「驚くべき信仰の輝き」
士師記 7:1~7
ヨハネによる福音書 4:46~54
主日礼拝
副牧師 矢澤 美佐子
2023年10月22日
皆さんは、子供の頃どのような夢を持っておられたでしょうか。
世界地図を大きく広げて小さな指でなぞるその国々に、新しい大地の香りを想像し、出会う人たちの笑顔を思い浮かべ胸が躍ったのではないでしょうか。
地球儀を天に向かって大きく掲げ、部屋をぐるぐる駆け回れば赤く燃える太陽が浮かび上がり、
白く光る月、金や新緑の惑星、きらめく星々に目を輝かせたことでしょう。
子供の頃の夢、今も元気でしょうか。
私は子供の頃からマザーテレサに憧れていました。そして中学1年生の時、抱いた夢がありました。
大人になったらアフリカへ行き医療活動をする。苦しんでいる人たちを救いたい。大きな紙にそう書いて、机の前に貼り、毎日その文字を繰り返し見つめ、祈り、願いながら勉強をしました。
そして、願いが叶い青年海外協力隊員になりました。その頃、通い始めた教会で、しかし神様が用意して下さった道は違う道でした。私は、とても悩みましたが神様の御声に従い、救いを求めて苦しんでいる人々をキリストのもとへと導く牧師として召されて行くことにお委ねいたしました。
子供時代に描いた夢とは違った形になりましたが、召して下さった神様に感謝をしておりますし、素敵な人々との出会いに心から幸せに思っております。
私は、今も青年海外協力隊の皆さんの働きを尊敬しておりますので情報を得て、祈るようにしております。困難な中でも夢を忘れず、人を救い続ける方々が世界で働いていらっしゃいます。
柴田紘一郎医師もそのお一人です。柴田先生は、少年時代シュバイツァーに憧れ、医師となられケニアに行き医療活動をされました。先生は、ケニアの厳しい環境の中で命の尊厳と常に向き合われました。戦争の負傷兵、食べ物がなく痩せ細った子供たち、伝染病で苦しむ人々。十分な医療機器、薬がないため日本なら死なずにすんだかもしれない。それゆえに先生はこう語られます。「このような状況の中で、助かるのだとしたら、それは、医者が助けているのではなく、神様が助けておられるのです」 生と死という神様の領域に関わることの畏れを知っておられる先生の姿は、宮崎医科大学の書籍また小説でも紹介されております。謙遜で優しく穏やかにアフリカの大自然の中で、神様と共に働かれた方です。
柴田先生を始め多くの医療従事者が、アフリカで活動をされた時の、胸が熱くなる出来事があります。
ある日、戦争に駆り出された少年兵たちが負傷し何人も病院に運ばれて来ます。現在も世界の約36カ国で今なお紛争が続いています。ウクライナ、ロシア、イスラエル、パレスチナも含めて戦いの前線に立つ子供兵士は、世界で約30万人以上います。
ある日、アフリカの小さな病院で重傷を負って次々と少年が運ばれて来ました。みな麻薬を打たれ、戦場に立たされた少年兵であるという事実に愕然とします。治療を受ける少年たちは、入院によって少しずつ癒され回復していきます。しかし一人の少年は、心を閉ざし続けるのです。ンドゥングという12歳の少年。彼は、肉体の傷よりも両親を目の前で銃殺され、麻薬でかき消された心の傷が、遥かに大きかったのです。医師や看護師が、優しく愛を込めて差し伸ばす手も「うるさい」と激しく振り払います。
少年は叫びます。「自分は戦争しか知らないんだ。戦うしかない。愛なんていらない」 心の嘆き、苦しみは、医師へと向けられます。「お前のせいだ。こんなことになったのは、お前のせいだ」 医師は、しっかりと少年と向き合いこう言います。「そうだ、私のせいだ。私のせいだ」 そう言って、少年の痛み、苦しみを受け止め寄り添います。
その後、看護師がその医師に尋ねます。何故、あんな風に受け止めることができるのですか?すると優しい瞳で微笑みながらこう答えます。「何かのせいにしていなくては、生きてはいけない時がある。そういう時があるんだよ。彼だって分かっている。本当は、私のせいではないということを」 この医師の大きな愛に包まれて、周囲の人たちも、傷ついた少年たちに愛を注いでいきます。
ある日、次々と大人の負傷兵が運びこまれてきました。命を優先し足が切断されます。命を救うために懸命に働く人たちの姿を、心閉ざした12歳の少年ンドゥングは、真剣な眼差しでじっと見つめていました。これまで命を殺すことを教えられて来た少年は、今、懸命に命を助ける人々に出会っているのです。しかし、少年にとってこれは苦しく激しい変化です。自分の中で分裂が起こり、引き裂かれる苦しみです。簡単な変化ではありません。
