「迷い出た一匹の羊を捜し求めよ」
エゼキエル34:11~16
マタイ18:10~14
主日礼拝
井ノ川 勝
2024年9月29日
1.①神さまは教会に、大人だけではなく、子どもたちをも招いておられます。これはとても素晴らしいことです。それは言い換えれば、大人も子どもも分かち合える聖書の御言葉が与えられていることです。大人も子どもも心を一つにして賛美出来る讃美歌が与えられていることです。その代表的な聖書の御言葉が、今朝、私どもが聴いた御言葉です。迷い出た一匹の羊をどこまでも捜し求める羊飼いの譬え話です。教会学校の生徒、幼稚園の園児も、大好きな御言葉です。北陸学院の栄光館には、この場面の絵が飾られています。中高生は毎日、この絵を観ながら礼拝を捧げています。
恐らく主イエスはこの御言葉を、大人にも子どもたちにも、何度も語られたと思われます。大人も子どもも、何度聴いても、心惹きつけられて聴いた御言葉です。この御言葉が書き留められているのは、マタイとルカ福音書です。マタイは18章、ルカは15章です。同じ御言葉ですが、異なっている点もあります。その違いに目を留めることが、とても大切なことです。どこが異なっているのでしょうか。ルカは、「見失った一匹の羊」です。それに対してマタイは、「迷い出た一匹の羊」です。
ルカ福音書が語ります、99匹の羊を残してまで、見失った羊を捜し求める羊飼い。それは羊飼い主イエスを現しています。主題は、見失った一匹の羊が羊飼い主イエスに捜し出され、主に立ち帰ることです。天の父を知らず、失われた人間が主イエスに発見され、主に立ち帰る物語です。
それに対して、マタイ福音書が語ります、迷わずにいた99匹の羊を残してまで、迷い出た一匹の羊を捜し求める羊飼い。これは教会に連なる私ども一人一人を現しています。主題は、教会から迷い出た一匹の羊と私どもがどのように向かい合うかです。私ども一人一人も小さな羊飼いとなって、羊飼い主イエスと共に、迷い出た一匹の羊を捜し求めるために立てられているのです。そのような使命が教会に連なる私ども一人一人に与えられているのです。主イエスはそのような祈りを込めて、この御言葉を私ども一人一人に語りかけておられるのです。
②マタイ福音書は、「見失った一匹の羊」とは言わずに、「迷い出た一匹の羊」と語っています。問題は、何故、羊の群れから迷い出たのかです。この譬え話は18章全体の文脈の中で語られた御言葉です。そこには一つの明確な主題があります。主イエスが繰り返し語られている御言葉があります。
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように」。「これらの小さな者の一人をつまずかせないように」。「軽んじる」「躓かせる」という言葉が繰り返されています。教会の中で聞く最も心痛む言葉です。「躓いた」、「躓かせた」。教会からこの言葉がなくなれば、どんなに素晴らしいことだろうか、といつも思います。しかし、主イエスも既にここで語られておられるのです。「つまずきは避けられない」。私どもが主イエスの羊となって、羊飼い主イエスに従って行こうとする時、この世においても、教会においても、私どもの信仰を躓かせるものは多くあるのだと語られているのです。
先週、中部教区役員研修会が三重地区の津教会で行われました。私どもはズームで出席しました。講師は神学校卒業以来、秋田の開拓伝道した教会で、40年間一筋に、伝道、牧会をして来られた雲然俊美牧師でした。日本基督教団総会議長でもあられます。主題は「秋田における地方伝道の歩みと喜び」でした。何故、日本の教会の伝道が進展しないのか。何故、日本の教会が小さな群れに留まっているのか。これは常に問いかけられることです。その一つが、洗礼を受け、教会の群れに加わっても、躓いて教会の群れから離れる者がいるということです。躓きの原因はそれぞれ異なっています。牧師に躓いた。長老に躓いた。あの信徒に躓いた。様々な理由があります。教会がいつも抱えている痛みです。長老会、執事会、地区委員会でいつも痛みを抱えながら祈っている祈りです。主イエスもこの痛みを知っておられるから、この御言葉を語られたのです。
2.①「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」。「これらの小さな者の一人をつまずかせないように気をつけなさい」。主イエスはここで、「これらの小さな者」という言葉を繰り返されています。私どもが躓かせる者、それは小さな者なのだと、主イエスは語られるのです。その「小さな者」の代表として、18章の始めに、「子ども」が登場します。子どもだからと言って、軽んじるな。むしろ主イエスは語られました。「心を入れ替えて子どものようにならなければ、天の国に入ることはできない」。「わたしの名によってこのような一人の子ども受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。
何故、主イエスは「小さな者」という言葉を繰り返されるのでしょうか。私どもが小さな者を軽んじ、躓かせる時、自らを大きな者としているからです。小さな者と大きな者。それは比べることによって生まれます。信仰を比べる、奉仕を比べる、才能を比べる、様々なことを比べることにより、自らを大きくし、相手を小さくし、軽んじることが起こります。誰にでも起こることです。しかし、神の御前では、全ての者が小さな者なのです。自分の小ささを忘れた時に生まれる罪です。一方で、主イエスは、小さな者を軽んじ、躓かせる私どもの罪を語られます。しかし、他方でこのことも語られるのです。
