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「顔を上げて生きよ」

創世記4:1~16
ヘブライ人への手紙12:1~3

主日礼拝

井ノ川勝

2024年7月28日

00:00 / 21:18

1.①私どもの心の中には、実に様々な感情が同居しています。その中には喜びの感情があります。しかし、中には人に知られたくない感情、見せたくない感情もあります。その中に「妬み」があります。自分の力では押さえられない感情の一つです。私は以前の教会で幼稚園の園長をしていました。毎日、園児と交わっていました。そこで驚き、気がついたことがあります。3歳の幼児も既に妬みの感情を持っているということです。

 妬みというものは、自分と人とを比べる。比べられる。そこから生まれて来る感情です。人と比べなければ生まれない感情です。そこに特徴があります。

 私ども人間は一人で生きることは出来ません。孤独には生きられません。それ故。私どもの命を造られた神は、私どもにふさわしい助け手を与えられました。それが家族、友、仲間です。私どもは交わりの中で、共に生きる存在なのです。共に生きることは喜びです。しかし同時に、そこには様々な感情が生まれて来ます。その一つが妬みです。

 

国際基督教大学の並木浩一先生は、旧約聖書が専門の先生です。大学のチャペルで大学生に語った説教、教会の伝道礼拝で語った説教をまとめて説教集を二冊刊行されています。『人が孤独になるとき』『人が共に生きる条件』。その中で、「カインとアベルの物語」の説教が四編も収められています。「カインとアベルの物語」を繰り返し、何度も何度も説教されています。これは説教集としては異例のことです。それだけ「カインとアベルの物語」が、現代に生きる私ども、若者に向かって、どうしても伝えたいメッセージであると受け留めていたからではないでしょうか。

聖書の一番始めに、最初の家族の物語があります。交わりに生きる家族の物語です。アダムとエバの夫婦に二人の子どもが与えられました。カインとアベルの物語です。ところが、祝福された家族の交わりに、思い掛けない出来事が起こりました。お兄さんのカインが弟アベルを殺す出来事です。人類最初の殺人事件です。一体何故、そのような悲しい事件が起こったのでしょうか。その中心にあったのは、弟アベルへの妬みであったのです。

 兄のカインは土を耕す仕事、農作物を作る仕事に就きました。弟のアベルは羊の群れの世話をする仕事に就きました。二人は毎日、誠実に働きました。やがて収穫の時を迎えました。二人は最上の初物を携えて神に献げました。神への礼拝において、それぞれが最上の物を神に献げました。

 ところが、ここで事件が起こりました。主はアベルとその献げ物に目を留められましたが、カインとその献げ物には目を留められませんでした。何故、そのようなことが起きたのか、その理由について聖書は一切語っていません。それ故、様々な理由を付けて来ました。カインの献げ物に傷があったのではないか。カインの献げる心に問題があったのではないか。私どもは様々な理由を付けて、この出来事を納得しようとします。しかし、聖書はその理由を一切語っていない。このことがとても大切だと思います。ということは、カインも、アベルも毎日、一所懸命働きました。カインは農作物の手入れをし、アベルは一匹一匹の羊の世話をしました。そして二人は最上の物を神に献げたのです。カインもアベルも、真っ直ぐな心で神を礼拝し、感謝して最上の物を神に献げました。その点において、二人に落ち度はなかったのです。

 しかし、にもかかわらず、主はアベルとその献げ物に目を留められ、カインとその献げ物に目を留められないことが起こったのです。その理由は語られていないので、全く分かりません。私ども人間の目からすれば、全く理解出来ない不条理な現実です。全く受け入れられない不公平な現実です。それが今、カインの目の前で起きたのです。

 

