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「途方に暮れても失望せず」

詩編 30編2~13節
使徒言行録 16章25~34節

井ノ川 勝 牧師

2026年1月11日

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2026.1.11. 「途方に暮れても失望せず」

       詩編30:2~13,使徒言行録16:25~34

 

1.①新しい年を迎え、一人一人が新たな志を立て、一歩を踏み出されたことと思います。私どもの教会も、先週行われた新年最初の礼拝で、新たな志を立てて、新しい年の歩みを始めました。

 しかし、私どもの歩みは、自分たちの思い描いた通りには行きません。思い掛けない出来事が起こります。自分たちが立てた計画通りには進みません。道が閉ざされてしまう。行き詰まりを経験します。しかし、そこでこそ、私どもは改めて問いかけます。私どもの歩みを導いているのは、一体誰なのか。

箴言16章9節にこういう御言葉があります。口語訳です。

「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である」。

私どもの歩みを導いているのは、私どもの知恵や力ではありません。主なる神が導いておられる。それ故、道が閉ざされ、行き詰まってしまっても、主が思いも掛けない道を備えて下さるのです。新たな道を拓いて下さるのです。信仰の歩み、教会の歩みは、主なる神の導きで一足一足道を示され、歩みを重ねて来たのです。

 

金沢教会は5年後の2031年に、教会創立150周年を迎えます。信仰の先達の歩みを継承しつつ、新たな歩みを主に導かれて刻みたいと願っています。昨年、「伝道の幻に生きる教会」という主題を掲げ、各員会で伝道の幻を語り合いました。また、教会修養会でも、この主題を巡って学び合い、語り合いました。更に、水曜日の聖書研究・祈祷会では、最初の教会の伝道物語である使徒言行録の御言葉を、共に黙想しました。それを「伝道黙想」と呼びました。説教者が説教を作成する時、「説教黙想」をします。神が今、この御言葉を通して、私どもに何を語られておられるのかを、ひたすら聴くのです。「伝道黙想」は教会員皆で行います。神が今、この御言葉を通して、私どもに何を語りかけておられるのかを、ひたすら聴くのです。神が今、私どもにどのような伝道の幻を与えておられるのかを、ひたすら見るのです。

 「使徒言行録」は以前は、「使徒行伝」と呼ばれていました。甦られた主イエスとお会いし、甦られた主イエスによって伝道に遣わされた使徒たちの伝道物語です。しかし、「使徒行伝」は「聖霊行伝」とも呼ばれていました。実は、この呼び名こそがふさわしいのです。伝道の主体は使徒たちではなく、聖霊なのです。聖霊が伝道を導くのです。教会の伝道計画がことごとく挫折しても、行き詰まっても、聖霊が思い掛けない仕方で、新たな道を拓いて下さる。教会の伝道は聖霊に導かれて行われて来ました。

 「伝道黙想」、それは私どもを伝道の主語とするのではなく、聖霊を伝道の主語とすることです。聖霊が伝道の主語となった時、新たな伝道の道が拓かれるのです。聖霊によって、新たな伝道の幻を見させていただくのです。

 

2.①この朝、私どもが聴いた御言葉は、使徒言行録16章です。使徒言行録16章全体が、最初の教会の伝道の大きな転換点となりました。それは伝道に成功したからではありません。伝道に失敗した、挫折したからです。全ては失敗と挫折から始まりました。

 アンティオキア教会の祈りに押し出されて、伝道者パウロ、シラス、テモテは、第二回伝道旅行へ遣わされました。教会が立てた伝道計画は、アジア州、今日のトルコで、伝道することでした。ところが、行く先々、ことごとく道が塞がれてしまいました。言い換えれば、伝道計画通りに行かなかった。伝道に失敗した、挫折したということです。伝道者にとって、打ちのめされる出来事でした。自分たちが語る御言葉が一人一人の魂に届かないからです。洗礼へと導けなかったからです。

