「落胆せずに生きよ」
エレミヤ書18:1~6
コリントの信徒への手紙二4:7~18
主日礼拝
井ノ川 勝
2024年8月11日
1.①私どもは日々の生活において、落胆することがあります。気落ちすることがあります。自分の願いが叶わなかった時、目標に到達できなかった時、大切な命を喪った時、私どもは落胆します。気落ちします。しかし、考えて見れば、私どもの人生は落胆の連続です。落胆を味わったことのない方は誰もいません。
しかし、そのような私どもが今日の聖書の御言葉、コリントの信徒への手紙二の御言葉に触れて、驚くことがあります。「わたしたちは落胆しません」という言葉が、4章で繰り返されているからです。この御言葉を語ったのは、伝道者パウロです。パウロはどんな力にも負けない強い意志を持っていたから、「わたしたちは落胆しない」と断言できたのでしょうか。ここで注目すべきことがあります。「わたしは落胆しない」と語っているのではありません。「わたしたちは落胆しません」と語っているのです。伝道者パウロが教会に生きる一人一人に語りかけているのです。教会に生きる私どもは落胆するようなことがあっても、落胆しないのだと、パウロは語りかけているのです。
②先週、長崎に原爆が投下された日の前日、教会員のお母さまが一枚の絵を持って来られました。長崎で被爆された医師・永井隆さんが書かれたマリア像の絵です。この方の母君が永井隆さんの息子、娘さんである、誠一(まこと)さん、茅乃(かやの)さんと親交があり、永井隆さんの絵を譲り受けたものです。「原子野に、立ち残りたる、悲しみの、聖母の像に、苔つきにけり」という句が添えられています。浦上天主堂の被爆したマリア像は、焦土と化した長崎の町を悲しみのまなざしを注ぎながら、天を仰いで祈りを捧げています。受付の後ろの机の上に置いてありますので、ご覧下さい。
自分たちが積み上げて来た歴史が、築き上げて来た町が、原子爆弾により一瞬にして焦土と化す。医師として被爆された方々の治療に当たりながら、自らも被爆し、病が悪化し、医師としての使命を果たせなくなる。しかし、病の中で綴った文書は書物となり、多くの方々に生きる勇気を与えました。「落胆する日々を送りながら、しかし、わたしたちは落胆しない」という信仰と祈りに生きました。
8月、平和への祈りを篤くする月を迎えています。しかし、世界の現実は争いと対立を繰り返し、落胆するような日々です。心痛まない日々はありません。しかし、聖書は私どもに語りかけます。「たとえ落胆する日々にあっても、落胆しないで生きようではないか」。落胆しない。それは諦めずに神に向かって祈り続けることです。祈ることを止めたら、落胆の病が私どもの心を蝕むからです。
昨日、能登に思いを馳せて、パイプオルガンによる愛と祈りのコンサートが行われました。地震という自然災害も、その甚大な被害の状況を目の当たりにする時、私どもを落胆させます。しかし、そこでも私どもは落胆しつつも、落胆せずに祈り続けるのです。実は、このことは主イエス御自身がルカ福音書18章で、私どもに願っておられることなのです。「落胆せずに祈り続けよう」。
2.①コリントの信徒への手紙二は、伝道者パウロが伝道者としての自らを曝け出している御言葉が綴られています。自分の弱さを丸出しにしています。伝道者パウロの息遣いが聴こえて来ます。パウロがここで語っていることは、パウロだけのことではなく、私どもにも共通することです。
パウロは自らをこのように表現しています。「わたしたちは土の器」。「土の器」というのは、高価な器ではありません。何の価値もない器です。真に脆い素焼きの土器です。土の器に四方から力が加えられれば、粉々に砕け散ってしまいます。死に行く土の器です。
しかし、神は私ども土の器の中に、宝を納めて下さったというのです。神が最も大切にしている宝です。その宝とは何でしょうか。福音です。福音は主イエス・キリストそのものです。主イエスのいのちです。私どもは土の器の中に、主イエスといういのちを宿しているのです。それ故、パウロはこう語っています。
「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。
驚くべきことが、私どもの内で起きているのです。
土の器である私どもは、四方から苦しみを受けています。途方に暮れてしまいます。虐げられています。打ち倒されてしまいます。それが私どもの現実です。ところが、パウロは語ります。
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらない。途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。
不思議な言葉です。一方で、私どもは四方から苦しめられている。途方に暮れている。虐げられている。打ち倒されていると語るのです。しかし、他方で、行き詰まらない。失望しない。見捨てられない。滅ぼされないと断言するのです。何故、このような断言が出来るのでしょうか。