そして、その時の様子を医師はこのように表現します。
いよいよ、その時が来た。あの大切な日に立ち会えたことを私は生涯忘れません。その日も、負傷兵が運ばれてきました。ンドゥングは部屋の片隅に立って数時間あの酷い現場を息を殺して見ていました。とても深い目をしていました。
無事に手術も終わり医師や看護師たちは、外で休憩を取りました。風は強かったけれども晴れた日の午後でした。白いジャカランダの花が、風に吹かれて吹雪きのように舞っていました。そこへ、ンドゥングがやって来たのです。目にいっぱい涙を溜めていました。医師は「どうした?何があった?」笑顔でしゃがみ込み優しく少年の頭を撫でます。ンドゥングの思い詰めたような顔は、可愛らしくもありましたが何らかの確かな決意を感じました。
そして突然、まさに突然、ドゥングが思いを吐き出すように言ったのです。「僕は、お医者になれますか?」その言葉を聴いた医師は「う」と詰まりながら、心臓は「どくり」、と大きな音を立てました。医師は「もちろんなれるよ」とンドゥングごと包み込むように肩を抱いてそう答えます。
しかし、その途端ンドゥングの顔色が急に変わります。「いい加減な慰めを言わないで」 さらに怒鳴ってこう言います。「僕は、9人の命を奪ったんだ」 彼は、それから泣くじゃくり思い詰めた顔でもう一度、念を押すように叫んだのです。「僕は、銃で、9人を撃ち殺した。人殺しだ」 病院へ来てから過ごした時間、彼はその小さな胸で悩み苦しみ、悲しんでいたことが伝わってきます。それを思い、周囲の人たちは何も言えずにいます。悲しくて、痛くて、柔らかで、切ない時間です。さらに、不安に震えるようにンドゥングが小さく言います。「こんな人間でも・・・」
生きているとこういう瞬間に立ち会うことがあるのです。医師は、吹きこぼれるような優しい笑顔でンドゥングに語りかけます。「9人を死なせた、それなら・・・ 、・・・それなら、これから君の一生を懸けて10人の命を救えばいい」 涙で頬を濡らしたドゥングに向かって医師は、なんとも優しい笑顔でこう言ったのです。「分かるだろう。いいかい。未来はそう言うためにあるんだよ」 ンドゥングは、とうとう大声で泣き始め、医師は笑顔で彼を抱きしめていました。
心に深い傷を負い「お前のせいだ」と泣き叫び、何かのせいにしなくては生きてはいけなかった少年が、嘆きを受け止めてくれた人を尊敬し、その人に憧れ追いかけるようになっていったのです。
今を大切に生きる。今を深く生きることは過去の意味さえ変えるのです。今を神様と共に、神様が出会わせて下さった人々と共に深く大切に生きることは、過去の出来事が変えられていきます。神様が変えて下さいます。アフリカで医者を目指すことは非常に険しい道です。しかし、この少年は医者となり、やがて東日本大震災で被災した人たちを助けるという物語へと繋がっていきます。
アフリカで柴田医師は、厳しい自然、貧しさと、過酷さの中で病と向き合いながら体験からにじみ出た言葉で語られます。「私は、病気を診るのではなく、病人を診るのです。そして、助けるのだとしたら、それは、やはり神様が助けておられるのです」 柴田医師は極めて優秀な外科医と言われております。それは人の命に対してとても繊細な方だからです。
私たちは、時として落ち込むような状況の中に立たされます。その時、上手くいっていないかと思うようなことの中に、神様の方では深いご計画があり、愛が込められているということがあります。貧しくても、人数が少なくても、私たちの働きを誠実に行っていった時、私たちの働きからでは、到底、生まれないはずの大いなる救い、大きな恵みが、神の方から必ず与えられて来ます。
今日の旧約聖書、士師記7章では同じことが語られています。
イスラエルの民にミディアン人たちが戦いを挑んできた場面です。神は、イスラエルを率いる士師ギデオンにこう仰せになりました。
7:2「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったというであろう」
イスラエルが勝利すれば、人々は神の力ではなく自分たちの力で勝ったと心がおごり、信仰を失ってしまいます。神はそれを望まれません。神は決して望まれないのです。
