺れ動くことが起こります。もう忍耐出来ないと言って、立ち止まってしまう者がいました。座り込んでしまった者がいました。

 しかし、そこで大切なことは何でしょうか。私どもの先頭を走っておられるお方です。私どもの信仰の道程に走りのペースメーカーになっておられるお方です。そのお方を見失わないことです。それ故、説教者は語るのです。

「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。

 先頭に立って、共に走っておられる主イエスを見失うな。いつも仰ぎ見よう。「信仰の創始者」という言葉は、「信仰の開拓者」という意味でもあります。道なき荒れ野に入り込んで、そこに道を拓き、道を造り出すのです。大変な困難を伴うことです。主イエスは命懸けで信仰の道を拓いて下さった。主イエスが切り拓かれた信仰の道を、私どもは主イエスの後から従って走るのです。私どもが経験するあらゆる苦しみで、主イエスが経験されなかった苦しみはないのです。全て主イエスが味わって下さったのです。それ故、主イエスは私どもに同情出来ない方ではないのです。

 私どもに信仰を始めて下さったのも、主イエス。そして私どもの信仰を完成して下さるのも、主イエスです。洗礼を受けようとかどうか迷う時、私は生涯信仰を持ち続けることが出来るだろうか、不安になることがあります。信仰は私どもが掴み取ったものではない。私どもが始めたものでもないのです。主イエスが始め、主イエスが与えて下さったものです。それ故、信仰を完成して下さるのも、主イエスなのです。主イエスが必ず、私どもをゴールへと導いて下さるのです。それ故、信頼して、主イエスの後を走り続ければよいのです。


最近は、パラリンピックもテレビで放送するようになり、私どもにも身近な競技となりました。ああ、このような競技があるのだと驚くこともあります。視覚障がい者のマラソンレースでは、必ず「伴走者」がいます。走っている人が安心して力を出せるように、周囲の状況や方向を伝えたりする役目を担っています。並んで走りますから、ペース配分の助言をしたり、ペースが落ちると、励ましたりします。伴走者とランナーは、輪になった一本のひもを互いに持ち、走ります。将に、命綱です。一人の力で走るのではなく、共に走ることで繋がり、サポートを受けます。

 私どもの伴走者こそ、信仰の創始者また完成者である主イエスです。主イエスと私どもとは、御言葉という輪になった一本のひもを互いに持ち、走るのです。御言葉という命綱が、主イエスと私どもとを、一つになって走らせるのです。御言葉という命綱が、主イエスと私どもとを以心伝心させるのです。

 私どもはしばしば、自分の人生の走りは、ここで終わったのではないかと思うことがあります。大きな試練に直面した時。病に罹った時。挫折を経験した時。自分の将来の道が閉ざされてしまったのではないかと思えることがあります。ああ、私の人生はここで終わったのではないか、と思うことがあります。しかし、信仰の創始者また完成者である主イエスが、私どもの先頭に立って走って下さる。それは私どもに、どんなに厳しい状況に陥ったとしても、あなたの生きる道がここにあると告げるのです。あなたの生きる道を、主イエスが開拓して下さることを告げるのです。主イエスはあなたに語りかけるのです。さあ、私の後ろから走り出してごらん。私と一緒に走ろうではないか。


3.①ヘブライ人への手紙12章は、こういう御言葉から始まっていました。

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上」。

 私どもは以前の口語訳に親しんでいた御言葉です。

「わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから」。

 「多くの証人に雲のように囲まれている」。イメージを湧き起こす言葉です。新しい聖書翻訳も、この訳に戻りました。私どもは孤独な走りをしているのではありません。たった一人で苦しんで走っているのではありません。主イエスが共に走っておられます。更に、信仰の証人に雲のように囲まれているのです。