実は、パウロは初めから、「わたしたちは土の器」と、自らを捉えていませんでした。私は光輝く高価な金の器であると誇っていました。そのようなパウロが何故、「わたしたちは土の器」と捉えるようになったのでしょうか。甦られた主イエスと出会ったからです。そして主イエスこそ、土の器であったことを知ったのです。主イエスは十字架で、私ども罪人に代わって、土の器の中に神の怒りを盛られ、粉々に砕け散ったのです。そのようにして、十字架で、私どもにいのちを注がれたのです。そして死に打ち勝たれ、主イエスの甦りのいのちが、土の器である私どもに盛られたのです。
十字架で死に、甦られた主イエスのいのちが、土の器である私どもに宿って、生かして下さる。それ故、私どもは四方から苦しめられても、見よ、あなたは行き詰まることはない。途方に暮れても、見よ、あなたは失望することはない。虐げられても、見よ、あなたは見捨てられることはない。打ち倒されても、見よ、あなたは滅ぼされることはない。私どもの内に宿っている甦られた主イエスが、そのように語りかけて下さるのです。
②今年の4月下旬、金沢教会の伝道によって生まれた若草教会の初代牧師、私ども伝道者の説教の師匠であった加藤常昭牧師が95歳で逝去されました。昨年10月8日、代田教会で車椅子に乗ったまま説教をされました。「教会の歌・愛の賛歌を歌おう」。コリントの信徒への手紙一13章の「愛の賛歌」を説き明かした説教です。この説教が最後の説教となりました。
こういう言葉から説教を始めています。私は94歳になり、視力が衰え、会衆の皆さんの顔もぼんやりしている。聖書の御言葉も朗読することも出来ない。それ故、今朝は平野克己牧師に、説教の途中で代読してもらう。原稿に目を注ぐことも出来ないので、原稿なして語る。視力が衰え、本が読めないこと。幼い頃から本に親しんで来た私にとって、それは死を意味する。医師からもう視力が回復することはないと告げられた時、すっかりしょげてしまった。落胆し、落ち込んでしまった。そのような時、ある教会の方から手紙が届いた。毎日、牧師、信徒の方が交代で来て下さり、手紙や、メール、本の原稿を読んでもらう。その手紙には、この御言葉だけが記されてあった。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならない重みのなる永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。
伝道者としてこれまで何度も何度も説き明かして来た御言葉です。しかし、手紙に記されたこの御言葉が、落胆し、落ち込んで、しょげていた加藤先生に、新鮮に響いて来て、慰めを与えて下さったと語っています。
8月を迎え、教会では訪問月間として、夏期訪問を行っています。高齢、病気のため礼拝に出席出来ない方を訪ねています。4月のイースターの訪問の時に比べて、体が衰えている方もいます。元気のない方もいます。しかし、一緒に讃美歌を歌いますと、生気を取り戻します。共に主の祈りを祈りますと、生気を取り戻します。私ども土の器である「外なる人」は日々衰えて行きます。しかし、主イエスのいのちが宿る「内なる人」は日々新たにされて行きます。それは何よりも、讃美歌を歌い、祈ることにおいて現れているのです。私どもは目に見えるものではなく、目に見えない、土の器である私どもに宿る主イエスのいのちに目を注ぎ、生かされるからです。永遠に存続する見えない神に目を注ぎ、自らの死と向き合いながら、教会の歌・愛の賛歌を歌うのです。
3.①本日の聖書はこういう御言葉から始まりました。
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」。
この御言葉を小説にした作家がいます。阪田寛夫さんの『土の器』です。芥川賞を受賞した作品です。自らのお母さまの信仰を綴った作品です。お母さまはオルガンの奏楽者として、礼拝で奉仕することを何よりも主から与えられた使命とし、喜びとしていました。78歳の時、キリスト受難日の礼拝のために、一時間前から奏楽の練習をしていた。高い窓の破れ目から吹き込む風を遮ろうと、三脚のテーブルに登ってカーテンを引いた時、重心を失って墜落した。その時のことを「病床便り」で綴っています。
「板の間にたたきつけられた瞬間、これは少し手がのびすぎている、肩の関節が外れたかと思いましたが、立上がって手を動かそうとして見たが、手はミジンも動かない。冷汗が出て身体はふるえて居ました。その時私はさっき礼拝堂に入る前に、青年たちの集いにしばらく加わって外国人とおつき合いをした経験を話しあって居たこと、困ったらどうしますかと言う質問をうけて、困ったらいけませんと答えた自分の声を思い出しました。困ったらいけないのです。四方から艱難を受けても窮しない、途方にくれても行き詰まらない、之はパウロの声です。こんな事位で困って居るなんて相すまない。私たちはこの土の器の中に神から与えられた宝を持っているのです。困って居るひまはありません。それで私はうしろの部屋に入り、腰をかけてどうかオルガンをひかせて下さいと祈りました。そして痛む肩を一生けん命さすりました」。