ミディアン人は13万人を超えています。迎え撃つイスラエル。普通考えれば同じ13万人、いやそれ以上でなければ不安です。しかし神は、イスラエルを1万人だけ残こしました。しかし神は、さらに減らし300人になさったのです。相手は13万人、こちらは300人。しかしそれでも、神に従ったイスラエルは見事に勝利したのです。人々は「これこそ神の御力、神の御力によって勝利が与えられた、決して、私たちの力ではない」そう言って神を褒め讃えました。
皆さんの人生においても思いもよらない恵みに感動した経験が、おありではないでしょうか。自分の働きから見ると、ちょっと大きすぎる思いもよらない恵みがあります。伝道もそうです。私たちの働きを誠実に行っていった時に、私たちの働きからでは生まれないはずの豊かな実りが、神様によって与えられてくるのです。
今日のヨハネによる福音書を通して神様は、同じことを伝えて下さいます。死んで行こうとしている子供。誰かのせいにしなければ生きてはいけない程の負いきれない苦しみです。
私は、悲しみ、悲嘆からの救い、グリーフケアについて一生懸命学んでおりますが、学びながら、お一人お一人の壮絶な悲しみを聴きますと、聴く私も、身体中が燃えるように痛み、熱い涙が流れ出ます。悲しみの血が、ほとばしるような言葉を受け止めることは命がけのことです。教えて下さる先生の中には、カトリック教会のシスターで、キリスト教大学でグリーフケアを教えておられる先生がいらっしゃいます。この先生は、1995年阪神・淡路大震災、2005年JR福知山線 脱線事故、2011年東日本大震災などで数千人の方々の悲しみを受け止め、慰めて来られました。
東日本大震災では、このように語られます。
「ご遺体が見つかると、安置所になっている近くの公民館に運ばれます。そこで『ご遺体が出ました』と告げられると、避難していた方々一斉に飛び出して来て、身元の確認が始まります。『・・・うちの子じゃない』。自分の身内ではなかったという安堵と、家族の安否がわからない状態がまだ続くのだという憂慮が入り混じります。なんという残酷な現場でしょう。被災した方々の悲嘆の大きさは、はかり知れないものです」
1995年の阪神・淡路大震災でも、この先生は、非常に多くの被災者のグリーフケアに関わられました。その経験から2005年JR福知山線 脱線事故の遺族、被害者に接して、自然災害と事故では全く異なることを思い知らされたと教えて下さいます。悲しみに大きな違いがあるのです。
列車の事故では、学校へ向かう学生を含め107名が亡くなりました。事故を起こした相手があるために、遺族の怒りが非常に強かったというのです。自然災害など見えないものに対しては、神様に怒りや無念さを向けざるを得なくなります。しかし、見える相手がいる場合、神様に苦しみを向けることが非常に難しくなり、どうしても見える相手にぶつけたくなるのです。神様に向かうことが難しくなります。愛する人を奪われても、なお電車は事故前と変わらずスピードを上げて走っています。それを見る遺族は、辛く悲しくどうしようもない思いで、かろうじて何とか生きているのに「何故、あの人たちは元気なの」と悲しみが深くなるのです。
社員の方も誠心誠意、謝罪をしていましたが遺族から「子供を帰せ、家族を帰せ」と言われ続けました。このままでは双方が心身ともにおかしくなってしまう状況が続き、グリーフケアによる救済が始まりました。誰もが悲嘆の真っ只中でした。それから先生を中心に、悲しみを受け止め、神様を指し示す救いへ、憎しみ続けることではなく和解へ、癒しへ。時間はかかり、今でも悲しみが癒えない方もおられますが、神様を指し示し続け一歩一歩ケアは進んでいます。
震災においても、愛する家族、友を亡くし、避難指示を誤った人たちをどう受け止めればいいのか、深い悲しみを負います。失った人への愛情が深いだけに、静かに心穏やかに見送りたい。それゆえに、許していいのか、責めていいのか。亡くなった人を優しく思い起こしたいという気持ちがあるだけに、避難指示を誤った人たちを憎しみ続ける、そういう自分をも責める、たくさんの複雑な悲しみを抱えることになります。複雑性悲嘆というものがあります。これは、私たちも人生において経験することです。
