「この悲しみも神の栄光の舞台」
創世記15:1~6
ヨハネによる福音書9:1~7
主日礼拝
矢澤美佐子 副牧師
2025年8月24日
1.題名のない今日
平井大さんというシンガーソングライターがいらっしゃいます。この方の曲は、若い世代から年配の方まで、広く親しまれ、数年前には甲子園、高校野球のテーマソングにも選ばれました。「題名のない今日」という曲があります。歌詞は、とてもシンプルですが、平和とは何か、救いとは何かを、やわらかに、しかし鋭く問いかけてきます。歌は、こう始まります。
例えばどんな理想も描ける 魔法のペンをもらったとしたら
ボクはどんな世界を描くのかな? キミならどんな未来が欲しいのかな?
世界一広い家とか… 描き始めたけど やっぱりやめた
なにげない日常に花束を なにげない景色に額縁を
題名のないこんなありふれた今日が 僕たちが描いてきた 生涯一の名作さ
例えばポケットにクッキーを見つけたら それをバレないようこっそり食べてしまうより
みんなと分け合って笑っていられるような そんな人がヒーローって呼ばれる世界の方がいい
奪いあう愛 その度にすり減る心 小さな地球(ほし)を救ってみないか
なにげない一言に花束を なにげない優しさに歓声を
今は名もなきエキストラだとしても いつか世界を救う 未来のキミがヒーローさ
私たちの一人一人の人生は、神様と共に、描く、世界でたった一つの名作です。私たちの人生は、この人類史上、他の誰とも同じではない、たった一つの名作を、今、神様と共に造り上げているのです。
破れもあるかもしれません。心に深い傷があるかもしれません。イエス様が、その裂け目を縫い合わせ、痛みを新しい光へと変えてくださるのです。私たちは、仲間と共に祈り合い、助け合い、労わり合いながら歩んでいきます。誰もが、人類史上、まったく新しい、たった一つの名作を、神様と共に生きています。だから、誰かの真似をしなくていい。真似をする必要もない。あなただけの神様の名作を、生きてください。
この曲は、単純に見える歌詞ですが、やわらかな響きの中に、私たちの罪を鋭く突き、命の深みに触れてきます。
どんな理想も実現する 魔法のペンで、世界一広い家とか… 描き始めたけどやっぱりやめた
みんなと分け合って笑っていられるような そんな人がヒーローって呼ばれる世界の方がいい
奪いあう愛 その度にすり減る心 小さな地球(ほし)を救ってみないか
多くの人が忘れてしまっていることを思い出させてくれます。
この地球は、宇宙から眺めると国境線のない一つの星です。美しい自然は神様から無償で与えられたものと気づきます。夏の木陰の心地よさ、葉を打ち鳴らす風の音、流れるせせらぎ、小鳥の歌声は、私たちの心を穏やかに包み、全ては神様からの贈り物です。神様は、この地球を震えるほどに美しく造られ、私たちは、その管理を委ねられています。
神様から無償で与えられたこの大地は、線など引かれていませんでした。この国境が、様々な問題や、悲劇を生み出してきました。この大地を奪い合うために、私たち人間は、命をかけて殺し合って来たのです。
国と国との間の話だけではありません。私たちの社会もそうです。他人が、自分の領域に入り込んでくることは絶対に許さない、憎しみを燃やすのです。
イエス・キリストは、この星を、この世を、そして何よりも私たち一人ひとりを救うために来てくださいました。その救いに招かれているのは、ここにおられるお一人おひとりです。これまでの暗かった日々が、神さまと共に歩むなら、「たった一つの名作」へと変えられていきます。
神様の御言葉を伝えること、小さな思いやりの言葉が、世界を変えていきます。ささやかな祈りが、闇に光を灯します。だからどうか、神さまを信じ、神様と共に、あなたの名作を生きてください。それこそが、神さまからあなたに与えられた使命なのです。
2.被災地で。痛みを分け合い、助け合う
この夏、金沢教会の青年たちと共に集いを持ちました。富来伝道所では、大きな鍋いっぱいに、多くの人たちのために、カレーライスを作りました。礼拝に集われた被災地の方々、そして宮城県からボランティア活動に来られた尚絅学院大学の10名の青年たちと一緒に、礼拝をささげ、食卓を共にしました。