2.①神学生の頃、ある神学者の言葉を耳にしたことがあります。それ故、伝道者は片手に聖書、片手に新聞が手放せないと言うのです。聖書の裁量の註解書は新聞だと言うのです。聖書は私どもの日々の生活から遊離した理想を語る言葉ではありません。むしろ、聖書は私ども人間の生々しい現実を語る言葉です。聖書が語る出来事、事件は、それこそ毎日、私どもが生きている世界で起きている出来事、事件です。カインとアベルの出来事、兄弟殺し、殺人事件は、それこそ毎日、私どもが目にし、耳にするニュースです。しかし、私どもはそのような殺人事件のニュースを聞きますと、私どもとは遠い世界のことだと思っているところがあります。

 カインは人類最初の殺人者、しかも弟を殺した兄です。カインは私どもとは全く異なる人間だったのでしょうか。一所懸命に働き、最上の初物を神に献げたカイン。その献げ物を主は目に留められない。カインは神の前で、怒って顔を伏せました。顔を伏せた横には、主が目に留められたアベルの献げ物がありました。それが目の中に入って来た。何故、私の献げ物ではなく、アベルの献げ物を主は目に留められたのか。怒りに溢れます。そしてアベルさえいなければ、私の献げ物を主は目に留めて下さるに違いない。アベルへの妬みが生まれ、それが怒りに変わり、憎しみになり、遂にはアベルへの殺意が芽生えました。しかもその感情が、神の御前で、礼拝の只中に起こっているのです。

 このようなカインの心の動き、感情の動きは、私どもにもよく起こることです。カインに起きたことは、私どもにも起こることなのです。夏休みを迎えました。高校3年生は大学入試、推薦入試に向けて、勉強の日々だと思います。自分が志願する推薦入試の大学の学部の枠は1名です。その1名に入るために、一所懸命勉強をします。友人も同じ大学の学部の枠を志願しています。二人の学力も、成績も同じです。ところが友人が推薦入試に合格し、私が不合格になってしまった。何故、このような結果になったのか納得出来ない。心の中で、この友人がいなければ、私が推薦入試の合格を勝ち取ることが出来たのに、という妬みが生まれるのではないでしょうか。

 また、スポーツの夏の大会が終わると、3年生は引退し、2年生、1年生の新しいチームを作ります。皆、レギュラーを目指して、毎日、練習に明け暮れます。友もレギュラーを目指しています。同じくらいの打撃、守備、走力の成績です。ところが友がレギュラーに選ばれ、私が補欠になったらどうでしょうか。この友がいなければ、私がレギュラーの座を掴むことが出来たのにという妬みが生まれるのではないでしょうか。

 「あいつさえいなければ」。これは私どもの心の中にいつも生まれる妬みです。カインが経験した不条理は現実、不公平な現実は、私どもも日々経験し、味わっている現実でもあるのです。私どもの生きている世界、日々の現実の中に、どうしても理解出来ない不条理な現実、不公平の現実があるのです。そのような現実とどのように向き合って生きて行くのか。「カインとアベルの物語」は将に、そのことを問題とし、問いかけているのです。

 

宗教改革の時代、聖書の教えを問答形式でまとめた信仰問答が作成されました。その中に、『ハイデルベルク信仰問答』があります。「十戒」の第6戒に、「あなたは殺してはならない」があります。誰もがこの戒めに向き合う時、私はナイフで人を刺し殺すような人間ではない。私とは関係ない戒めだと思っています。ところが、この信仰問答は、「あなたは殺してはならない」という戒めを、このように解き明かしています。私どもがナイフで人を殺す外的な殺人だけを意味しているのではない。私どもの心の中で生じる感情、内的な殺人をも意味しているのだと解説しているのです。これは本当に驚きです。私どもの心の中に芽生えた小さな妬みが、憎しみの変わり、怒りとなって膨れ上がり、復讐心となり、「あいつさえいなければ」と心の中で人を殺してしまう。心の中での殺人事件。これは誰にでも起こることなのです。

 聖書にこういう御言葉があります。ヨハネの手紙一3章15節。

「愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです」。

 私どもの心を突き刺す御言葉ですね。誰もが身につまされる言葉です。

 有島武郎という作家が、『カインの末裔』という小説を書いています。私どもは誰もがカインの血が流れている、カインの末裔なのです。

 