今日の新約聖書でも、愛する子が死ぬかも知れない。一息ごとに弱っています。悲しみに打ちひしがれている父親。この父親は、ヘロデ・アンティパスに仕える上級の役人です。このヘロデ・アンティパスは、クリスマスにイエス・キリストの誕生を知り、自らの権威が脅かされることを恐れ、2歳以下の子供を皆殺したヘロデ大王の息子です。今、愛する子が死にかかっているこの父親は、ローマ政府と交渉もできる程、社会的身分を持っている人です。その力を駆使して腕のある医者のもとへ、実績のある占い師の所へ、あらゆる助けを求めて全力で探し回ったでしょう。しかし、子供の様態は悪化し重篤になっていきます。「何故、誰も治せないんだ。あの医者のせいか、占い師のせいか」 誰かのせいにしていなければ生きてはいけない深い苦しみです。しかし、誰かのせいにしても事態は変わらない。そのことも分かっているのです。
悲しみの深さは、愛情の大きさに比例するとも言われています。悲嘆というのは、自分一人では背負いきれない重い荷物のようなもの。背負っているだけで心は痛むのです。放り出して、衝動的に自暴自棄になってしまうのは、本人が弱いからではなく、悲嘆が重すぎるからです。
私も、これまで、たくさんの方と関わっていますと色々な感情に出会います。人の苦悩や苦痛、悲嘆は一人一人違って、愛する家族との別れの数だけ悲嘆の数があります。静かに受け止める方、涙が止まらない方、取り乱す方、口を閉ざし何も話さなくなる方、笑顔でとめどなくおしゃべりする方、笑いに変えようとする方、どれもが悲嘆の感情です。そして、不安定な感情の変化に誰よりもとまどいを覚えているのは、深い悲しみを負ったその方ご自身なのではないでしょうか。
グリーフケアの先生はシスターでいらっしゃるので、いつも修道服を着ておられます。そのため避難所で、「神様なんか信じない」「神様なんか捨ててしまえ」と怒鳴られたことが何度もあったそうです。けれど「本当は神様を信じたい。助けてほしい」という心の叫びなのですよと先生はおっしゃいます。
悲痛な叫びを誰かが受け止めてくれれば荷物は少し軽くなります。今、子供が死にかかっている父親、家族に、仲間が寄り添い相談に乗り慰めます。親しい仲間と、ひと言、ひと言、言葉を選びながら話し合うのです。どうすれば助けることができるだろうか。手は尽くしました。できることは全部したのです。沈黙が続きます。そこで一人の人が静かにささやくのです。「イエス・キリスト」。皆が、息を飲みます。どういう意味か皆、分かっているからです。父親は、イエス・キリストに憎悪を抱くヘロデ王に仕えています。イエス・キリストに助けを求めたことが分かると、この父親は命を奪われるかもしれません。
危険を犯してイエス・キリストに頼み、助けることができなかったなら、この家族は、父親も息子も失うことになるでしょう。厳しい判断が迫られ、さらに事態は一刻を争います。子供は一息ごとに死へと向かっているのです。誰もがうつむき沈黙が続きます。
そこで父親は、決断をするのです。「全てを、神の子と言われているイエス・キリストにかけてみよう」
早速、父親は動きます。今いるカファルナウムから、主イエスがおられるガリラヤのカナまで約30キロ。しかも上り坂です。歩けば1日かかります。仲間の祈りに背中を押され父親は、上り坂を駆け上がります。主イエスのもとへ。神の子なら救って下さる。神の子なら救って下さる。苦難の上り坂です。しかし、仲間の祈りがあります。
探し続け昼の1時、見つけました。主イエスと弟子たちの姿です。急いで走り寄り、立派な身なりをした父親が、今ある身分も捨てて子供のために平身低頭で、主イエスの足元にひれ伏します。「お願いです。私と一緒に来てください。息子が死にそうなのです。どうか、助けてください」 ヘロデ王に仕える父親が、公の立場も何一つない主イエスに頭を下げます。けれども、そのようなことは、もうどうでも良かったのです。
さて、主イエスは何とお答えになるでしょうか。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ決して信じない」 冷たいような言葉です。これはどういう意味でしょうか。これまで人々は、主イエスがなさった病の癒し、しるしや不思議な業を見て、このお方こそ救い主と慕っていました。しかし、人々が、確かな証拠、確かな納得がなければ信じない。それは、主イエスが求めておられる信仰ではなかったのです。