富来伝道所で同じ屋根の下に宿泊もしました。翌日には輪島教会を訪れ、共に祈りをささげました。金沢教会の皆さまの心からの祈りも、確かに被災地へ届けました。
そして、この夏、出会った、尚絅学院大学の青年たち。彼らは、明るい笑顔を絶やさず、いつも「何か手伝えることはありませんか」と声をかけてくれました。喜んで奉仕し、神さまへの礼拝にも真摯に心を向け、御言葉を深く聴いてくれました。その優しく、明るい微笑みの奥には、深い痛みが刻まれていました。青年たちは、2011年の東日本大震災が過酷な苦しみを経験された方なのです。
愛する街が、一瞬にして破壊され、家族を奪われ、親を亡くし、絶望の淵に立たされました。自らの命を絶ちたいと思うほどの闇をくぐり抜けてきました。だからこそ、この方々は、知っているのです。人は一人では生きられないことを。助け合い、支え合うことこそが神さまの御心であり、救いそのもの。明るく、優しい瞳の奥には、何度も涙を流してきた辛い過去がありました。けれど、その優しい微笑みには、本当の強さがありました。
人が痛んでいるとき、その痛みを自分のことのように感じられる力。
友が前に進めないとき、一緒に立ち止まり、或いは引き返し、友が歩み出せるまで、歩幅を合わせられる勇気。その姿に、本当の強さを見ました。
「私たちはもっと大きな地震を経験したから」――そんな言葉は一度も聞かれませんでした。
彼らはただ、ともに悲しみ、ともに痛みに寄り添い、ともに神さまの御言葉を聴き、ともに祈ってくれました。そのような愛の家族がいることで、試練の中で湧いてくる憎しみ、悲しみの連鎖を断ち切ることができます。愛のぬくもりの中で、深い傷は、癒されていくのです。
3.戦争と平和
そして、更に、この夏、私たちは「戦後80年」という、深く心に刻む大切な節目を迎えました。教会員の方や高校生、青年たちと共に、戦争と平和について語り合いました。
金沢教会の信徒の方で、戦争を直接経験された方の証しを、若い人たちはまっすぐに受け止めてくれました。胸を揺さぶられながら、「戦争は二度と起こしてはならない」と静かに言ってくれました。
私たちが尊敬する、キリスト者の先達は、目の前の苦しみや悲しみを「仕方のないこと」とは決して受け止めませんでした。神を見上げ、夢を見続け、声を上げ、平和のために立ち上がりました。苦しむ人を救うために神様を見つめ、夢を見続けました
私は青年たちに、マララ・ユサフザイさんのことをお話ししました。パキスタンの小さな村に生まれ、教育と平和を求めて、11歳から声を上げ続けた少女です。
この世界の半分はめまぐるしい発展を遂げています。しかし、戦争や貧困や権利侵害に苦しむ国が、まだまだたくさんあるのです。争いのなかで人々が命を落とし、子供たちが孤児になっています。貧しさの故に教育にまで手が回らない家族。児童婚や児童労働を強いられているため学校に行く自由がない子供たちもいます。
小さな田舎町の少女マララさん。教育と平和の大切さを訴え、生意気だと、迫害を受けました。しかし、多くの仲間に助けられながら、ついに、17歳でノーベル平和賞を受賞します。その時、このように語りました。
「人は、平和の実現は途方もなく困難で現実的ではない。費用がかかりすぎる。不可能だというでしょう。しかし、一体どうして「強い」と言われる国々は、戦争を起こすうえで非常に強い力を発揮するのに、なぜ平和をもたらす時は、あまりに「弱い」のでしょうか。
かつて、マーチン・ルーサー・キング牧師、やネルソン・マンデラ大統領、マザー・テレサ、アウン・サン・スーチー、平和への険しい道のりがありました。しかし、平和のためへの最初の一歩があったのです。あなたでなければ。小さな一歩を踏み出しましょう」
世界の各地で今も起きている戦争、暴力は、強大で途方もないものに思えます。けれど、どの人も、最初の小さな一歩があったのです。一つひとつの取り組みは、平和への確かな力になります。
