涙のしずくに映る主イエスの眼差し
詩篇30編5~6節
ヨハネによる福音書21章15~19節
主日礼拝
矢澤美佐子
2025年5月18日
アジアの地で一人の男の子が、重い病を負って誕生しました。しかし、病を受け止められない両親は、その子を育てることを諦めたのでした。けれど、遠く離れた北の国デンマークのキリスト者の一家が、彼を見つけ、抱きしめ、家族として迎え入れたのです。それは、救いの物語の始まりでした。
名前は、聖書から、試練を通して、神様の祝福を信じて強く生きて欲しいと「ヤコブ」と付けられました。そして、同時に試練の始まりでもありました。
いつまでたっても歩けない、話せない。患っていたのは「脳性麻痺」。病名が分かった時、家族は戸惑い未来に震えます。しかし、家族や仲間たちは、時間を、労力を、そして愛を差し出しながら一緒に「生きる」ことを選んだのです。
ヤコブ君は、成長と共に身体も重くなっていきます。お母さんが背負って病院へ運びます。ヤコブ君は言います「ごめんね、お母さん。迷惑かけてごめんね」 お母さんは答えます。「これは私の喜びよ。重くなんてないわ。大丈夫よ」
彼は、小さな心と体で、病と向き合いながら「命とは何か」を問う、成長をしていきます。それは同時に、暗い過去、生い立ちが明らかになっていくという覚悟の成長でもありました。そして、そのうち誕生日を喜べなくなるのです。「僕は、望まれて生まれてきたのだろうか。このまま生きていていいのだろうか」。子ども心には、あまりにも重たい疑問です。
やがて大学生になり、その問いを胸にある決断をします。
「捨てられた過去、自分の人生そのものを通して、社会に問いかけたい。」
もがき苦しんで来た体験をもとにして、脳科学者、心理学者らの対話を通して本を書きます。そして、それを自らで演じる決断をしたのです。
脳性麻痺の身体で、人間の生きる価値について問いかけるために、彼は、満席のデンマーク王立劇場の舞台に立ちました。ヤコブ青年は、不自由な身体でゆっくりと舞台の中央まで進みます。そして、たった一人大きな舞台に堂々と立ち、上手く発音できない言葉で、しかし、しっかりとこう語り始めました。
「僕を見た人は、逃げ出したくなるか、殺したくなる衝動にかられる」。
静まりかえる会場に、重く冷たい沈黙が流れます。彼は、勇気を持って続けます。
「僕のような存在は、社会にとっては面倒なのです。周囲は、寛容を強いられ、忍耐を求められるからです」
痛烈な言葉です。そのひとつひとつが、まるで魂の裂け目から、血が流れ出るような訴えでした。彼の並外れた勇気とエネルギー、葛藤は、激しかったに違いありません。その分、説得力をもって訴えかけます。
そして、彼の叫びは、世界を責めるためのものではありませんでした。それは、私たち全ての人間の心の深みにある「罪の闇」を映し出すものだったのです。
私たちの誰もが、心のどこかに抱えている、見たくない罪の闇があります。優雅さと快適さを追い求め、便利さと成功を求め続けるこの世界。しかし、その影で「人の価値、人が生きる意味」は、一体どこへ向かおうとしているのでしょうか。
人々は、十字架の上の主イエスを見て、「みずぼらしい」と言って捨てたのです。そして「醜い」と言ってムチ打ち殺したのです。まさか、それが神であるとは知らずに。
どこまでも味方であるはずの弟子たちも、主イエスを裏切り「知らない」と言って逃げました。その後、主を裏切ったペトロは、自分を激しく責め、胸を打ち叩くほど自分自身を憎みました。
ヤコブ青年が抱いた、「私は、ここにいてもいいのだろうか」という激しい痛みと、ペトロの「こんな自分は、生きるに値しない」という叫びは、重なっていたのです。
しかし、その全てを包み込む救いが、十字架の上にあったのです。あの日、あの場所で、ムチ打たれ、見捨てられた命が、この世界を救うのです。見捨てられたヤコブ君を、見捨てられた主イエス・キリストが、救うのです。そして、逃げた弟子たちを、十字架の主イエスは、決して見捨てなかった。その愛の眼差しは、今日も、ここにおられる、私たちに注がれているのです。
聖書に描かれている時代、ローマ帝国の支配下で人々が虐げられ、苦しんでいました。そこで、不正な王を裁き、人々が額ずき、ひれ伏すような力ある救い主の出現を、多くの人が期待していたのです。そこで現れたのが主イエス・キリストでした。現れた主イエス・キリスト。人々は興奮し、期待し、信じ従いました。しかし、どうでしょう。人々は徐々に「期待とは違う」と焦りはじめます。