3.①カインが一所懸命に働き、真心を込めて献げた初物が、主に目を留めていただけない。アベルが献げた初物を、主は目を留められた。カインは激しく怒って顔を伏せました。しかし、その時、主はカインに語りかけました。礼拝での神の言葉です。カインの献げ物に目を留められなかった主は、カインを全く無視し、退けられているのではありません。カインの心の感情を知っておられるのです。それだから、主はカインに語りかけられるのです。

「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」。

 「カインよ、あなたが誠実に働き、真心を込めて献げた物であるならば、たとえ主が目を留められなくても、怒って顔を伏せるのではなく、顔を上げて生きなさい」。「顔を上げて生きよ」。主がカインに切実に呼びかけていることです。悪魔に隙を見せて、悪魔に唆されて罪を犯してはならない。

 ある方は語ります。不条理な現実に直面した時、ヨブは顔を上げた。しかし、カインは顔を伏せた。神に対して真っ直ぐな信仰に生きていたヨブは、財産、息子、娘、自らの健康を次々と失いました。何故、このような不幸、苦しみを味わわなければならないのか。ヨブは顔を上げて、神に向かって問い続けました。こんな不条理な現実を、神よ、あなたは黙ったままでよいのですか。赦してよいのですか。ヨブは神の胸ぐらを掴むようにして、激しく何度も問いかけました。しかし、カインは激しく怒って顔を伏せました。神を伏せることは、神に問いかけることをしないで、自分の心の中で堂々巡りを繰り返し、自問自答するだけです。そこからは妬みが生まれ、憎しみに変わり、怒りが満ち溢れ、殺意が生まれるだけです。

 

礼拝が終わった後、カインはアベルを野原に誘いました。そしてアベルを殺し、土に埋めました。アベルの仕事は土を耕し、農作物を育てることです。土が命を生み出し、命を育む生命力を持っていることを、カインは農夫として誰よりもよく知っているのです。しかし、命の源である土の中に、アベルを殺して、埋めたのです。命の源である土がアベルの血で染まりました。神から与えられた命、神が共に生きなさいと与えて下さった命を、自ら葬り、土に埋めました。

 主はカインに問いかけます。「お前の弟アベルは、どこにいるのか」。

主はアダムとエバにも問いかけました。「あなたはどこにいるのか」。これは主が私どもに問いかける根源的な問いかけです。私どもが生きる上でとても大切なことは、今、自分はどこにいるのか。どこに立っているのかです。そのためには、生きる座標軸がどうしても必要なのです。神が呼びかけて下さる。神が語りかけて下さる。神の御言葉こそ、座標軸の縦軸です。神の呼びかけ、神の語りかけに応えて生きる。それが座標軸の横軸です。その時、私どもと共に生きるあなたの隣人はどこにいるのかが、神から問いかけられるのです。「お前の弟アベルは、どこにいるのか」。

カインは答えます。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」。神が共に生きるために、与えて下さった最も身近な隣人、弟アベルを拒否する言葉です。私は弟の隣人ではない、共に生きる命ではないと、突っぱねる言葉です。

土の中からアベルの血が叫んでいます。「私の復讐をしてほしい」。カインは主から土を耕す仕事を追われ、故郷を追われ、地上をさすらう者となりました。しかし、主はカインが復讐の血を浴びないように、しるしを付けられました。カインの末裔レメクは、復讐の歌を作り、歌いました。

「カインのための復讐が7倍なら、レメクのためには77倍」。

やられたら、7倍、77倍にしてやり返せ。今、私どもの世界にこだましている復讐の歌です。神が造られた命の大地、命を生み出す大地は、復讐の血で染まっています。アベルの血が毎日のように、大地に流れています。大地は命の主をほめたたえるのではなく、「私の復讐をしてほしい」と叫んでいます。やられたら、7倍、77倍にしてやり返せ。世界は復讐の論理で支配されています。その行き着く所は滅びです。