先程、ルカ福音書では「見失った一匹の羊」であったのに、マタイ福音書では「迷い出た一匹の羊」となっていることを指摘しました。何故なのか。「迷い出た者」という言葉の中に、迷い出た者にも罪があることを含ませているのです。「迷い出た一匹の羊」を、15節ではこのように言い換えています。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」。迷い出た者の罪をも、主イエスは見逃しておられないのです。
私どもには小さな者を躓かせる罪があります。迷い出た者にも罪があります。一体どうしたらよいのでしょうか。
②主イエスは語られます。小さな者一人一人に天使が遣わされ、私たちの天の父の御顔を仰いでいる。主イエスが語られた御言葉の中で、私が大好きな御言葉の一つです。イメージ豊かな御言葉ですね。ああ、主イエスはこのようなまなざしで、一人一人をご覧になっておられるのだなあと感嘆いたします。迷い出た一匹の羊は、天の父の御顔を仰がなくなっているかもしれない。祈らなくなっているかもしれない。しかし、天使が代わって、天の父の御顔を仰いでおられる。「アッバ、父よ。私たちのお父ちゃん」と代わって呼んで下さっているのです。天の父の御前から迷い出て、天の父に祈ることも、讃美歌を歌うこともしなくなっている者の代わりに、天の父が遣わされた天使が代わりに、天の父の名を呼び、祈り、讃美歌を歌っている。このような神の御業を見ることが出来るから、私どもは迷い出た一匹の羊を羊飼い主イエスと共に、捜し求めるのです。
先週、箴言20章12節の御言葉と出会いました。
「聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた」。
素敵な御言葉です。私どもの聞く耳、見る目が確かであるのではありません。私どもはしばしば聴くべき言葉を聴き漏らします。見るべきものを見落とします。何よりも天の父が私どもに語りかけておられる御言葉です。私どもに行われている御業です。天の父の御言葉、天の父の御業、それを聞く耳、見る目は、主が造られたものです。霊の耳と霊のまなざしは主によって造られ、与えられるものです。主が造られた霊の耳と霊のまなざしをとおして、私どもはこの世の現実に逆らって神の現実を見ることが出来るのです。小さな者の天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる。主イエスが語られた唯一の天使理解です。
3.①このような流れの中で、主イエスは迷い出た一匹の羊の譬え話を語られたのです。
「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた99匹より、その一匹のことを喜ぶだろう」。
迷い出た一匹の羊を捜し出し、見つけた喜び。それは羊飼い主イエスの喜びです。同時に、小さな羊飼いである私どもの喜びです。天の父を知らなかった求道者が洗礼へと導かれ、教会の群れに加えられる。それは天がどよめく喜びです。しかし、同時に、洗礼を受け、教会から迷い出た一匹の羊が主に立ち帰り、再び教会の群れに加えられる。これもまた天がどよめく大きな喜びです。しかし、同時に、求道者を洗礼へ導くこと以上に、教会から離れた迷い出た一匹の羊を再び教会へと導くことは更に困難なことでもあります。
主イエスはこの譬えを語られた後、このように結ばれました。
「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。
ここに天の父の御心があります。主イエスの御心があります。小さな者の一人が滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。あなたが天の父を知らず、失われたままで滅びることは、天の父の御心ではない。あなたが教会の群れから離れ、迷い出た一匹の羊として滅びることは、天の父の御心ではない。天の父の御心は、主に見いだされ、主に立ち帰ること、教会の群れに立ち帰ることです。
マタイ福音書18章は「教会憲章」と呼ばれて来ました。教会の牧会において最も大切な御言葉として聴かれて来ました。教会の牧会の最も大切なこと。わたしを信じるこれらの小さな者の一人を軽んじないこと。教会の群れから迷い出た一匹の羊を、捜し出し、見つけ、立ち帰らせることです。この牧会の使命を主の群れに属する小さな羊飼いである私ども一人一人が担っているのです。
地区委員会では5つある各地区において、教会から離れている一人一人の名を上げ、覚えて祈り、手紙を書き、8月の訪問月間では訪問しています。天の父の祈り、主イエスの祈り、教会の祈りを届けています。
②この御言葉を語られた後、主イエスは一目散に十字架の道を目指されました。羊飼い主イエスが犠牲の小羊となって、十字架で迷い出た一匹の羊のために、いのちを献げられました。これらの小さな者が一人も滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではないからです。
本日、預言者エゼキエルが語った御言葉を聴きました。エゼキエル書34章です。
「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」。「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる」。