それでも父親は言います。「子供が死なないうちに一緒においで下さい」 目に見える神が、目に見える形で救ってほしい。しかし主イエスは、一緒に行こうとなさいません。こう仰せになります。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」。「生きる」。主イエスは、はっきりと迫力をもってそう語られるのです。
「生きる」この神の御言葉の前で私たちは、畏れおののきます。何故なら、神は、神の御言葉によって、この世界を、この天地を創造されたからです。
創世記1章「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深遠の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』こうして、光があった」 神が、御言葉を語られるなら、その通りになるのです。それは、私たちの想像を遥かに超えた全く次元の違う神の御言葉の力です。
ヨハネによる福音書1章は、創世記を受けてこう続けます。「初めに言があった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。言の内に命があった。・・・ 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」 天地創造に続いて旧約の時代、神の御言葉は語られ続けました。アブラハムが、モーセが、ダビデが、預言者たちが神の御言葉を伝えたのです。神の御言葉は、この世にあったのです。しかし、人々は、闇の方をこのみ光を理解せず言葉を受け入れませんでした。
人々の神への背きの歴史です。神を押しのけ自分の正しさを主張し争う、旧約の歴史、人間の罪の歴史です。天地を創造された神は、人々に裏切られても忍耐し、裏切られても忍耐し、預言者を送り出して来られたのです。けれども人々は聞かなかったのです。
天地創造の父なる神は、裏切られても、裏切られても恥を忍んで、人々に再生の道を与え続けられました。それは神の忍耐の歴史です。このままでは人々の争いは激しくなり、罪の中で滅んでしまう。しかし神は、私たちをどこまでも深く、激しく愛するあまり、私たちが、滅んで行くことを黙って見ていることがおできになれないのです。それが、私たちの神です。忍耐と、恥と、怒りの中で、引き裂かれる痛みの中で、それでも神は、私たちを愛し通すと決断してくださったのです。その神の深く、激しい愛が、とうとう肉体をとって、この世にこられました。イエス・キリストです。神の御言葉が、愛が、肉体をとられたのです。
神の平和を実現するためです。それは、一つになり得ない分裂したものを一つにするということです。何故一つになれないのでしょうか。お互いが自分が正しいと言い張り、頭を下げることができないからです。この分裂を、相手を認め、謙ることができるにはどうしたらいいのでしょうか。
それには、犠牲が必要なのです。お互いに、自分こそ正しいと主張することをやめざるを得ないような、沈黙せざるを得ないような犠牲が必要なのです。
私こそ正しいという者の間に、私こそ正義と主張する者の間に、本来、最も正義を主張し得るはずの「神」が、命を捨てて下さるのです。私たちの間に、父なる神が、引き裂かれる痛みの中で、愛する独り子を死に渡し犠牲になさるのです。最も、正義を主張し得るはずの「神」が、犠牲となられたのです。この世界も、私たちも、神の犠牲の前で、自分の正しさを押し通すことをやめ沈黙させられるのです。
イエス・キリストは、命を捧げてくださいました。イエス・キリストは、平和をただ説くだけではありません。私たちの争いのその真っ只中に、神の栄光を捨て、命を捨てられたのです。私たちの罪は、真に正しいはずの神の御子が、私たちの罪を負い、死ななければ解決しないのです。そして、命を捨てて下さったイエス・キリストが、私たちを最後まで、とこしえまでに担い、愛し通してくださるのです。
消せない過去も、誰かのせいにしなければ生きてはいけない悲しみも、いきすぎた怒りも、裁き責めすぎたことも、私たちの罪、全てを主イエスが十字架で身代わりになって死んで下さったのです。