 しかし、パウロたちはこの伝道の挫折を、このように受け止めました。「アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」。「イエスの霊がそれを許さなかった」。不思議な言葉です。人間の目から見れば、自分たちの伝道が失敗したのです。しかし、神のまなざしから見れば、聖霊が禁じたから、自分たちが立てた伝道の道が閉ざされたというのです。ここに、伝道の主体は聖霊である、伝道の主語は聖霊である、という捉え方があります。伝道の主体は聖霊、伝道の主語は聖霊という捉え方は、伝道の成功だけではなく、伝道の失敗の時にこそ行われるものだということです。

 

行く先々の道が聖霊によって閉ざされ、パウロたちが漸く辿り着いたのは、アジア州の最も西にあるトロアスという源町でした。道はそこで行き止まりです。目の前はエーゲ海です。道がないのです。パウロは頭を抱え込みました。「一体、どこで伝道すればよいのか。道が完全に閉ざされてしまったではないか」。その夜、パウロは幻を見ました。一人のマケドニア人が立って、懇願します。「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」。パウロはこの幻は夢ではなく、主が与えられた伝道の幻だと受け止めました。自分たちが立てた伝道計画はことごとく挫折した。しかし、主は新しい伝道の幻を見させて下さった。その主の幻こそ、エーゲ海を越えて、ギリシャ半島の北、マケドニア州に渡り、マケドニア人に御言葉を語ることでした。パウロがこの幻を見た時、すぐにマケドニアに向けて出発しました。ヨーロッパ伝道の幕開けです。ヨーロッパ伝道は主の幻によって、思い掛けない仕方で道が拓かれました。行き止まりの海に敷かれた主の新たな伝道の道でした。

 幻の中に現れたマケドニア人こそ、パウロの伝道旅行に加わり、使徒言行録を綴ったルカであったと言われています。それ故、この場面から人称代名詞が変わります。「彼らは」から「私たちは」となります。ルカは今までは外からパウロたちの伝道を眺めていました。それ故、「彼らは」でした。しかし今や、聖霊に促されて、パウロたちの伝道一行に加わりました。それ故、「私たちは」です。伝道は外から眺めるものではなく、一緒に加わってなすべきものです。「彼らの伝道」から「私たちの伝道」への転換が、聖霊によってなされるのです。あなたも伝道に加わることを、聖霊は促しているのです。

 

3.①聖霊に導かれて初めて、エーゲ海を越え、ヨーロッパ大陸に足を踏み入れたパウロたちが、最初に伝道した町は、マケドニア州のフィリピでした。最初の受洗者が与えられました。紫布を扱う商人で、ユダヤ人の女性リディアでした。ヨーロッパ伝道の最初の受洗者です。リディアだけでなく、その家族、紫布の商店の職人たちも洗礼を受けました。そしてリディアの家がフィリピ伝道の拠点、教会となりました。

 順調なスターを切ったフィリピ伝道でしたが、伝道はいつも順調には行かないものです。大きな試練に直面します。パウロたちのキリストを伝える伝道を好意的に受け止める者がいれば、それを良く思わない人々もたくさんいました。パウロとシラスは捕らえられ、牢屋に入れられてしまいました。足には木の足枷がはめられました。自由を奪われました。伝道者は一人一人の魂に、キリストを伝えます。その伝道者が牢屋に入れられるということは、福音が牢屋に閉じ込められることです。福音が鎖に繋がれることです。

 しかし、パウロは後に、こういう言葉を若き伝道者テモテに語りました。

「この福音のために私は苦しみを受け、ついには犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」(テモテ二2・9)。

 たとえ伝道者が牢屋に入れられ、鎖に繋がれても、神の言葉は鎖には繋がれない。神の言葉は権力者の手には縛られない。いつも自由であるのです。全ての力から自由なのです。

 もし私ども伝道者、キリスト者が捕らえられ、牢屋に入れられたら、意気消沈してしまいます。もうこれで伝道は終わった、と絶望してしまいます。しかし、パウロとシラスは、真夜中、暗い牢屋の中で、足枷をはめられながらも何をしていたのでしょうか。驚くべきことに、神への賛美の歌を歌って祈っていたのです。パウロとシラスの賛美歌が牢屋に響き渡りました。私どもは鎖に繋がれているのではなく、神の言葉に繋がれ、生かされている。自由にされている。それ故、どんな状況に陥っても、神を賛美することが出来る。