もちろん、変化を生み出す道は容易ではありません。時間も忍耐も求められます。失敗もします。その失敗と共にいなければならない。すぐに結果が出ず、フラストレーションや挫折も経験します。
ですから、ビジョンと共に、私たちが持たなければならないこと。それは、何かを成し遂げるために、リスクや犠牲を引き受ける覚悟です。
夢を叶えるために、継続する力と気持ち、助け合う友、神様の家族を持つことは、大切なことです。助け合う友を、神様が与えてくださっています。大切にしていきたいと思います。
そして、苦労も、仲間と一緒に担うなら、喜びに変わります。涙も輝きに変わります。礼拝に集い、共に讃美を歌うとき、倒れても、もう一度立ち上がる勇気が与えられます。
礼拝では、さらに深い勇気も与えられていきます。さらに深い勇気。それは、自分の罪を認め、自分が変わっていくということです。自分の利益のために生きるのではなく、神さまのために、隣人のために生きる愛へと変わっていくことでしょう。
暗闇に支配された戦争の時代、人と人とが信頼を失い、恐れと憎しみが渦巻いていました。恐れと憎しみから、次に打つ手、これから先に進むべき道を選び取りました。しかし、私たちキリスト者は、恐れや憎しみから今日、明日を決定するのではありません。神さまの声に、聖書の言葉に従って「平和の道」を選び取ります。そのために、神さまは私たちを選び、ここに呼び集めてくださったのです。
キリスト教信仰を与えられた私たちは、混乱した世界のただ中で、それでもなお、希望を見つめ続ける力を授かった存在です。
私たちキリスト者は、神様の御言葉によって、神様の平和を実現してきます。暴力によって、攻撃的な言葉によって、無理矢理、服従させる方が簡単に思える時があるかもしれません。しかし、神様は、決してそれを望んでおられません。そして、そのような方法で決して平和は実現しないのです。 神様のみ言葉によってでなければ、神様のプロセスでなければ平和は実現しないのです。私たちはそのことを信じ、世界の教会、キリスト者と共に前進しています。
神様が、この世界の「いのちの指揮者」でいてくださいます。「不協和音を聞くような辛い日もあるかもしれませんが、神さまが、この世界の『いのちの指揮者』です。私たち、一人一人の人生が、 この世界の人々と響き合う、美しいハーモニーとなって、平和の讃美を響かせていきます。ここに集められた私たち一人ひとりの命は、戦争と憎しみの連鎖を断ち切り、平和の調べを奏でるために、集められている、奇跡の命です。
イエス様が見つめている、神様の国の景色を一緒に見つめて、これまでと違う朝を、一日、一日、増やしていきたいと思います。その小さな一歩一歩が、やがて世界を変えていくのです。
4.ヨハネ9章 神の御業が現れるために
今日の聖書、世界を変える神様の平和の物語は、いつも小さな一人の物語から始まります。どうぞ、この救いの物語に、自分自身も含まれていることを覚えながら、今日の聖書を、たどってみたいと思います。
救い主イエス・キリストは、エルサレムを歩いておられました。すると道ばたに、生まれつき目の見ない、一人の青年が座っていました。当時、障がいや病を持つ人は、誰かの助けがなければ、安息日の礼拝さえ出られず、そのためにさげすまれていました。
青年は、人々の前に身をさらし、小銭を投げ入れてもらう、物乞いの生活をしていました。投げられた小銭の音に慌てて這い回り、土煙をあげながら、必死に探す。拾った小銭を大切に握りしめ、これが、彼の生き延びる手段でした。
周囲の人たちは、その家族を避けました。「あーなったのは、何か悪いことをしたに違いない」 青年は、うつむいてじっと我慢をします。その分、見えない目で、人間の心の奥底まで見抜いていたのです。見下され、傷つけられ、怒りに震え、命の火が消えそうになっていました。
しかし、その時です。
そっと近づく足音が聞こえてきました。消えかかった命の火が、静かにゆらめきます。
主イエス・キリスト。真の光が、近づいて来たのです。