愛する神の御子の肉体が引き裂かれる、父なる神の嘆き、悲しみは、どれほど深いものでしょうか。「あなたを救うために私は、愛する我が子を死に渡した。これが私のあなたへの愛。私は、あなたを愛している」そう仰せになって下さっています。私たちは、「あーこんな私が、これほどにまで愛されている。救ってくださった。このような私のために」と神の愛にへたりむ込んで涙を流す、そのような私たちです。それが、この礼拝で起こっている神の救いの御業です。
聖書は今日「生きる」と語れます。「生きる」。この言葉は天地を創造された力ある神の御言葉です。そして、父親は「はい、分かりました」と子供のもとへと帰るのです。信じているか、信じていないのか、分からないけれど、神の御前で小さくなって畏れ、震え、言われた通りに、動かされる通りに、帰るのです。その人の中で、生きている御言葉、イエス・キリストが、驚くべき輝きを放ってその人の中に働いているからです。
父親は、坂をグングンおりていきます。今、見えなくともイエス・キリストは共におられます。すると仲間が、下から皆、笑顔で駆け上がってくるのです。「子供は、生きています。生きています。お昼の1時、良くなりました」 それは、主イエスが「あなたの息子は生きる」と仰せになった全く同じ時刻だったのです。聖書は、力強く語ります。一度、御言葉が語られたならその通りになる。そこに、イエス・キリストが見えなくてもです。
今日、聖書が最も伝えたいことは、私たちはイエス・キリストが、この目で見えなくても共におられるということです。神の御言葉、イエス・キリストは、私たちの知識や力、納得できる限られた世界、目で見える限られた世界から解き放ち、私たちを救い、私たちを神の国へと導かれるのです。
父なる神は、ここにおられる私たち一人一人のことを天地創造の前から既にご存知です。神が「光あれ」と仰せになり。こうして光があった。その時も、神は、まだ生まれてもいない、私たちを既に知っておられました。アブラハム、モーセ、ダビデ、預言者たちが、生きた旧約時代の全てを通して、神は、まだ生まれていない私たちを既に知っておられ、深く愛し続けて下さっていました。
ついに神の言葉が、肉体を取ったイエス・キリストの誕生の夜も、神は、既に私たちを知っておられ、深く愛して下さっていました。イエス・キリストが十字架で命を犠牲にされ、嘆き苦しみの時も、喜びの復活の朝も、神は、私たちを既に知っておられ、深く愛して下さっていました。
旧約から数千年以上、イエス・キリストから2000年以上、神は、私たちを、愛し通して下さり、いよいよ、今、まさに、私たちはこうして神と出会い礼拝を捧げているのです。「私は、何千年もあなたを愛し通して来た。これからもとこしえにあなたを愛し続ける」 神は、そう仰せになっておられるのです。
「生きる」。あの時、語られた御言葉は、今もこの礼拝堂で真の力を持って響き渡っています。「死を超えて永遠の命へ生きる」 これはただの絵空事ではありません。単なる理念ではありません。イエス・キリストが私たちに宿っているのです。
それゆえ、私たちに力がないような時も、私たちの中に生きておられるイエス・キリストが大いなる力です。私たちの伝道が、挫折しているように見える時も、私たちの中に生きておられるイエス・キリストは、挫折しないのです。
今日の物語で、救われた子供も、迎えに出た仲間たちも、主イエスを直接、見たわけではありません。しかし、神の御言葉、イエス・キリストは、それを語られた人だけではなく、それを伝え聴いた全ての人、ここにおられる全ての人の中に宿り生きておられます。それゆえに、私たちは、自分でも分かっていないくらい私たちの信仰は、驚くべき輝きを放っているのです。それはイエス・キリストの輝きです。
父親は、この子供に繰り返し伝えたことでしょう。「あなたの中に、イエス・キリストは生きておられる」 大人が子供にしてあげられる最も大切なことは、そんな風に神様の前に、イエス・キリストの十字架の前に子供を立たせてあげることでしょう。また、教会で、信仰の先輩が後輩にしてあげられる最も大切なことは、主イエス・キリストの十字架の前に立たせてあげることでしょう。そして、私たち大人も、この人生で不安の中で迷いながらも最善を尽くし、神様に背負われながら、もたれかかりながら生きています。その姿を見せてあげることが、私たちができることです。そして、次の世代の人たちにとって、これ以上の相続財産はないのではないでしょうか。何故なら、ここにこそ、真の命があるからです。
イエス・キリスト。驚くべき輝きを放った命を、今、私たちは確かに生きています。