更に、こう綴りました。
「(ヨハネ伝16章に)イエス様は世の勝っているとおっしゃった。ありがたいことには今日がその十字架礼拝の日です。私は十字架で痛みの中にあるイエス様を想うことが出来ました。私もイエス様に従って勝たねばという気になりました。何に勝つのですか。それはオルガンをひけない事情・状況に勝つ事でした。そう思った時に死んだもののようだった右肘をまげて腰のつがい骨にあてることが出来たのです。そうやって肘を腰にあてたままひいたオルガンです」。
しかし、阪田寛夫さんが描きたかった「土の器」は、このようなお母さまの筋金入りの信仰ではありませんでした。
②その後、お母さまは膵臓癌で入院をされました。透明の液体の薬を体内に注入します。すると体内からは赤黒い血膿のような体液が出て来ます。土の器の中に、筋金入りの信仰ではなく、実は罪咎を盛っているように阪田寛夫さんには見えました。そして死の力によってやがて砕け散る土の器である母の命。それこそが阪田寛夫さんが描いた「土の器」であったのです。
しかし、このような土の器の中に、神は主イエスのいのちを宿して下さり、私どもを生かして下さった。そして死に打ち勝ついのち、主イエスの甦りのいのちを宿して下さったのです。
それ故、パウロは語るのです。
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」。
4.①説教の冒頭で、長崎で被爆された医師・永井隆さんのことに触れました。先週、教会員のお母さまが永井隆さんの自筆のマリア像の色紙を持って来られました。浦上天主堂の被爆された天を仰いで祈るマリア像です。私どもプロテスタント教会の信仰で言えば、十字架の主イエス・キリストです。原子爆弾により焦土と化した大地。それは地獄のような大地です。十字架は将に、地獄に主イエスが立たれたのです。被爆地に立たれたのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになられたのですか」と大声で叫ばれ、祈られました。執り成されました。私どもはいつもこの主イエスの死を体に纏っています。主イエスの命が体に現れるために。
伊勢の教会で伝道している浦上天主堂の前にあるカトリック教会の研修所で、説教セミナーが行われ、出席したことがあります。休憩時間に、近くにある永井隆さんの晩年の住まい、如己堂を訪ねました。僅か畳二枚の小さな庵です。一畳は永井隆さんの病床です。「如己堂」という名称は、「己の如く」と書きます。医師として被爆した患者のために献身的な働きをした永井隆さんが、「己の如く」を庵の名称にしたのは、意外に思いました。永井隆さんは色紙に、しばしば「如己愛人」と書きました。永井隆さんの愛唱聖句です。この御言葉こそ、土の器に盛られた主イエスのいのちに生きた永井隆さんの信仰が証しされています。「如己愛人」。主イエスが語られた御言葉です。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『自分を愛するごとく、あなたの隣人を愛しなさい』」。
永井隆さんの妻も被爆して亡くなりました。被爆した永井隆さんも二人のわが子を残して死ぬことを恐れました。それ故、土の器に盛られた主イエスのいのちに生かされて、「如己愛人」に生きなさい。これが日々の祈りであったのです。
もう一つ、二人のわが子に残した言葉があります。色紙にしっぽのない豚の絵を描いて、茅乃(かやの)さんにあげました。「これ、ナーニ?」と言われました。しっぽを描き足すと、豚だと分かり、茅乃さんは喜びました。そして豚の絵の上に、「しっぽもひと役」と書きました。しっぱにだって何かの役目がある。二人のわが子にこう語りました。
「この世で何の用もないものが生かされているはずがない。どんな病人でも、何かこの世において働くことができるから、生かされている。寝たきりになっても、手があれば書くことができる。書くことができなくなっても、耳があれば話を聞くことができる。人を慰めることもできる。そして本当に何もできなくなっても祈ることができる。命の最後の瞬間まで。
神のまなざしのもと、無駄な人生はない。一人ひとりの掛け替えのない人生には必ず意味がある。果たすべき使命がある。人生には、無駄なものは何一つない」。
土の器である私どもに宿された甦られた主イエスのいのちが、私ども一人一人に使命を与え、神の御用のために生かして下さるのです。
お祈りいたします。
「主よ、私どもは真に価値のない、脆い土の器です。四方から艱難を受け、粉々に砕け散る土の器です。しかし、神は私ども土の器の中に、十字架の主イエスのいのちを注ぎ、甦られた主イエスのいのちを宿し、生かして下さるのです。主よ、土の器である私どもを、主の御用のために用いて下さい。私どもの日々の歩みを通して、主イエスが生きておられることを証しさせて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。