「見失った羊を見つけた」
エゼキエル34:11~16
ルカ15:1~7
主日礼拝
牧師 井ノ川 勝
2023年12月3日
1.①私が神学校を卒業する時、講義に来ていたある伝道者が卒業生に一冊の書物をプレゼントして下さいました。『人間を探し求める神』。ユダヤ教の神学者が書かれた書物です。旧約聖書は膨大で、様々なことが語られている。しかし、旧約聖書が語っている福音は、実はただ一つのことである。それは何か。「人間を探し求める神」である。この書物を贈られた伝道者は、卒業し、伝道者となる私どもに、このような祈りと願いを注がれたのだと思いました。「あなたがたは伝道者として、生涯、存在を懸けて、失われた一人の人間を探し求める神を証ししてほしい。あなたがた伝道者が語るべき福音は、この一つに尽きる」。それ以来、この書物を手にする度に、この本の題名を心に何度も刻みました。
ユダヤ教の神学者が書かれた『人間を探し求める神』。旧約聖書が語るこの福音が最も明確に語られている御言葉が、預言者エゼキエルが語ったこの御言葉です。
「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群を探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群を探すように、わたしは自分の羊を探す。・・わたしは失われたものを捜し求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」。
預言者エゼキエルは、やがて来られる救い主は、失われた者を探し出、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み込み、弱った者を強くする羊飼いであると預言しました。エゼキエルが預言したこの羊飼いこそ、主イエス・キリストとなって来られました。それが将に、クリスマスの出来事であったのです。
待降節を迎えた主の日の朝、ルカ福音書15章の御言葉を聴きました。主イエスが語られた「失われた一匹の羊をどこまでも捜し求める羊飼い」の譬えです。ここにクリスマスの福音が語られています。主イエスは何故、来られたのか。失われた一匹の羊を捜し求める羊飼いとして来られた。それでは失われた一匹の羊とは誰なのでしょうか。取りも直さず、私自身です。主イエスは失われたあなたを捜し求めるために、羊飼いとなって来て下さったのです。主イエスが語られるこの譬えは、将に、私のことが語られているのです。主イエスはクリスマスの福音を、あなたに届けたいのです。
②主イエスが語られたこの御言葉は、「こども讃美歌」になりました。「ちいさいひつじが」です。子どもたちが好きな讃美歌です。讃美歌21-200にもあります。
「小さい羊が 家をはなれ、ある日 遠くへ あそびに行き、
花さく野はらの おもしろさに、かえる道さえ わすれました。
けれどもやがて 夜になると、あたりは暗く さびしくなり、
家がこいしく 羊は今、声もかなしく 鳴いています。
なさけのふかい 羊かいは、この子羊の あとをたずね、
とおくの山やま 谷そこまで、まいごの羊を さがしました。
とうとうやさしい 羊かいは、まいごの羊を みつけました。
だかれてかえる この羊は、よろこばしさに おどりました」。
しかし、この「こども讃美歌」は、主イエスが語られた御言葉と、決定的に違う歌詞があります。「こども讃美歌」は、羊飼いに捜し出された羊の喜びが歌われています。しかし、主イエスが語られた御言葉は、羊の喜びは一切語られていません。語られているのは、失われた羊を捜し出した羊飼いの喜びです。神の喜びが満ち溢れています。それがこの譬え話の特徴です。
しかも神の喜びは尋常ではありません。神はお一人で密かに喜ばれません。御自分の喜びの中に、一人一人を招かれるのです。主イエスは語られます。
「見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」。
神の喜びはそれだけに留まりません。更に、喜びの輪が大きく膨らんで行きます。失われた一人が羊飼いに見出される。それは大きな喜びが天に轟く出来事であるのです。地上の小さな喜びの出来事が、天に轟く大きな喜びの出来事となっているのです。
