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「顔を合わせられない」

創世記32:23~33
コリント二12:7b~10

主日礼拝

牧師 井ノ川勝

2024年9月22日

00:00 / 38:04

1.①私どもには顔と顔とを合わせ、言葉を交わし合う家族、友、信仰の仲間がいます。それがどんなにか大きな恵みであるのか、毎日、顔を合わせていますと、当たり前のように思っていて、その恵みを忘れてしまっていることがあるのではないでしょうか。離れている家族がいる、友がいますと、ああ会いたい、顔を見たいと切に思います。先週、教会員のお母さまが亡くなられ、葬儀が行われました。いつも顔を合わせていたお母さまと、もはや顔を合わせることが出来ない。それは深い悲しみ、痛みです。

 しかし他方で、私どもは顔と顔とを合わせ、言葉を交わすことを嫌っている相手がいることも確かなことです。どうもあの方と顔を合わせたくない。顔を合わせても、視線を逸らしてしまいます。あの方の顔を見ただけで、お腹が痛くなってしまう。そういう相手は誰にも必ずいるものです。

 そのような私どもの心の中をよく知っておられるのは、主イエスです。その主イエスが私どもに向かって語りかけておられるのです。

「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい」。

隣り人を愛するということは、何よりも顔を合わせることです。顔を合わせて言葉を交わし合うことです。そのことなくして、私は隣り人を愛しているとは言えないのです。

 今、世界においても、民族と民族同士が、国と国同士が、顔と顔とを合わせることが出来ず、言葉を交わし合うことが出来ない現実があります。お互い憎み合い、攻撃し合い、痛めつけています。両者の間には深い溝があって、それを埋めることが出来ないのです。私どももその現実に、日々心痛めています。しかし、それは同時に、私どもの身近な人との現実でもあるのです。顔と顔とを合わせられない、言葉を交わし合うことが出来ない悲しみと痛みを日々、味わっているのです。

 

聖書には実に様々な、個性的な人物が登場します。私どもはその人物に自分を重ね合わせながら、聖書の御言葉を聴きます。しかし、その中で、私は創世記に登場するヤコブが好きだ、と言われる方はいないのではないでしょうか。教会学校の子どもたちに、聖書に登場する人物で誰が好き、と尋ねたら、僕はイエスさま、ペトロ、私はマリアという返事が返って来るでしょう。僕はヤコブが好きだと言う子どもはいないのではないでしょうか。何故、ヤコブは人気がないのでしょうか。

双子の兄弟でありながら、20年間、顔と顔とを合わせられず、言葉を交わし合うことの出来ない兄弟がいました。創世記に登場するヤコブとエサウです。弟ヤコブは兄エサウを騙して、長男だけに与えられる神の民の祝福を奪い取りました。その結果、二人は共に顔と顔とを合わせて生活することが出来なくなりました。ヤコブは家を飛び出し、遠い地に住む、叔父ラバンの許へ逃げ込みました。しかし、今度はヤコブが、叔父のラバンから何度も何度も騙されるのです。ラバンの許で働かされ、20年間も故郷に帰ることが出来なかったのです。兄エサウから神の民に与えられた祝福を騙して奪い取ったヤコブの罪が、20年間の様々な試練を通して打ち砕かれなければならなかったのです。

富士見町教会の初代の牧師・植村正久牧師が、今日の御言葉を説教しています。「神と角まえるヤコブ」という題の説教です。「角まえる」とは、神と相撲を取ることです。植村牧師は語るのです。ヤコブは将に、私なのだ。あなたもヤコブなのだ。

 

2.①ヤコブは叔父ラバンの許を離れ、20年ぶりに故郷に戻ってきました。故郷を後にした時は空手でしたが、今は、叔父ラバンの娘ラケルとレアの二人の妻、二人の側女、11人の子どもたち、沢山の家畜を伴って帰ってきました。故郷に帰ることは、顔と顔とを合わせられない、言葉を交わすことの出来ない兄エサウと再会する決心をすることを意味していました。それは兄弟として乗り越えなければならない深い溝であり、乗り越えられない深い溝であったのです。故郷を隔てるヤボク川、その川に掛かるヤボクの渡しは、将にその象徴でした。川を渡るということは、いつの時も命懸けでありました。兄エサウと再会する前に、どうしても渡らなければならない川、そして川を渡る前に受けなければならない試練がありました。それが神と顔を合わせること。神との相撲、神との格闘であったのです。

