「心を耕せ」
箴言20:12
マタイによる福音書13:1~9
主日礼拝
井ノ川勝
2024年11月24日
1.①画家ミレーが「種蒔く人」という絵を描いています。私どもの心を惹き付ける印象深い絵です。山梨の美術館でも観ることが出来ます。夕闇に包まれた一人の農夫が、斜面の大地に足を踏ん張って種を蒔く力強い姿を描きました。ミレーの「種蒔く人」は、画家ゴッホに大きな影響を与えました。ゴッホもまた、ミレーのこの絵を下地として、太陽の日射しの下で、種を蒔く農夫を明るい色彩で描いています。
ある出版社がミレーの「種蒔く人」を自社のシンボルマークとして用いています。そのことによって、一人一人の心に向かって、良質な言葉を蒔くことを使命としました。この出版社が最初に手掛けた大きな仕事は、夏目漱石の『こころ』の出版でした。
私どもの心は、しばしば心の土壌として捉えられることがあります。私どもの心の土壌には、生まれてから今日に至るまで、実に多くの、様々な言葉の種が蒔かれて来ました。その中には、私どもの心に響いた言葉もあります。私どもの心を変えた言葉もあります。生き方を変えられた言葉もあります。逆に、私どもの心を悲しませた言葉もあります。心に傷を与えた言葉もあります。
今、皆さんの一人一人の心の土壌に、どのような言葉の種が蒔かれ、根を張っているのでしょうか。どのような言葉の種によって、心が耕されているのでしょうか。
②この朝、私どもが聴いた御言葉は、主イエスが語られた「種を蒔く人」の譬えです。多くの方が親しんで来た御言葉の一つです。大人だけでなく、教会学校の子どもたちも、幼稚園の園児も、親しんで来た御言葉です。紙芝居にもありますし、「子ども讃美歌」でも歌われています。
マタイによる福音書は28章から成る福音著ですが、丁度、真ん中に位置しています。それはたまたまそうなったのではありません。この福音書記したマタイが意図的に、主イエスの「種蒔く人」の譬えを真ん中に置いたのだと言われています。主イエスが語られた御言葉の中で、真ん中にある御言葉です。この福音書の心臓部に当たります。主イエスが語られたこの御言葉が、福音書全体に命の血液を送っています。主イエスが語られた御言葉があります。
「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」。
私どもを生かす神の口から出る一つ一つの言葉の真ん中に、主イエスが語られた「種を蒔く人」の譬えがあるのです。
2.①ミレーの「種蒔く人」は、農夫が左肩に種の入った袋を掛け、右手で畑に種を蒔いている絵です。私どもが日本でよく目にするように、畑を耕し、種を蒔く畝を作り、そこに種を丁寧に蒔くやり方ではありません。主イエスの頃のユダヤの農夫も、ミレーの種蒔く人のように、畑を耕す前に、畑のあちらこちらに無造作に種を蒔いた。その後、鋤で畑を耕した。それ故、道端に落ちた種もあった。石だらけの所に落ちた種もあった。茨の間に落ちた種もあった。良い土地に落ちた種もありました。
種が落ちた場所によって、種が鳥に食べられてしまう。根が張らない内に枯れてしまう。茨に塞がれて生長しない。豊かに実を結ぶことが分かれてしまうのです。
「種」は神の言葉です。「種が落ちた畑」は私どもの心の土壌を意味しています。私どもは主イエスのこの譬えを聴いた時、私はこの4つの種のどれか。4つの心の土壌のどれかと、当てはめようとすると思います。しかし、主イエスは私どもに、あなたはこの4つの内どれですかと、分類するために、この譬えを語られたのでしょうか。そうではないと思います。それが主イエスの譬えを語られた意図ではないと思います。御言葉の種があなたの心の土壌に向かって蒔かれた時、あなたも豊かな実を結ぶようなるのだと、私ども一人一人を招いておられるのです。
しかし、他方で、主イエスは御言葉の種が私どもの心の土壌に蒔かれたにもかかわらず、豊かに実を結ばない現実を悲しみ、心痛めておられるのです。何故、あなたの心に向かって、御言葉が蒔かれたのに、種が鳥に食べられてしまうのか。根が張らない内に枯れてしまうのか。茨に塞がれて生長しないのか。これら全ては、私どもが日々の生活の中で、経験している現実でもあるのです。