主なる神が約束された牧者こそ、十字架の道を歩まれた羊飼い主イエスであったのです。預言者エゼキエルはこの御言葉の前に、33章でこう語りました。十字架の主イエスの出来事を指し示す御言葉です。33章11節以下。
「わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜をばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」。
主イエスの御言葉と響き合っています。
「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。
4.①先日の9月21日、北陸学院が創立139周年を迎えられ、記念の礼拝が捧げられました。それに併せて、『心を高く上げよう~愛唱讃美歌100選~』が刊行されました。皆さんの中にも、愛唱讃美歌の想い出を寄稿された方があると思います。北陸学院139年の歴史は、北陸の地で、祈りと讃美歌が絶えなかったということです。太平洋戦争中も祈りと讃美歌が捧げられました。これは神の奇跡としか言いようがありません。『讃美歌100選』の中に、北陸学院の歴史において忘れてはならないアメリカの女性宣教師アイリン・ライザー先生の愛唱讃美歌が、「飼い主わが主よ」であったと綴られていました。
ライザー先生は1921年(大正10年)北陸女学校に遣わされました。また、附属幼稚園の園長もされました。太平洋戦争中、帰国されましたが、敗戦の翌年、金沢に戻られ、戦後の北陸学院を立て直されました。新たに北陸学院保育短期大学を創設し、初代学長になられました。しかし、短期大学の開学式に、ライザー先生のお姿はありませんでした。北陸学院全体の校舎建築資金を集めるために、アメリカの教会を巡って、寄付を募っておられました。その資金が主な財源となって、1952年に北陸学院高等学校校舎や栄光館が完成しました。
ライザー先生の献身的な働きにより、北陸学院の基礎が固められました。戦前戦後の29年の働きを終え、故国に帰られました。1,969年10月、故郷のミシガンで亡くなられました。その翌年の1月17日、北陸学院は金沢教会で、アイリン・ライザー先生の追悼式を開きました。その時、歌われた讃美歌が、ライザー宣教師の愛唱讃美歌「飼い主わが主よ」でした。羊飼い主イエスに導かれて、小さな羊飼いとなって喜んで北陸学院で、幼児教育のために奉仕されたのです。
②先週日曜日、『心を高く上げよう~讃美歌100選~』を手にし、また同時に、雑誌『季刊教会』が送られてきました。その中に、以前、北陸学院大学でキリスト教保育を教えておられた熊田凡子(くまた・なみこ)先生のアイリン・ライザー先生の文章を読みました。「キリスト教教育における女性宣教使のまなざし」という主題の文章です。
1924年(大正13年)12月24日、北陸女学校附属幼稚園のクリスマスでの出来事です。
「はじめてツリーを見た子どもたちが部屋の隅に立ったまま、キラキラと銀色と緑で輝くツリーを見て驚き感動する姿に共に心を動かされた」。
「年長の男児が羊飼い、年少の男児と女児が羊役、羊飼いは小羊の世話をよくし、いよいよ降誕の場面となった。羊飼いが赤ちゃんキリストを拝みに登場」。「すると、小羊の年少児が囲いの中で眠ってしまっていたのである」。アイリンはその姿をも愛しんだ。
「子どもは木や美しいものは神さまイエスさまにつながっていると考えていて、子どもたちが『イエスさま』、と呼ぶ時は本当に真実である」。
これがライザー先生のキリスト教保育におけるまなざしである。それほどに子どもたちの素直な信仰の心を尊敬した。
ライザー先生は北陸女学校で、英語、料理、聖書を教え、女学生と心を共にしました。卒業生のバイブルクラス生や寮生をも愛されました。ライザー先生は女学生らは、霊的なことに対して驚くほどに率直だったと受け止め、女学生の信仰の育ちを信じました。寮生22人中21人がキリスト者になりたいと告白し、うち10人が受洗志願を親に知らせ、5人の女学生が洗礼に導かれました。
ライザー先生は太平洋戦争中、帰国され、日系人が収容されているコロラド州砂漠地帯アマチの収容所で、日系人のための教育活動をされました。その時、子どもと共に見たことを報告しています。
「今はサボテンの花が咲いています」。
厳しい環境の中で、しかし、サボテンの花は咲いている。それと同じように、私どももどんなに厳しい環境の中に置かれても、羊飼い主イエスが蒔いて下さった御言葉の種によって、主を賛美する花を咲かせることが出来る。
「飼い主わが主よ、まよう我らを、若草の野べに、ともないたまえ、
我らを守りて、養いたまえ、我らは主のもの、主の群れなれば」。
ライザー先生の愛唱讃美歌です。日系人の子どもとサボテンの花を見ながら歌ったのかもしれません。収容所という自由を奪われた環境にあっても、われらを導くのは、ただ羊飼い主イエスのみ。
羊飼い主イエスに導かれて、私どもも小さな羊飼いとなって、失われた一匹の羊、迷い出た一匹の羊と向き合うのです。
お祈りいたします。
「主よ、私どもも失われた羊として、自ら気づくことなく、滅びに向かって歩んでいたのです。しかし、羊飼い主イエスが、あなたが滅びることを願わないと言って、私ども捜し出し、見つけ、主のもとに立ち帰らせて下さったのです。しかし、主よ、羊の群れから迷い出た一匹の羊がいます。私どもも羊飼い主イエスに導かれて、小さな羊飼いとなって、迷い出た一匹の羊と向き合わせて下さい。牧者なる主よ、どうか御手もて導いて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。