 直前の11章で、旧約聖書に登場した様々な信仰者が紹介されました。信仰者列伝と呼ばれています。アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセたちです。更に、信仰者の名前が続きます。この説教者は更に、新約聖書に登場する信仰者も紹介したのではないでしょうか。マリア、ヨセフ、ペトロ、パウロ。そして更に、キリスト教会の歴史に登場した信仰者の名前も挙げることが出来ます。アウグスティヌス、ルター、カルヴァン、ウェスレー。更に、金沢教会144年の歴史を走り抜けた信仰者の名前を挙げることが出来ます。トマス・ウィン宣教師、イライザ夫人、上河原雄吉牧師、内藤留幸牧師。私どもと共に礼拝を捧げた長老、教会員。想像しただけで楽しくなります。信仰の襷がこのような信仰の証人によって手渡され、受け継がれ、手渡して行くのです。信仰の道程を走り抜いた数え切れない信仰の証人が、雲のように私どもを取り囲んで、声援を送っているのです。

 私も主イエスに導かれて走り抜くことが出来た。あなたがたも主イエスに導かれて走り抜くことが出来る。信仰の証人、信仰の先達の声援が、私度を励まし、重い足取りを軽やかにして下さるのです。或いは、信仰の証人たちが、讃美歌を歌って励まして下さっているのです。讃美歌を聴くと、勇気が出ます。元気が与えられます。私どもも讃美歌を歌いながら、軽やかに走り続けるのです。


長い信仰の道程を走り抜く途中、私どもの足はしばしば重くなることがあります。その最たるものは、罪の重荷です。ここに注目すべき表現があります。

「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」。

 今日のマラソンランナーは短パンで走ります。当時のランナーは長い衣で走っていたのかもしれません。走っている最中、衣の裾が足に絡みついて、走りにくくするのです。足が重くなるのです。そのような光景を見ていた説教者が、こう語るのです。「絡みつく罪」。罪は振り払っても、振り払っても絡みついて来る。纏わり付いて来るものだ。

 讃美歌21の58は、日本人が作詞、作曲した代表的な讃美歌です。素晴らしい讃美歌です。2節の歌詞は、このヘブライ人への手紙から生まれました。

「み言葉をください、吹く風のように強く、救いの主よ。

 からみつく罪、根こそぎされて、いのちあらたに、芽生えるために」。

み言葉を下さい。あなたのみ言葉によって霊の風を起こし、絡みつく罪を根こそぎにし、振り払って下さい。

 「絡みつく罪」と言いますと、外側から私どもの足に絡みつく罪というイメージを持ちます。しかし、果たしてそうなのでしょうか。私ども内側から生まれる罪が、私どもの足に絡みつき、私どもの足取りを重くしているのではないでしょうか。本日、箴言4章18~27節の御言葉を聴きました。父がわが子に向かって語った信仰の言葉です。この御言葉はヘブライ人への手紙12章と響き合う御言葉です。旧約995頁。

「わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を向けよ。

 見失うことなく、心に納めて守れ。

それらに到達する者にとって、それは命となり、全身を健康にする。

何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。

曲がった言葉をあなたの口から退け、ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。

目をまっすぐ前に注げ。

あなたに対しているものに、まなざしを正しく向けよ。

どう足を進めるかをよく計るなら、あなたの道は常に確かなものとなろう」。

注目すべきは、「曲がった言葉をあなたの口から退け、ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ」です。誰に対して、曲がった言葉、ひねくれた言葉を語っているのでしょうか。父に対してでしょうか。それもあるかもしれません。しかし、父が強調していることがあります。「目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものに、まなざしを正しく向けよ」。わが息子にまっすぐにまなざしを注ぎ、面と面とを合わせて、真剣に相対しているお方は、神です。

私どもの命の造り主なる神に対して、曲がった言葉を語り、ひねくれた言葉を語る。神に対してまっすぐにまなざしを注ぎ、まっすぐに祈り、まっすぐに言葉を語れない。私どもの内側から生まれる言葉が、絡みつく罪となって、私どもの足取りを重くしているのです。