私どもは毎日、朝、北陸学院の礼拝において、御言葉の種が心に蒔かれています。一週間の最初の日、礼拝において、御言葉の種が心に蒔かれます。しかし、神の言葉よりも大切なものがある。それが御言葉の種を呑み込んでしまい、私どもの心の真ん中に立つのです。御言葉の種が心の中で十分に根を張らない内に、この世の様々な思い煩い、富の誘惑で、心が塞がれてしまう。御言葉の種が枯れてしまう。私どもは日々、様々な試練と誘惑の中で生きています。主イエスはその現実を誰よりも良く知っておられます。それ故、祈りを込めて語られているのです。私が蒔いた御言葉の種が、あなたの心の内に根を張り、生長し、豊かな実を結んでほしいと。
②主イエスは御言葉の種が根を張り、生長し、豊かな実を結ぶ鍵は、どこにあると見ておられるのでしょうか。主イエスは譬えを語られた後、この言葉を語られました。「耳のある者は聞きなさい」。
実は今日、13章1~9節までを読んだのですが、そこで終わりではありません。10節以下で、主イエスは譬えを用いて話す理由を語られています。そして18節以下で、主イエス自ら、「種蒔く人」の譬えを解説して下さっておられます。是非、13章1~23節を続けて読んでいただきたいと願っています。
主イエスが譬えの結びで語られました。「耳のある者は聞きなさい」。
譬えに込められた神の御心を聴くことが大切だと語られます。同時に、聴くことは見ることと密接に結び付いています。聴くことと見ることとは一つのことです。それ故、主イエスは語られました。
「あなたがたは見てはいるが、見ていない。聞いてはいるが聞いていない。それ故、御言葉が理解出来ないのだ」。
不思議な言葉です。あなたがたは肉眼では見ているか、心の目で真実なものを見ていない。肉の耳で聞いているが、心の耳で真実なものを聴いていない。私どもが見るべきもの、聴くべきものとは何でしょうか。神があなたと共に生きておられることです。神があなたに語りかけておられることです。神の言葉は将に、私ども一人一人に語られているのです。
主イエスが語られた「種を蒔く人」の譬えは、大勢の群衆に向かって語られました。その中には子どもいたことでしょう。病気を抱えていた者もいたことでしょう。家族を亡くし、悲しみの中にあった者もいたことでしょう。死と向き合っていた者もいたことでしょう。もしかしたら主イエスから聴く最後の御言葉になるかもしれない。そういう思いで御言葉を聴いていた者もいたことでしょう。
神の御言葉が語られる時、それは一期一会の出来事です。私どもは死と向き合いながら生きています。死の力が私どもを包囲する中で、しかし、神の言葉が私どもの心の真ん中に立つのです。死に打ち勝つ神の御言葉が私どもの心の真ん中に立つのです。神の言葉は聞いても聞かなくてもよい言葉ではありません。どうしても聴かなければならない言葉です。死に打ち勝つ御言葉だからです。神の言葉が語られ聴いた時、そこに神が生きておられることを見るのです。
3.①先週、青山学院大学の宗教主任であった大島力先生の『イザヤ書を読もう上ーここに私がおります』を読みました。改めて、イザヤ書1~39章の御言葉の魅力に触れた思いがいたしました。主イエスがここで引用されている御言葉も、イザヤ書6章の御言葉です。この御言葉はイザヤが預言者として、主に召される場面です。エルサレム神殿で、聖なる神とお会いしたイザヤは、「災いだ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」と自らの罪を知り、叫びました。しかし、主はイザヤを預言者として遣わします。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。イザヤは答えます。「わたしはここにおります。わたしをお遣わしください」。このイザヤの召命の出来事は、多くの伝道者が自らの召命の原点においている御言葉です。
しかし、その後に語られた主の言葉に驚かされます。あなたは遣わされて御言葉を語る。神は一人一人の心を開いて下さるとは語られていないのです。むしろ、あなたが遣わされて御言葉を語るのは、人々の心が堅く閉ざされるためなのだと言うのです。
「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、悔い改めていやされることのないために」。