主イエスは、青年の前で、ピタッと足を止めました。主は、黙って彼を見つめられました。その眼差しは青年の過去、これまでの全てを知っておられる眼差しです。けれども弟子たちは冷たい視線を向け、イエスに尋ねました。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか?」なんて酷い問いでしょう。
しかし、それは当時の常識でした。青年はぐっと我慢します。神に仕える弟子たちでさえ、心ない言葉を口にしてしまうのです。
私たちが今日ここに生き、歩き、目が見えるのは、自分の手柄ではないはずです。ただ神の恵みです。
主は青年のすべてをご存知です。母が命を授かった時の感激、生まれた時の喜び、そして目が見えないと知った時の震える思い。痛みも全てご存知です。
主イエスは、青年から弟子たちに視線を移し、静かに、しかし力強く答えられました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業が、この人に現れるためである」
主のこのひと言が、どんなに多くの人を救ってきたことでしょうか。この聖書の言葉が、どんなに多くの人を救ってきたでしょうか。
試練の外側から、苦しみの中にある人に、震災の絶望の中にある人に、「これは、神の栄光が現れるためなんですよ。忍耐しなければ」ということは、決して言えない言葉です。
けれど、もしその人自身が、苦しみの只中で、病の中で、試練の中で、「この悲しみも、神の業が現れるためなんだ」と気づかされる時、その魂は、本当に不思議な強さが与えられるのです。身体は弱っていても、心はしなやかに、魂はりんと輝きはじめるのです。自分の力ではなく、主の光による、闇の中にあっても消えることのない、確かな輝きです。
しかし、弟子たちは、理解できません。「神が、この人の目を見えなくさせたのだろうか。そして、治すことで、神の偉大な力を人々に示し、周囲を圧倒するのだろうか」
主イエスは、唾で、地面の土をこね、青年の目に塗りました。そして、「シロアム-『遣わされた者』という意味-の池に行って洗いなさい」と言われます。
そこで、青年は、その通りにすると、目が見えるようになったのです。
弟子たちは、驚きます。神の御業が現れた。さずがイエス様。
しかし、これが、本当に主イエスが、お答えになられた「神の御業」でしょうか。病を癒すことが、神の業だったのでしょうか。
青年はこの後、主イエスの弟子となって行きます。彼は目が治ったから、主イエスに従ったのでしょうか。もし青年の目が治らなかったら、彼は、主イエスの弟子にならなかったでしょうか。
世には、決して治らない病を抱える人、短い命しか与えられない人、障害を負って生き続ける人がいます。親から受け継いだ問題に苦しむ人、震災で愛する人を失った人もいます。解決しない問題、消えない悲しみを抱えながら生きていくのが、私たちの人生です。
しかし、私たちの主イエス・キリストは、そのような人の所にこそ、来てくださるのです。病が治らないこともあります。問題が解決しないこともあります。しかし、主イエス・キリストが、お与え下さる救いは、この世の常識を覆すほど、真実なのです。
それは、病が治る、問題が解決する。その程度のものではありません。そんな、小さな、小さな業ではないのです。「神の御業」は、この世を超える救いです。
この世の常識を、越える救いが、目の見えなかった青年に起こったように、私たちにも現れて来るのです。それは、どんな救いでしょうか。
目の見えない青年は、苦しみの中で生きていました。人間の罪を見ていました。冷たくなった心に、さらに尖った言葉が突き刺さります。人の愛を信じられない。神の愛も分からない。私たち誰もが、同じような苦しみを経験します。その時、神様は、仰せになるのです。
「私は、あなたを決して離さない。あなたが、この世の全てが敵だ、敵だ、と思う程の苦しみを負っている時も、怒りにかられ、混乱している時も、私は、あなたを抱きしめ、愛し続けて来た。
怒りにかられ、混乱し、私を殴り続けている時も、私は、十字架の上で、両腕を広げ、あなたの全てを受け止めてきた。血を流し、命を捧げて、あなたを救う。