 ヤコブはヤボクの渡しを渡り、兄エサウと再会するに当たり、周到な準備をしています。あらん限りの人間的な手立てを尽くしています。叔父ラバンの許で得た多くの家畜を、エサウに贈り物として届けました。しかし、そこで兄エサウが400人のお供を連れて、ヤコブを迎えようとしているとの知らせを受けました。エサウがヤコブに攻撃を仕掛けようとしていると、恐れと不安に満たされました。その時のヤコブの心の動揺がよく表れている御言葉があります。今日の直前の御言葉です。32章21節。

「ヤコブは、贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくれるだろうと思ったのである」。

直訳するとこうなります。

「わたしの顔の前に行く贈り物で、兄の顔を覆い、その後、わたしは兄の顔を見よう。恐らく兄はわたしの顔を上げてくれるであろう」。

 「顔」という言葉が実に4回も用いられています。ヤコブは兄エサウの顔が気になってしょうがないのです。あっちを見てもエサウの顔、こっちを見てもエサウの顔がある。エサウの顔に四面楚歌されている。四方八方、エサウの顔に囲まれ、がんじがらめになっている。エサウの顔から自由になれずに、びくびくしているのです。私どもにもそういう顔があります。その方の顔を思い出しただけで、心が痛くなる。夢にまで出てくる顔があります。私どもが赦すことの出来ない顔があります。私どもが赦されない顔があります。顔から自由になれないことが、どんなに辛いことか。誰もが味わっている痛みです。

 断絶した兄エサウと顔を合わせ、言葉を交わすためには、どんなに人間的な手立てを尽くしても成し遂げられるものではありません。そのためにも神と顔と顔とを合わせ、神と格闘する必要があったのです。

 

ヤコブは夜、二人の妻、二人の側女、11人のわが子を連れて、ヤボクの渡しを渡らせました。しかし、ヤコブ独りが残りました。その時です。何者かがヤコブに近づき、ヤコブと相撲、格闘を始めました。神の使い、それは同時に、神御自身であられました。ヤコブも必死になってしがみつき、踏ん張りました。両者互角で、その相撲は夜明け前まで続きました。手に汗握る大勝負となりました。一体どちらが勝ったのでしょうか。

 神の使いはヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ち、腿の関節を外しました。神の使いは叫びました。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」。しかし、ヤコブは必死に食い下がりながら答えました。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」。神の使いは答えられました。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」、

 これだけ見ますと、ヤコブが勝って、神は負けたように思えます。しかし、果たしてそうなのでしょうか。二人が相撲を取りながら、交わし合った言葉がとても重要です。神は問われます。「お前の名は何というのか」。名は存在を表します。言い換えれば、「お前は何者なのか」。神がいつも私どもに問われる問いかけです。「ヤコブです」。ヤコブという名は、ヤコブが生まれた時の動作から付けられた名です。双子として生まれたヤコブは、兄エサウのかかとを掴みながら生まれて来ました。「掴み取る」。それがヤコブです。そいてヤコブは兄エサウを騙して、長男に与えられた神の民の祝福を掴み取りました。ヤコブという名には、兄を騙してでも自分の手で掴み取るという罪が纏わり付いているのです。「わたしはヤコブです。自分の手で掴み取る者です」。自分の名を名乗る度に、自分の罪が曝け出されるのです。そしてその罪が、兄エサウと顔と顔とを合わせられない、言葉を交わし合えない深い断絶をもたらしているのです。ヤコブを悩ましているものです。

 しかし、神は相撲を取りながらヤコブに語られました。

「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」。

 名が与えられる。存在が新たにされることです。お前の新しい名は「イスラエル」。これが後に、民族を表す名となりました。お前は神と人と闘って勝ったから、「イスラエル」と呼ばれる。勝者に与えられた名です。しかし、「イスラエル」という名は、「主こそが支配される」という意味です。神に勝ったヤコブが、実は、「主こそがあなたを支配されている」という名を与えられているのです。しかも神に勝ったヤコブは、腿の関節を打たれ、外され、足を引きずる者とされているのです。肉体に与えられた棘です。

闘いに勝ったのは、ヤコブではなく、実は神であられたのです。「お前の名はヤコブ、自分の手で掴み取る者ではない。お前の名はイスラエル、主こそがあなたを支配されている」。それ故、主の御手に導かれて、足を引きずりながらも、主に従って歩みなさい。神はその場でヤコブを祝福して下さったのです。

 

3.①ヤコブは叫びました。

「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」。神と顔と顔とを合わせながら格闘し、なおわたしは新しい名を与えられて生かされている」。ヤコブはその場所を「ペヌエル」(神の顔)と名付けました。ここでも「顔」という言葉が繰り返されています。「顔」が主題となっています。ここでは特に、「神の顔」が強調されています。真実に畏れなければならない顔は、兄エサウ以上に、神の顔です。神の顔と向き合うことなくして、兄エサウの顔とも向き合うことは出来ないのです。それ故、神の顔と顔とを合わせて、格闘しなければならなかったのです。