伝道の厳しさが語られています。御言葉を語れば語る程、人々は益々心を頑なにし、心を閉ざしてします。預言者イザヤは伝道の挫折を何度も何度も味わいました。この預言者イザヤの挫折は、教会が味わう伝道の挫折であり、私ども伝道者が味わう伝道の挫折でもあります。どうして心を開いて、御言葉の種を喜んで受け入れてくれないのか。どうして御言葉に対し、堅く心を閉ざしてしまうのか。
②しかし、挫折しても挫折しても、尚、御言葉の種を蒔き続けるのは何故なのか。主イエスがこのような約束をしておられるからです。
「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」。
主イエス御自身驚いておられます。農夫が種を蒔き、丹精を込めて育てた、麦が豊かな実を結ぶ。農夫が予測していた以上に2倍に実ったということはあったかもしれません。しかし、ここでは百倍、六十倍、三十倍にも実った。これは破格の実りです。神の御業としか言いようがありません。伝道の実りはいつも伝道者、教会の計画通りには行きません。しかし、神は人間の思いを遙かに超えて、破格の豊かな実りをもたらしてくださる。伝道は神の御業ですから、神の約束を信じて、挫折しても挫折しても、御言葉の種を蒔き続けるのです。
教会学校の生徒に、幼稚園の園児に向かって、御言葉の種を蒔きます。礼拝に出席されている高校生、大学生、求道者に、御言葉の種を蒔きます。実をならすのは何十年後であるかもしれません。しかし、神が必ず豊かな実を実らせて下さることを信じて、一人一人の魂に向かって祈りながら御言葉の種を蒔き続けるのです。御言葉の種を蒔いても実を結ばない現実を諦めたら、実を結ぶことは決してないのです。
先程、由木康牧師が作詞した讃美歌412を歌いました。日本人が作詞した代表的な讃美歌です。今日の主イエスの御言葉から生まれた讃美歌です。
「昔主イエスの 撒きたまいし、いとも小さき いのちの種
芽生え育ちて 地の果てまで、その枝を張る 樹とはなりぬ」。
どんなに時代の風が逆風であっても、思想の波が騒ぎ立っても、御言葉の種が撒き続けられ、主イエスの愛の国、御支配は広がって行く。神の約束を信じて種を蒔き続けよう。この讃美歌を歌うと、伝道する勇気が与えられます。
本日の主イエスの御言葉と響き合う旧約聖書の御言葉があります。箴言20章12節です。本日、聴いたもう一つの御言葉です。
「聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた」。
私どもの心が頑なであることは、神の御言葉を聞く耳をもたないことです。神がここに生きておられることを見る目をもたないことです。しかし、聞く耳、見る目は、主がこの両方を造って下さるのです。主が造って下さらなければ、霊の耳、霊の目は与えられません。
4.①旧約聖書を開きますと、神の嘆き、預言者の嘆きが至るところで、聞こえて来ます。あなたがたはわたしが選んだ神の民であるにもかかわらず、何と心頑なな民なのだ。あなたがたは何と、石のように堅い心なのだ。神の御言葉を聞いても、頷いて御言葉を受け入れようとしない。神の御言葉を聞いても、堅い石の心で御言葉を跳ね返してしまう。それ故、悔い改めて、神に立ち帰ろうとしない。
主イエスもまたこのような父なる神の嘆き、預言者の嘆きを知り、聞いていたのだと思います。その嘆きを受け継ぎながら、「種蒔く人」の譬えを語られたと思います。
説教の冒頭で語りましたが、この13章の「種蒔く人」の譬えは、マタイ福音書28章の真ん中に位置づけられています。マタイが意図的にこの御言葉を真ん中に置いたと言われています。ここに福音書の心臓部があるからです。
マタイ福音書は、主イエスの誕生物語から始まりました。イザヤが預言したように、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。「この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」。インマヌエルとしてお生まれになった主イエスは、十字架を目指して歩まれました。十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになられたのですか」と叫ばれ、息を引き取られました。十字架で死なれた主イエスは甦られて、弟子たちに向かって語られました。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたすべてを守るように教えなさい。御言葉の種をすべての民に蒔き続けなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