主イエスの姿。それは、力ある王の姿ではない。黄金の冠を被らず、王の衣をまとうこともない。高い玉座におられるのでもない。私たちと同じ荒れた地に足をつけ、痛みと悲しみのただ中で、人々の涙に寄り添い、罪を犯した人の苦しみを共に背負う。小さな業を大切にし、心を砕き「貧しい人は幸いである」と福音をのべ伝える。主イエス・キリストは、まるで知恵のない愚か者のようだったのです。
さらに、主イエスは、「私は、武力で制圧する英雄ではない」そう語り、これこそが救い主と、エルサレムへ入城した際、主イエスがまたがっていたのは勇ましい軍馬ではなく、みすぼらしいロバの背中でした。そして、「私は、十字架につけられ、殺される」とお語りになる。
弟子たちは理解できないのです。期待していたメシアと違う。次々に裏切りが始まっていきます。
神に仕えているはずの祭司長、律法学者たち。自分こそが神に近い、自分こそ正しいと思っているだけに、主イエスが目障りになります。「あのイエスと言う男。自分たちの教えを否定し、邪魔をする者だ。気に入らない。殺してしまおう」。
時は夜でした。暗い夜です。
暗闇の向こうから、煙をあげ松明が、主イエスに向かって近づいて来ます。すると突然、周囲から、兵士たちが現れます。そこに弟子のユダが、微笑みを浮かべて立っていました。しかし、口もとはこわばり、緊張を隠すようにして、大声で「先生、こんばんは」と言い接吻をしました。屈辱的な裏切り。主イエスは、全ての罪を、黙って引き受けられます。これを合図に大勢の人が、主イエスの前へなだれ込み、捕らえます。
その時、主イエスの仲間が反撃します。すばやく剣を抜き、相手の耳を一撃で切り落としました。すると主イエスは、おっしゃいます。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」。側にいた弟子たちは、恐怖のために、全員が散らばっていきました。主イエスただお一人だけになりました。
主イエスは、顔に唾を吐きかけられ、こぶしで殴られ、平手で打たれ、総督ピラトのもとへ連れて行かれます。総督ピラトは、「有罪の理由が分からない」と主イエスをかばいます。すると群集は、ますます憎しみが増し、激しく「十字架につけろ」と叫びます。周囲の人たちをも焚きつけて、さらに群衆の声は勢いを増していきました。総督ピラトは、ついに押し切られます。そして、神の御子イエス・キリストを、死刑にするのです。
ムチは、何度も何度も、巻き付くように主イエスの身体を刺し、ムチが離れていくと、身体に火がついたように痛みが激しく走ります。何度も、何度も、ムチがうなり、ムチが飛び、身体はよじれ、皮膚が裂けます。ムチがうなり、ムチが飛び、茨の冠が食い込み、血が流れます。
主イエスは、私たちの生き方を変えなければならないようなことを語っていきます。新しい愛の生き方を行っていくのです。今までの私たちの生き方が、否定されていくのです。そこで私たちは、自分こそ正しい、自分こそ正しい。そう言いながら頭を振って、主イエスをムチ打ち、唾を吐きかけ、ののしり、目の前から消し去ろうとするのです。主イエスの足元は、したたり落ちる血で、ぬるぬるとすべり、主イエスは何度も倒れます。
ゴルゴタの丘に着くと、十字架の上で両腕を遠くまでのばされ、右、左の手のひらに勢いよく、大釘が打ち付けられます。更に、膝を曲げられ足首にも大釘が打ちつけられます。激しく苦しみながら、ゆっくり、ゆっくりと死へ向かって行きます。十字架の残酷さを多くの人に見せつけ、反抗する気力をなえさせ、力で脅し人々を従わせる。人間の罪の現実です。主イエスは、この世の全ての罪を身代わりに負われるのです。
「自分を救え、十字架から降りてみろ。それでも神の子、救い主か」。
ここで十字架から降りて、神の偉大な力を発揮し見返せば、人々の上に立つことができるのです。しかし、主イエスはそれをなさらない。十字架から降りることをなさらないのです。
主イエスは、「天の神よ、どうぞ、彼らをおゆるしください」と祈られました。主イエスは、私たち、全ての人の罪を負い、私たちが受けなければならない裁きの滅び、死を、身代わりに十字架で負って下さっているのです。本来、私たちが負わなければならない裁きを、身代わりに負って下さっているのです。私たちを救うためです。更に、私たちが、理不尽に苦しめられている時も、主イエスが、同じ理不尽をも味わって下さっているのです。私たちは一人ではないのです。