「カインとアベルの物語」が、現代の私どもの問題であることを改めて心に刻みます。

 

4.①「カインとアベルの物語」は、新約聖書でしばしば触れられています。その中で、私が最も心に留めているのは、今朝、聴いたもう一つの御言葉、ヘブライ人への手紙12章24節の御言葉です。418頁。

「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です」。

神が造られた命の大地に、アベルの血が流れている。アベルの血は今日も、大地に流れている。そして命の大地は叫んでいる。「私の復讐をしてほしい」。しかし、神が造られた命の大地には、十字架で流された主イエスの血が注がれているのです。それ故、ヘブライ人への手紙は語るのです。アベルの血の復讐の叫びよりも、主イエスが十字架で流された血が力強く語っている。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」。

主イエスが掛けられた十字架こそ、復讐の論理、復讐の歌で支配されている世界に打ち付けられた赦しの楔です。

 主イエスが十字架で、私どもの妬み、憎しみ、怒り、復讐心、殺意を全て受け留め、負われ、大地に血を注いで下さった。「あなたも赦しの中に立ちなさい」。それこそがあなたを生かす源なのだ。

 「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です」。

 このように12章24節で語るヘブライ人への手紙は、12章の冒頭でこう語りました。

「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを仰ぎ見ながら」。

 不条理な現実の中で、不公平な現実の中で、カインのように怒って顔を伏せる私どもです。しかし、主は呼びかけられるのです。「どうして顔を伏せるのか。顔を上げて生きよ。私どもが生きる大地に、十字架の血を注いで下さった主イエスを仰ぎ見ながら生きよ」。

 

説教の冒頭で、並木浩一先生の説教集を紹介しました。「カインとアベルの物語」を繰り返し、何度も説教されています。現代へのメッセージを聴き取っているからです。その中に、説教集の題名にもなりました説教「人が共に生きる条件」があります。その中で、このように語られています。

「今日、人がこの世界で自分の落ち着き先を確保するためには、他の人びととの競争を回避することができません。ことに若い人びとは競争を経験することなく成人できません。受験があり、就職試験、職場での競争があり、異性の獲得競争があります。能力のある人、恵まれた環境の人を羨望の眼で見ないで成人を遂げるという若い人はまずいないと思います。

 競争社会で生きなければならない人びと、ことに若い人びとは何かの折りに他人に対する嫉妬心を懐くでしょう。カインのように挫折感を味わうこともあるでしょう。大胆に申し上げますが、それはそれでよいのです。ただ、カインの轍を踏まないことだけが大事です。神と自分との関係を自分の都合の良いように空想して、その虜になることは避けなければなりません。今日のみ言葉はそれについての力強いメッセージを私たちに伝えています。それは私たちの顔をまっすぐに神に向けることです。神の呼びかけに耳を傾けること、そのことによって私たちは空想の虜になることを免れるのです。信仰の具体的な意味がここにあります。

 私たちが苦しいとき、羨望の念に捉われているときは、顔を上げて神に率直に語りかけましょう。心を高く上げましょう。そのとき、私たちは自分の自我に束縛される焦燥から解放されるでしょう。それにより私たちはどんな人とも共に生きることができるのです。聖書のみ言葉はそのように私たちを招いてくれます」。

 

 お祈りいたします。

「主よ、あなたの御前に立つ時に、私どもの心の中が明らかにされます。いつも自分と友とを比べています。妬みが生まれています。妬みが憎しみに変わり、怒りに膨らみ、あいつさえいなければと、心の中で殺人事件を犯している私どもです。そのような私どものために、十字架で血を注いで下さった主よ。あなたの呼びかけを聴かせて下さい。怒って顔を伏せるな。顔を上げて、不条理な現実の中を生きなさいと。

 復讐の論理で支配される世界に、十字架という赦しの楔を打ち込まれた主よ。どうかこの世界のために執り成して下さい。あなたに向かって心を高く上げさせて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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