これらの御言葉の真ん中にあるのが、主イエスの「種蒔く人」の譬えなのです。主イエスが十字架の死を目前として語られた御言葉があります。この御言葉はドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の裏表紙に記した御言葉でもあります。ヨハネ福音書12章24節です。
「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちてしななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。
主イエスは私どもの頑なな心、石のような堅い心を、打ち砕くために、一粒の麦として十字架で死んで下さいました。そして甦られて、私どもの荒れた土壌を耕し、豊かな実を結ぶ土壌へと私どもを造り替えて下さったのです。それ故、主イエスは語られるのです。
「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」。マタイ福音書が強調する「幸い」です。あなたがたの目は、甦られた主イエス・キリストを見ているではないか。あなたがたの耳は、甦られた主イエス・キリストのみ声を聴いているではないか。何と幸いなことか。ここに生きる時も死ぬ時も、ただ一つの幸いがあるではないか。死で消える幸いではない。死に呑み込まれる幸いではない。死に打ち勝つ幸いに、あなたがたは生きているね。
②主イエスの「種蒔く人」の譬えを、誰よりもお側近くで聴いていたのは、弟子のペトロです。ペトロは主イエスの「種蒔く人」の譬えを重ね合わせるようにして、この言葉を語りました。ペトロの手紙一1章23節です。429頁。
「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです」と言って、イザヤ書40章の御言葉を引用します。
「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」。「主の言葉は永遠に立ち続ける」。
弟子のペトロはまた、この手紙の1章8節で、こういう言葉を語っています。この御言葉は、日本の多くの伝道者、キリスト者の愛唱聖句となりました。主イエスの甦りの信仰に生きることを、生き生きと言い表しているからです。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉で言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています」。
ペトロは驚いています。あなたがたは私どものように肉眼で、甦られた主イエスを見たことがない。しかし、今、肉眼で見えなくとも、主イエスは甦って生きておられることを、霊のまなざしで見ることが出来る。甦られた主イエスが今、私どもに向かって語りかけておられる生きた声を、霊の耳で聴くことが出来る。主イエスを愛し、信じて、言葉で言い尽くせない素晴らしい喜びに溢れて生きている。何と幸いなことか。
ここに、死に打ち勝つ命の御言葉に生かされる私どもの幸いがあるのです。
お祈りいたします。
「あなたは何と頑なな民なのか。何と石のように堅い心なのか、と主を嘆かせる私どもです。そのような石のように堅い心を、主イエスは一粒の麦となって死んで下さり、打ち砕いて下さいました。主イエスの死と命によって、石地の私どもの土壌が耕され、豊かな実を結ぶ土壌へと造り替えられたのです。今日、あなたが私どものために蒔かれる御言葉を、心の目を開き、心の耳を開いて、受け入れさせて下さい。豊かな実を結び、死を超えて、あなたをほめたたえる信仰に生きさせて下さい。私どもも主の約束を信じて、喜んで御言葉の種を蒔き続けさせて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。