 一体どんな讃美歌を歌っていたのでしょうか。ある方が推測しています。今日の私どもの愛唱讃美歌である「主われを愛す」の元になったような讃美歌を歌っていたのではないか。

「主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ。

 わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」

真夜中、全ての囚人を取り囲んでいた漆黒の闇、死の闇を引き裂くように、神への賛美がこだまする。しかも囚人たちはうるさがることなく、その讃美歌に聴き入っていました。この二人は何故、絶望の闇に覆われても、神を賛美することが出来るのか、不思議に思っていました。

 

神が教会に与えた最大の賜物は、讃美歌です。神を賛美すること。神を歌うことです。教会に託された福音こそが、「喜びの知らせ」ですから、福音は歌うことこそふさわしいものです。讃美歌は私どもの魂を慰めます。讃美歌こそが礼拝です。伝道です。讃美歌は戦いの武器でもあります。

 私の祖母は家族で唯一のキリスト者でした。信仰から滲み出る優しさに生きていました。皆から信頼されていました。しかし、晩年、リュウマチに罹り、寝たきりとなりました。よく讃美歌を歌っていました。「ああ、おばあちゃんは讃美歌が好きなんだな」と、子どもながらに思っていました。しかし、今から振り返ると、耐えられない痛みに耐えながら、讃美歌を歌っていたのだと思います。

 教会は葬儀の時でも讃美歌を歌います。死の力を前にして讃美歌を歌います。病気や高齢の教会員を訪ねて、讃美歌を歌います。病、老い、苦しみ、痛みと向き合いながら讃美歌を歌います。一人で涙を流しながら讃美歌を歌います。今朝も、病院で、施設で、自宅で、礼拝を覚えて、教会員が讃美歌を共に歌っています。讃美歌が私どもを一つに結び合わせ、賛美の共同体としているのです。教会は迫害の中でも、殉教の場面でも讃美歌を歌いました。人々は驚きました。何故、絶望の淵でも神を賛美出来るのか。

 真夜中、牢屋の中で、パウロとシラスは讃美歌を歌いました。その時、筒前、大地震が起こりました。牢の土台が揺れ動き、牢の戸がみな開きました。全ての囚人の鎖も外れてしまいました。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げ出したと思い込みました。上司から責任を問われると思い、剣を抜いて自殺しようと思いました。その時、パウロは大声で叫びました。「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる」。

看守はパウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、問いました。

「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」。

二人は答えました。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。

この時の、看守とパウロの問答が、後に、洗礼志願者と教会との信仰問答となりました。私たちの信仰問答です。

「救われるためにはどうすべきでしょうか」。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。

 ここで注目すべきことがあります。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたは救われます」とは言っていないことです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と語っていることです。

 一人が救われることは、一人だけに留まるのではありません。一人が救われることは、家族が救われることの第一歩なのです。家族全ての者に神の言葉が広がる第一歩なのです。教会の伝道は最初から、個人の救いだけでなく、家族の救いを目指し、家族伝道を重んじました。

 真夜中でありながら、パウロとシラスは看守とその家族一同に、主の御言葉を語りました。看守も家族の者も、主の御言葉を受け入れ、洗礼を受けました。看守の家族には、妻、父、母がいたことでしょう。子どもや幼児もいたことでしょう。家族皆が洗礼を受けたということは、子どもも幼児も洗礼を受けたことでもあります。この出来事が小児洗礼、幼児洗礼の聖書的典拠となりました。教会は親の信仰の執り成し、教会の信仰の執り成しにより、子どもたち、幼児に洗礼を授けることを重んじて来ました。そのことを通して、教会は神の家族であることを現して来ました。

 看守はパウロとシラスを自分の家に招きました。そして食事を共にしました。キリストに救われた喜びの食事に与りました。神を信じる者になったことを、家族ともども喜びました。真夜中の洗礼式、真夜中の愛餐会です。しかし同時に、この食卓は、洗礼を受けた者がキリストのいのちに与る聖餐の食卓であったとも言えます。キリストのいのち・聖餐に与ることこそ、神の家族・教会の交わりであるからです。