ヤコブは夜を徹しての神との闘いで疲れ果てていました。ヤコブが足を引きずりながら、ヤボクの渡しを渡った時、太陽はヤコブの上に昇り、朝の光が射し込みました。朝の光がヤコブを照らしています。故郷への帰還の第一歩です。兄エサウと顔と顔とを合わせる第一歩を踏み出しました。この描写は大変印象深く、文学的であり、絵画的で、情景が浮かび上がって来ます。

 神と顔と顔とを合わせて、神と格闘した出来事は、ヤコブにとって忘れられない神体験となりました。しかし、ヤコブにとってもう一つに忘れられない重要な神体験がありました。兄エサウを騙して、長男が受け継ぐべき神の民に与えられた祝福を奪い取ったヤコブは、エサウと顔と顔とを合わせることが出来なくなり、家を飛び出しました。夜、石を枕に野宿しました。深い闇に覆われ、孤独に耐えきれなくなりました。その時、天から梯子が降りて来ました。天と地を結び梯子です。神の御使いが梯子を上り下りしていました。その時、神はヤコブに語りかけました。

「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。創世記28章10節以下の出来事です。

 広大な荒れ野で独り、深い闇に包まれていたヤコブが、天からの梯子によって、神と繋がれている。ヤコブは枕にしていた石を立てて、この場所を「ベテル」(神の家)と名付けました。ヤコブはこの神の約束をひたすら信じて、20年間、叔父ラバンの許で働き、今、故郷に帰り、兄エサウと顔と顔とを合わせようと決心したのです。

 「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたが約束したことを果たすまで決して見捨てない」。

 このように約束された神が、天から降られ、自らの罪に苦しむヤコブの前に現れ、顔と顔とを合わせて、ヤコブの全てを受け留め、全力で格闘して下さったのです。神はヤコブの腿の関節を打ち、足を引きずる者とし、お前の名はヤコブ、自分の手で掴み取る者ではない。お前の名はイスラエル、主こそがあなたを支配し、主に導かれる者だ。ヤコブは神との格闘を通して、新しくされたのです。

 ヤコブは足を引きずりながら、ヤボクの渡しを渡った時、太陽が昇り、朝の光がヤコブを照らした。

 

ヤコブと神との格闘の御言葉は、キリスト教会の教会暦ではいつ礼拝で読まれるのでしょうか。復活祭の次の主日です。この日を、「生まれたばかりの乳飲み子のような日」と呼びます。ペトロの手紙一2章1節の御言葉から採られました。復活祭に洗礼を受け、新しく生まれ変わった者が、初めて混じりけのない霊の乳、聖餐に与る日です。その出来事と響き合う御言葉が、神との格闘を通し、新しくされ、朝の光を浴びながら、ヤボクの渡しを渡るヤコブと重ね合わせたのです。新しくされたヤコブこそ、キリストの甦りの光を浴びて新しくされた私どもキリスト者の姿であると受け留めたのです。

 ヤコブはヤボクの渡しを渡り、20年ぶりに故郷の地に足を踏み入れました。そこには兄エサウが立っていました。ヤコブは兄エサウの許に着くまでに七度地にひれ伏しました。エサウは走って来てヤコブを迎え、抱きしめ、首を抱えて口づけし、共に泣きました。その時、ヤコブは兄エサウに語りかけました。

「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます」。33章10節の御言葉です。

 ある伝道者がこの御言葉を説教しています。これはヤコブの兄エサウへの媚びへつらいであると言うのです。関西弁で言えば、「おべんちゃら」だと言うのです。しかし、これまで見て来ましたように、ヤコブは兄エサウと顔と顔とを合わせるため、周到な準備をし、あらゆる人間的な手立てを尽くして来ました。しかし、それだけでは兄エサウと顔と顔とを合わせる恐れを取り除けなかったのです。だからどうしての神と顔と顔とを合わせて格闘することが必要だったのです。兄エサウの顔に、神の顔を見る。神の顔を顔と顔とを合わせて格闘することなくして、兄エサウと顔と顔とを合わせることは出来ないことを表しているのです。

 