あなたを、とこしえに愛し抜く。あなたは、私の愛する子。あなたのいない、この世界など、考えられない」
私たちは、主イエスをムチを打ち、唾を吐きかけ、平手で殴り、主イエスを突き飛ばしてくるような日々を送ってきました。しかし、主イエスは、私たちのことを、究極の寄り添いで、決して離さず、決して諦めず、十字架の上で、ほとばしる愛で、私たちを愛し抜いてくださるのです。
そして、私たちの、暗闇しか見えなかった目、真っ暗な視界に、確かな光、主イエスが入り込んでくださるのです。明るい光、主イエスが、見えるようになっていくのです。この暗闇の世界に、光が与えられてくるのです。
目が見えなかった青年。彼の病は、治りました。しかし、今日の聖書には、病が癒やされたということの喜びは、記されてはいません。主イエスにとって、彼にとって、それが、最も大事なことでは、なかったからです。聖書は、それよりも、最も大事なことを伝えます。
それは、彼が、心の目、信仰の目で主イエスが見えるようになり、「遣わされた者」になった、聖書は、そのことを強調しているのです。
疲れ果て、傷つき怒りにかられていた時も、惨めな時も、主イエスは、この私を、私たちを見捨てず、命を捨て、愛し抜いて下さった。
生きる意味、使命が与えられました。
この主イエスをのべ伝えたい。
遣わされていきます。人の悲しみを、自分の悲しみのように、心痛み、主の救いの御言葉を伝え、主の愛を行う者となっていくのです。主と共に生きる。主を証して生きる。それこそが、彼自身の喜び、私たちの喜び、生きる目的、生きがい、となっていきます。
このために、過去の全てがあったんだ。これまでの苦しみに、意味が与えられていきます。これまでの過去は、使わされるためにあった。神様を証しするためにあった。そこから、深みのある人生へ、深みのある信仰へと繋がってきます。
そのような形で、「神の御業」が現れるのです。ここが、大事な所です。
彼は、治った目で、肉眼で、主イエスを、直接、見ることはありませんでした。ここの意味していることは何でしょうか。もしも青年の目が治った時、最初に見たのがイエス・キリストだったなら、物語としては分かりやすく、心温まる素敵な話になったかもしれません。
しかし、聖書はそう語りません。実際には、肉眼では、見ていないのです。だからこそ、この物語は、時代を超え、今を生きる私たちにも語りかける救いとなるのです。神の御業は、今、私たちの中に、現れているのです。
私たちは、主イエスを直接見ることはありません。この青年と同じです。しかし、それにもかかわらず、主を信じています。
真実の愛を知ったからです。
私たちの罪深さ、私たちの拒絶、私たちのムチ、平手で打つ手のすべてを、主イエスは十字架の上で、受け止めてくださったのです。私たち一人ひとりを決して見捨てず、命を捧げて愛し抜いてくださっています。その愛は、目に見えません。しかし、私たちは、この主の十字架に触れることで、暗闇しか見えなかった目は、確かな光に照らされていくのです。
心の目、信仰の目で、神様を仰ぎ、希望と喜びに包まれるのです。 これこそが、この世を超えた、神の御業です。救いの御業が現れる瞬間です。
見える世界の限界から解き放たれ、見えない神の御顔を仰ぎ見、深い平安と幸せに包まれるのです。
主を信じる、神様の家族と共に祈り合えること、助け合えることの幸せが広がります。この世界はこんなにも美しいと、信仰は深みを増していくのです。これこそが、主イエスの真実の癒しであり、神の御業であり、新たな使命への出発です。
聖書は繰り返し語ります。「試練を通して、病を通して、遣わされ、証しする者となること」が重要ですと。「悲しみや、試練、病や苦しみを知り、主イエスと出会い、人々の愛に触れながら生きる人生」を神様に与えられています。私たちの悲しみは、無駄ではありません。
痛みも、涙も、嘆きさえも、主イエスの十字架にだきとめられて、やがて神の栄光の舞台へと帰られていきます。
主が共におられます。「この悲しみも神の栄光の舞台」 これが私たちの福音です。