 真夜中、牢屋で、パウロとシラスの讃美歌から始まった不思議な出来事です。しかし、全ては神の伝道の御業、聖霊の御業であったのです。パウロとシラスは神を賛美する聖霊の道具、聖霊の器として、喜んで用いられたのです。

 

4.①恐らく、この時のパウロの経験を基にして生まれた言葉があります。コリントの信徒への手紙二4章7節以下の御言葉です。新約323頁。

伝道者パウロは語ります。「私どもは土の器なのだ」。様々な力が私どもを取り囲むのです。病、苦しみ、悲しみ、死の力。そのような力に取り囲まれると、土の器である私どもはひびだらけになります。私どもの命は砕け散りそうになります。しかし、パウロは語ります。

「私たちは、土の器の中に宝を宿している」。

その宝とは、主イエスのいのちです。私どものために、十字架でいのちを注がれ、私どもために死に打ち勝ち、あらゆる力に勝利をされた主イエスの甦りのいのち。その主イエスの甦りのいのちを、土の器である私どもは宿しているのです。それ故、パウロは語ります。

「私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません」。

パウロは私どもに、どんなことがあっても完全無敵になれと語られているのでしょうか。そうではありません。私どもは四方から苦難を受けて行き詰まってしまうのです。途方に暮れて失望してしまうのです。迫害を受けて見捨てられてしまうのです。倒されて滅びてしまうのです。それが土の器としての私どもの現実の姿です。しかし、土の器である私どもの内に、甦られた主イエスのいのちが宿っているのです。主イエスが生きておられるのです。それ故、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びないのです。それが主イエス・キリストにある私どもの生ける神の現実の姿なのです。

 

「途方に暮れても失望せず」。以前の文語訳ではこう訳されていました。「せん方つくれども望みを失はず」。あらゆる手立てが尽きてしまう。万策尽きてしまう。もうお手上げ状態。為す術がない。しかし、せん方つくれども望みを失わず。途方に暮れても失望せず。何故、そのような大胆なことが言えるのか。甦りのいのち・主イエスが土の器に宿って、生きておられるからです。

 銀座教会の渡辺善太牧師が、「せん方つくれども」という題で、今日の御言葉を説教されています。大学時代に説教集を読んで、感銘を受けました。

「このパウロとシラスの態度は非常なあかしになった。『あかし』とは要するに日常の心のもち方だ。あかし、あかしと騒ぎますがね、この窮地に立っていながら、動揺しないで、しかも祈りかつ讃美する、という態度がそういう力となってみえてくる。信仰生活というものは、理論も大変だが実践も大変だなァ。口でぺちゃくちゃしゃべることじゃない。生活の態度だ。自分ではあやまっていないと思うのに、逆境に立たされてどうしていいかわからない時、祈りかつ讃美する。これがキリスト教ですよ。・・

 どんな窮地に立たされても、祈りかつ讃美する。この秘密をにぎること、パウロはそのことを、『途方にくれても』と言っている。どうもこれは昔の訳の方がいいなあ、『せん方つくれども』。これをどうかお互いによく聴きたいと思います。味わいたいと思います」。

 やはり大学生時代、母教会の近藤勝彦牧師から、「せん方つくれども」という題の説教を、この御言葉から聴きました。私の伝道者としての原点となる御言葉となりました。

 たとい私どもの伝道において、せん方つくれども望みを失わず。甦りのいのち・生ける主イエスが、土の器である私どもに宿って生きて働かれているからです。途方に暮れても望みを失わず。聖霊が新たな道を拓いて下さるからです。

 

 お祈りいたします。

「主よ、道が閉ざされてしまうのです。私どもが立てた計画がことごとく打ち破られてしまうのです。途方に暮れます。せん方つきしてしまいます。どうしたらよいのか分からず、頭を抱え込んでしまいます。しかし、主よ、あなたは土の器である私どもに、甦りのいのち・主イエスを宿して下さいました。聖霊が新たな道を拓いて下さいました。それ故、途方に暮れても失望せず、どんな時にも、神を讃美し祈ります。主よ、どうか土の器であるわれらの主の群れを、聖霊によって導いて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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