クリスマスは、失われた羊が羊飼い主イエスによって捜し出され、神に立ち帰る出来事を目の当たりにする時です。洗礼式はその最たる喜びの出来事です。また、教会から遠のいていた方が、クリスマスに教会の礼拝に帰って来る。それも神に立ち帰る出来事です。クリスマスは、失われた一人が羊飼い主イエスに捜し出され、神の許に立ち帰る喜びの出来事です。地上の礼拝は私どもの喜びに満ち溢れます。しかし、その喜びの輪の中心におられるのは、神です。神の喜びです。神が誰よりも喜んでおられる。その神の喜びに私どもも与るのです。そして神の喜びは天でも轟いているのです。天でも神は天使と共に喜んでおられるのです。
2.①100匹の羊の内、1匹が失われたら、99匹を残してまで、失われた1匹を捜しに行かれる羊飼い主イエス。失われた1匹が他の99匹に比べ、特別に価値があり、大切な存在であったから、羊飼いが捜しに行ったのではありません。失われた1匹は他の99匹と同じ存在です。皆、羊飼いにとって大切な存在です。いなくてはならない存在です。それ故、どの一匹が失われても、羊飼いは捜しに行くのです。
11月上旬、北陸学院大学セミナーが行われました。私は人間教育学部で講演をしました。社会人から大学に入学された学生がいました。分団でこういう話をされました。ある企業で働いていたが、私は機械の歯車の一つであった。私という歯車に欠陥が生じたら、会社は別の人を歯車として当てる。私は使い捨てられた歯車に過ぎなかった。そのような私が北陸学院大学に入学し、礼拝で、主イエスが語られたこの御言葉と出会った。失われた一人をどこまでも捜し求める羊飼い主イエス。そして見つけたら喜びを爆発させる羊飼い。神は失われた私が見出されたことを喜んで下さる。この神の喜びの中で、私という存在が生きる意味、喜びが与えられた。神にとっては、100匹の羊一匹一匹が大切な存在であることを知った。
私も大学生の時に、同じような経験をしました。その頃、キリスト者であり、経済学者であった大塚久雄先生の説教集『意味喪失の時代を生きる』が出版されました。国際基督教大学で語られた説教です。本の題名となった説教は、主イエスのこの御言葉を説教されたものです。いかにも経済学者らしい説き明かしをされています。今日の社会は全てを数式化して考える。1を切り捨ててまで、どこまでも99を追い求める。効率化を第一とする。大塚先生はそのような考え方を「形式合理的思考」と呼んでいます。しかし、そのような考え方を推し進めると、1の意味が失われて行く。私は何故、生きているのか。私は何故、存在しているのか。その意味が失われて行く。それ故、私どもは意味喪失の時代を生きている。
しかし、主イエスが語られた福音はそれとは異なる。どこまでも一人を追い求めて行く。それは99人を捨てて、1一人を追い求めるのではない。100人の一人一人が、追い求めるべき掛け替えのない大切な一人なのです。そこでこそ、私という一人の存在の意味が与えられるのです。
②主イエスのこの譬え話は、どのような状況で生まれたのでしょうか。誰に向かって語られたのでしょうか。そこがとても大切です。このような言葉から始まっていました。
「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された」。
何故、主イエスは罪人たちと共に食事をし、話をされるのか。私たちこそ主イエスと食事を共にするにふさわしい義人ではないか。ファリサイ派、律法学者たちから不平が生まれた。それがこの譬え話が生まれる切っ掛けとなりました。ファリサイ派、律法学者たちは、神の教えを忠実に守り、生きている存在です。謂わば、信仰の模範生、優等生です。誰よりも神の近くに生きている人々です。それに対し、徴税人、罪人は、神の教えを守って生きることの出来ない人々です。信仰の脱落者です。神から遠く離れて生きている存在です。救い主の誕生を真っ先に知らされた羊飼いも、罪人と呼ばれていました。神の教えに生きることが出来ず、神から遠く離れて生きている存在だったからです。
何故、主イエスは信仰の模範生、優等生であるわれわれと食事を共にせず、信仰の脱落者と食事を共にされるのかと、ファリサイ派の人々、律法学者たちから不平が生まれた。それが譬え話が生まれる切っ掛けとなった。