私たち人間を、罪から、全ての苦しみから、救い出さなければならない。あなたたちは、死んではならない。滅んではならない。それゆえに、主イエスは、私たちへの裁きを身代わりに負い、十字架から降りるわけにはいかないのです。
神らしい姿ではない。低く小さくなられた主イエス。神らしくない、この弱り切った主イエスを、本当に信仰の目で見なければ、私たちは気づくことができません。自らの命を犠牲にして、私たちを、この世を救う、真の聖なる神の御子の姿です。私たちを、どこまでも愛し抜く、聖なる神の御子です。
しかし、私たちは「殺せ、殺せ」と叫びます。私たちが、こんなもの違う。そう言って私たちが殺したもの。それこそが、私たちを、この世界を救う、真のメシアだったのです。殺してみたら、神の子だったのです。
聖なる姿を、信仰の目で見なければ、私たちは気づくことができません。十字架の主イエス・キリスト。このお方こそが、この世を救う。その姿は、黄金の冠ではなく茨の冠をかぶり、豪華な衣ではなく、みすぼらしい破れた布をまとっておられました。天地を創造された全能の神でありながら、私たちを愛するあまり、神の御子が命を、身代わりに捧げて下さいました。限りない愛、限りない赦しにおいて、誰には真似できません。主イエス・キリストの十字架こそが、この世を救うのです。
弟子のペテロは「あなたのために命を捨てます」と自分の力を、信仰を信じ豪語しました。しかし、ペテロは、恐くなって逃げたのです。「主を助けられなかった。それどころか、見捨てて逃げた。あーこんな自分は、もう駄目だ」。十字架の上で、痛みでゆがんだ主イエスの顔が、心にひどく焼き付いています。ペテロは惨めでした。
戦後の文学をリードした、キリスト教作家に、椎名麟三という方がおられます。非合法の労働組織を作り、昭和6年に特別高等警察によって検挙され、捕らえられ獄中生活を送りました。その中で聖書を読み、キリスト教に目覚めていったのです。しかし、その目覚めは、聖書への「反発」から始まりました。聖書を反発しながら読み続け、しかし、だんだん、だんだん聖書から逃げられなくなり、主イエス・キリストに近づいていった。
そんなある日、一人の活動家が同じように捕らえられて来ました。獄中という過酷な状況の中で、その人と励まし合います。そして、どんどん親しくなり、大親友となったのです。ある日、その友が、病気になってしまいます。椎名麟三さんは、親しい友のために、この牢獄から解放してあげたいと思いました。そして、聖書を読みながら、こんなことを思い巡らすのです。
「もしも、この友の代わりに自分が死刑になり、そして、この友が解放されるとするなら、一体、自分はどのような決断をするだろうか」
真剣に考えました。この病気の友のために、自分は死刑になってあげられるだろうか。今にも死にそうになって、苦しんでいる親しい友のために、自分は死ねるだろうか。真剣に考え悩み抜いた末、出た結論。
それは「死ねない」という答えでした。
そして、その答えが生涯「とげ」となって残り続けたというのです。つまり本当の自分を見たのです。「私の聖書物語」という小さな書物に記しています。
椎名麟三さんは、自分は、愛する友のために命を捨てられない。それどころか、主イエス・キリストのためにも命を捨てられない。そして、それは、第一の弟子ペトロだってそうだったと言うのです。
自分自身の信仰は、どんなに弱く頼りないものか。それが真実だったのです。そして彼は、こう言うのです。
「信仰とは、信じている、ということと、信じていない、この対立を越えたところから来る」
「信仰、不信仰、この対立を超えたところから来る」と言うのです。
つまり、私たちが信じているから、信仰が保たれているのではない。信仰は、私たちの努力ではないのです。
私たちが、まだ信じていない時にも、主イエスは、私たちを救うために命を捨てて下さいました。私たちが、信仰を得た後、信じられなくなっていたとしても、主イエスは、私たちを救うために、命を捨てて下さいました。主イエスが、私たちを救うために命を捧げてくださった。この事実は、私たちの側がどうであろうと、真実なのです。この真実が、揺らがないからこそ、私たちは救われるのです。主が、命を捧げてくださった。ここに留まって生きる時、神の御力が働くのです。そして、神の御力によって、私たちは押し出されゆくのです。