4.①私どもが主の日、主の御前に立ち、礼拝を捧げる。将に、礼拝こそがペヌエルです。神と顔と顔とを合わせ格闘する場所です。主の御前に立つ時に、必ず想い起こす主イエスの御言葉があります。山上の説教で語られた御言葉です。主の御前に立つ時に、兄弟と仲直りしてから立ちなさい。兄弟と和解してから立ちなさい。この主イエスの御言葉は、主の御前に立つ私どもに、いつも鋭く突き刺さる御言葉です。私どもには顔と顔とを合わせ、言葉を交わし合えない兄弟姉妹がいるからです。神と顔と顔とを合わせた時に、私どもにのし掛かる私どもの罪の重荷です。私どもはいつも仲直り出来ないまま、和解出来ないまま、神の御前に立っているのです。私どももヤコブのように神の御前に立っているのです。

 ヤコブは神と顔と顔とを合わせて、夜通し格闘しました。このヤコブになって、夜を徹して、父なる神と格闘された方がおられます。主イエスです。兄弟姉妹と顔と顔とを合わせ、言葉を交わすことの出来ない罪ある私ども。神と顔と顔とを合わせることも出来ない罪ある私どもの先頭に立って、主イエスはゲツセマネで夜通し、父なる神と顔と顔とを合わせて、血のような汗を流されながら、ただ独り格闘されました。それこそが十字架を前にされたゲツセマネの祈りでした。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。

 主イエスのゲツセマネの祈りは、十字架の上でも続きました。

「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになられたのですか」。

父なる神は十字架の上で、私どもの代表する主イエスを腿の関節に留まらず、全身打たれました。しかし、父なる神は主イエスを死人の中から甦らせ、立たせられました。甦られた主イエスは、顔と顔とを合わせることの出来ず、家の中に閉じこもっている弟子たちと顔と顔とを合わせ、いのちの息を注がれました。弟子たちは主に遣わされ、家の扉から出て行きました。私どもは甦られた主イエスと顔と顔とを合わせ、打ち砕かれて新たにされ、甦りの光を浴びながら、主と共に、まだ仲直りが出来ず、和解の出来ていない、顔と顔とを合わられない兄弟姉妹の許へと向かう新たな一歩を踏み出すのです。

 

家族を亡くされた御遺族が、美竹教会の浅野順一牧師に尋ねました。「先生、天国でまた会えますよね」。浅野牧師は答えた。「そんなこと、わしゃ知らん」。御遺族は心痛めたというのです。浅野牧師にしてみれば、たとえ牧師であっても聖書に書かれていないことを語るわけにはいかないと思われたのでしょう。葬儀の度に、いつも心に留めていることです。しかし、聖書が約束していることがある。終わりの日、私どもは神と顔と顔とを合わせることが赦される。主イエスと顔と顔とを合わせることが赦される。そこに私どもの生きる時も死ぬ時も、ただ一つの慰めがある。

 7月に中部教区婦人研修会が、久しぶりに対面で富山で開催されました。多くの方が出席されました。私が伊勢で伝道していた時、三重地区で行われました。私が2日目の朝の礼拝の説教をしました。その時の説教を覚えていて下さる方がおり、「先生、あの時、こんな説教をされましたよね」と言って下さる方がいました。テサロニケの信徒への手紙一2章17節以下の御言葉を説き明かしたのです。新約376頁です。伝道者パウロはテサロニケの教会員と顔と顔とを合わせたいと切に望んでいる。しかし、それが叶わない。何度も会いに行こうとしたけれども、サタンによって妨げられたと言うのです。伝道者パウロは教会員の顔が見られない悲しみ、痛みを心に刻みながら、しかし、こう語るのです。

 私たちの主イエスが来られた時、主イエスと顔と顔とを合わせた時、主イエスの御顔の前で、一体あなたがた以外の誰が、私たちの希望、喜び、誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、私たちの誉れであり、喜びなのです。

 主イエスの御顔の前で、伝道者が自らを誇るのではない。教会の仲間を私たちの希望、喜び、誇るべき冠と誇ることが出来る。そのような交わりを、顔と顔とを合わせて今、主の御顔の前で行うことが出来る幸いを感謝したいと願います。

 

 お祈りいたします。

「主よ、あなたの御前で、あなたと顔と顔とを合わせて祈ることすらふさわしくない私どもです。私どもには顔と顔とを合わせられない者がいるのです。言葉を交わすことの出来ない者がいるのです。赦せない者がいるのです。そのような私どもの罪を知っておられる主イエスが、私どもの先頭に立って、父なる神と格闘して下さったのです。主よ、仲直り出来ない私どもの頑なさを打ち砕いて下さい。私どもを打って新しくして下さい。私どもが掴み取るのではなく、主こそが私どもを支配しておられることを味わわせて下さい。甦りの主の光の中で、新しい一歩を踏み出させて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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