私が大学生の時、大学の講義に来られていた牧師に誘われて、その牧師が牧会する教会へ導かれました。大学2年のクリスマスに洗礼を受けました。その頃、この熊谷政喜牧師の説教集が出版されました。その説教集の題名は、『罪人と食事を共にする神』。この題名を巡ってキリスト教出版社から異議が出されたそうです。多くの人々の心に響く題名ではないので、他の題名に代えてほしい。しかし、熊谷牧師はこの題名にこだわりました。熊谷牧師の福音の核心がここにあるからです。ルカ福音書は罪人と食事を共にする神、主イエスを強調しています。
主イエスが語られた譬え話において、失われた一匹の羊とは徴税人、罪人を指している。残された99匹の羊は、ファリサイ派、律法学者を指している。主イエスは譬えの後、このように語られました。
「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。
悔い改める一人の罪人とは、徴税人、罪人を指している。悔い改める必要のない99人の正しい人は、ファリサイ派、律法学者を指している。ファリサイ派の人々、律法学者たちはそのように理解したことでしょう。
しかし、果たして、このように単純に区別することが出来るのでしょうか。悔い改める必要のない正しい人などいるのでしょうか。神に最も近くにいる信仰の模範生、優等生も、実は失われた存在であったのではないでしょうか。失われた一匹の羊であったのです。どこまでも羊飼い主イエスに、捜し求められ、見出されなければならない存在であったのです。主イエスは私ども一人一人に向かって、あなたも失われた一匹の羊、あなたも羊飼い主イエスに捜し出されなければならない失われた一匹の羊、あなたも悔い改めを必要とする罪人の一人であると、語りかけておられるのです。
3.①一人の罪人が悔い改めた時、神の大きな喜びが天に轟く。神の喜びが天に爆発する。主イエスがここで強調される「悔い改める」は、神の懐に帰るという意味です。
私が大学生の頃、1970年代後半ですが、東京神学大学の大木英夫先生が『現代人のユダヤ人化』という本を書かれました。これは一般の出版社から出された本で、現代文明論を聖書、神学の視点から考察したものです。多くの一般の方々にも読まれた本です。本の題名となった「現代人のユダヤ人化」は、何を意味しているのでしょうか。ユダヤ人は何度も国を滅ぼされ、世界に散らばって行きました。故郷を失った旅人を意味しています。現代人も故郷を失った旅人になっている。帰るべき故郷を失った。その意味で、現代人のユダヤ人化と呼んでいるのです。
聖書が語る魂の故郷、それは神の懐です。私どもを造られ、私どもに命を与えられた神と向き合って生きる。繰り返し神の懐に立ち帰り、神の懐から旅立って生きる存在であったのです。しかし、私ども人間は神の懐から離れ、魂の故郷を離れ、自分の力で生きようとしました。それが創世記3章で語る楽園喪失です。楽園喪失は故郷喪失を意味しています。故郷を喪失した人間は何を成そうとしたのか。バベルの塔を築き、神に到達しようとしました。自分たちが神になろうとしました。自分たちが神になる文明を築こうとしました。しかし、神は天から降って来られ、バベルの塔を打ち砕かれました。人間が神に到達する文明は崩れ去ることを示されました。
東京神学大学で、チェコの神学者ロッホマンが、将来、伝道者になる私ども学生に向かって講演をされました。チェコは悲しい歴史を何度も経験しました。1938年には、チェコはナチの支配下となりました。1948年には、チェコの共産主義政権が樹立しました。そして1968年には、人間の顔をした社会主義社会を作ろうとした、所謂「プラハの春」の運動が起こりました。しかし、ソ連の軍事介入で蹂躙されました。ロッホマンは祖国を脱出し、スイスに亡命し、それ以降帰国することが出来なくなりました。人間が作る歴史に望みを持つことが出来ないと明言されました。しかし、この絶望の満ちた地上の歴史においてこそ、福音を語ろうと促しました。その福音とは、「人間のもとに来て下さる神の道」だと言い表しました。人間が神の許へ到達する道ではなく、人間のもとに来て下さる神の道です。それこそクリスマスの道であり、インマヌエルの道、神われらと共にいて下さる道です。その福音こそ、失われた一匹の羊をどこまでも捜し求める神の道なのです。
②失われた一匹の羊である私、あなたをどこまでも捜し求めるために、神は人なって来て下さいました。主イエス・キリストとなって来て下さいました。失われたままであったら、私どもは滅びるしかなかったのです。預言者エゼキエルは語りました。
「わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。わたしは悪人が立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から、イスエラルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」。
主なる神のこの祈りは、失われた一匹の羊をどこまでも捜し求めるために来て下さった羊飼い主イエス・キリストにおいて具体化したのです。
ルカ福音書が繰り返し語る言葉があります。「イエスはエルサレムへ向かって進んでおられた」。主イエスがエルサレムへ向かわれる。それはひたすら十字架の道を進まれることです。ルカ福音書はクリスマスの出来事をこう語りました。救い主は飼い葉桶の中に宿った。救い主イエスが宿られた飼い葉桶は十字架を象徴していると、ルターは語りました。救い主イエスは十字架の道を進むために、飼い葉桶に宿られた。何故か。失われた一匹の羊である私、あなたが滅びないで、救われるためです。主イエスは十字架の上で、自ら犠牲の小羊となられることにより、私どもが滅びることなく、神の懐へ立ち帰る道を拓いて下さったのです。
以前、月刊誌『信徒の友』が、日本が敗戦を経験した1945年のクリスマスに、それぞれの教会がどのようなクリスマスを捧げたのか、特集を組んだことがありました。ところが、依頼されたほとんどの伝道者、信徒が、覚えていないとの返答を寄こされたとのことでした。敗戦を経験してまだ4ヶ月。敗戦後の混乱と食料不足で、厳しい生活を一日一日生きることで精一杯で、クリスマスを捧げる余裕などなかったのでしょう。
ただ一人、加藤常昭牧師はこのような想い出を綴っておられました。加藤先生は太平洋戦争中、14歳の中学生の時、代々木教会で熊谷政喜牧師から洗礼を受けられました。熊谷牧師の妻は、アイナ・メイ・熊谷、アメリカ人でした。しかし、日本国籍であったため、戦争中も日本に留まりました。しかし、それは厳しい生活を強いられました。学徒出陣で出征する学生のための壮行祈祷会を開いた時、学生たちは涙を流しながら訴えた。私たちはアイナ先生の国の人々に銃を向けることなど出来ない。熊谷牧師も、アイナ先生も、何も答えず、ただただうつむいて涙を流されていた。
敗戦から4ヶ月後のクリスマス。ある方がクリスマスツリーになりそうな小さな木を持って来られた。アイナ先生は戦争中開けなかった、アメリカから持って来た箱を開き、粗末な飾りを付けた。そしてクリスマスツリーの根元に、小さな十字架の木を差し込まれた。クリスマスの出来事が、主イエスの十字架によって支えられていることを示された。これでクリスマスのお祝いは十分なのだと示された。
お互いの国が自分たちの義しさを主張し合い、神に造られた命を憎み合い、殺し合うことにより、取り返しの付かない大きな罪の中に陥った。私どもはどこへ向かって歩んだらよいのか分からず、彷徨う失われた羊となった。人間の罪が生み出す闇が深まる中、しかし、神の御子は自ら人となって、人間の許に来て下さった。十字架へと向かわれた。人間の罪を背負う犠牲の道を歩まれた。人間のもとに来て下さった神の道が拓かれることにより、私どもが神のもとに立ち帰る道が拓かれたのです。主イエスが語られる失われた一匹の羊を捜し求める羊飼いの姿は、将に、このようなクリスマスの出来事を指し示しているのです。
お祈りいたします。
「神の懐から離れ、故郷を失った私どもは、失われた羊として、どこへ向かって歩んだらよいのか分からず、彷徨い歩いていたのです。しかし、神が人となり、羊飼いとなって、失われた私どもをどこまでも捜し出して下さったのです。自ら十字架で犠牲となって、私どもを救って下さったのです。神の許へ立ち帰る道を拓いて下さったのです。主よ、今尚、失われた羊となって、彷徨い歩いている者たちを捜し出して下さい。神の懐へと立ち帰らせて下さい。
再び歴史の闇が深まり、混迷の中にある世界を顧み、そこに生きる一人一人を御手をもって捕らえ、悔い改めへと導いて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。