4.①この手紙において、意外に思われるかもしれませんが、「十字架」という言葉が用いられるのは、12章の2節のこの箇所だけです。勿論、これまでも繰り返し十字架の出来事を語っていました。しかし、「十字架」という言葉を用いるのは、この箇所だけです。それだけに注目すべき御言葉です。

 「このイエスは、御自分の目の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」。

 主に対する私どもの曲がった心、ひねくれた心から生まれる絡みつく罪、振り払っても纏わり付くしぶとい罪を、解き放つためには、主イエスが目の前にある喜びを捨て、恥おもいとわないで十字架の死を耐え忍ばなければならなかったのです。十字架で、自らのいのち、血を注がなければならなかったのです。そのようにして、私どもが走り抜くゴールが、信仰の創始者また完成者である主イエスによって開拓された神の玉座、神の御許であることを明確にお示しになられたのです。主イエスは今、神の御許で、信仰の道程を走り続ける私どものために、ここがゴールなのだと、手招きし、執り成しておられるのです。


この手紙の説教者は、最後に、このように会衆に語りかけます。

「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」。

 私どもは年齢を重ねて行くと、手が萎えてしまいます。膝が弱くなり、変形してしまいます。肉体の痛みとの戦いは厳しいものがあります。そのために病院で治療してもらいます。それと同じように、私どもの信仰の手が萎えてしまう。信仰の膝が弱くなり、曲がってしまうことがあります。足の不自由な人が踏み外すことなく。「踏み外す」という言葉は、関節が外れることです。信仰の関節が外れてします。このような信仰の治療、癒やしはどのようになされるのでしょうか。

「むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」。

驚くべき言葉ですね。信仰の萎えた手、信仰の弱くなった膝、信仰の関節が外れた足。それらを休めなさいというのではないのです。癒されるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさいというのです。真っ直ぐな道とは主の道です。主の道を歩き続けていれば、萎えた手も、弱った膝も、関節が外れた足も癒されてしまうというのです。

 大学時代、ある友人がこんなことを話してくれました。自分が信仰生活を送っている教会で、友人が信仰の迷いの中に入り込んでしまった。牧師に、しばらく教会から離れて、自分自身を、自分の信仰を見つめ直したいと相談した。それに対し、牧師は断固反対をした。礼拝から離れてはいけない。神の御前で、自分の信仰の迷いを打ち明け、そこで神の御言葉を聴きなさい。私にこの話をされた大学の友人が、牧師が言うことは厳しいですよねと言われました。私もその時には、そうでね、と答えたのです。しかし、伝道者になって改めて思うことは、牧師が語ったことは、その通りだと思います。

 教会から離れて、礼拝から離れて自分自身を見つめ直し、自分の信仰を見つめ直す。そこで一人で聖書の御言葉に触れ、祈る。それは結局、自分の心の中にある声を聞いているだけです。そこからは新しい信仰の歩みは始まらない。いつの間にか主の道を踏み外しているかもしれない。信仰の迷いの中にある時だからこそ、神の御前に立って、そこで神の語りかけを聴くのです。自分の思いに逆らってまで、神が御言葉を語りかけて下さる声を聴くのです。そこから新しい信仰の歩み、走り出しが始まるのです。神の御言葉が繰り返し私どもを主の道に立ち帰らせ、主の道から外れないように、走り続けさせて下さるのです。

 この説教者は将に、そのことを会衆に向かって語りかけているのです。

「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」。


 お祈りいたします。

「信仰の道程を走り続ける私どもの足が弱っても、疲れ果てても、私どもの先頭を走る主よ、あなたの御言葉によって、強めて下さい。私どもには信仰の先達が雲のように囲み、声援を送っているのです。何と心強いことでしょうか。私どもは孤独な走りをしているのではありません。信仰の仲間と共に走っています。弱った者を執り成し、励ましてくれるのです。信仰の先達から受け継いだ信仰の襷をしっかりと肩に担い、次の世代へと手渡して行けるよう、導いて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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