ペトロは、その後、復活の主イエスに出会い、生まれ変わり、熱心に伝道していきます。これまでも、熱心に従って来ました。けれど、これまでと全く変わったのです。そして、まさにそれは、ペトロの努力、信仰、不信仰を越えたところから来る力によってだったのです。
私たちにも今日この礼拝によって、自分の努力、自分の信仰、不信仰を超えたところから来る力が、流れ込んで来ています。
以前とは違う。それは、どのような力でしょうか。どのようにして私たちは、生まれ変わるのでしょうか。
以前、ペトロは豪語しました。「私は、どこまでもついて行く。あなたのためなら、命を捨てます」。
主イエスが捕らえられ、ペトロは、大祭司の屋敷の中庭にもぐり込みました。その時、周囲の人が、ペトロに気づき言います。「あなたはイエスの弟子ではないのか」。ペトロは、即座に答えます。 「違う」。
しかし周囲の人々も言います。「お前はイエスの弟子ではないのか」。ペトロは更に強く打ち消します。「違う」。
身を固くして、動けなくなったペトロ。更に、ある人が、のぞき込んで言います。
「この男。間違いない。イエスの仲間だ」。そう言われてペトロは、ますます強い口調で言います。
「イエスなんて知らない。誓って、知らない」。
するとすぐ、鶏が鳴きます。その時ペトロは、はっとします。「鶏が鳴く前に、あなたはわたしを知らないと言うだろう」。主イエスの言葉を思い出し、衝撃が胸を切り裂きます。
あまりの悲しみに、ペトロは、すぐに涙が出ませんでした。ペトロは、心の中で、後悔の叫びを上げながら、門へと走って行きます。門の外へ出たとたん、感情が一気に爆発し、息ができないくらいに泣いたのです。ペトロは、泣いて、泣いて、泣けるだけ泣きました。「あなたのためなら、命を捨てます」。自分の言葉を思い出し、泣き崩れます。私が、主イエスを守るはずだった。それなのに「イエスなんて知らない。誓って、知らない」。
ぺトロは弱い、いざとなれば自分の身をかばい主イエスを捨てた。私たちはこの出来事を、ペトロも弱い。だから、私たちも、主を大事にできない時もある、従っていけない時もある。私たちの弱さ、不信仰、罪の言い訳にしてしまう時があるかもしれません。
けれど、注目したいのです。ペトロは、不信仰だったわけではありません。真剣だったのです。真剣になって信じて従って来たのです。一生懸命に従って、自分の人生をかけて来たのです。
ペトロは漁師をしていました。主イエスに「わたしに付いて来なさい」と言われ、すぐ網を捨てて従ったんです。それは、まだ誰も、主イエスのことを知らない時でした。周囲に反対されても、主イエスに従って来ました。御言葉を聞き、伝道し、寝食を共にし、批判する人たちからの迫害とも戦って来た。ペトロは、勇気があったのです。芯があり、勇気があるのです。
それなのに、「あんな人知らない。誓って知らない」。言い切ってしまったのです。言うはずのないことを、言ってしまいました。こんな私ではないはず。
裏切りの言葉を言った。それだけではありません。主イエスと共に生きてきた、これまでが、ペトロの中で、崩れていったのです。主に、選んで頂いたこと。愛されたこと。教えを受け、恵みを頂き、喜びも、悲しみも共にしてきた。その一つ一つが、「イエスなんか知らない」。この一言で、壊れてしまったんです。自分が、大切にしてきたものを、自分の手で壊してしまったのです。
ペトロは泣きます。大切なものを守り通せなかった弱さ。私は罪人だと泣くのです。そして、私たちも同じ経験をし、自分の胸をきつく叩きたくなります。
流した涙は、自分の罪の後悔のためだけではありません。見捨てて、逃げたペトロ。そのペトロを、主イエスは、十字架の上で、慈しみの眼差しで見つめられたのです。「ペトロ。それでも、私は、あなたを愛している」そう言ってペトロを救うのです。「あなたのために命を捨てます」と言ったペトロのために、命を捧げてくださったのは、主イエス・キリストの方だったのです。
ペトロは、主イエスの慈しみの眼差しに見つめられ、激しく泣きます。その涙は、ただの後悔の涙ではありませんでした。ペトロが、見捨てて逃げる。そのことを、主イエスは知っておられた。知っていても、愛し続けて下さった。そして実際にその通りになった時も、なお、変わらぬ愛でペトロを包んで下さったのです。だから、ペトロは、泣いたのです。そして、涙のしずくには、主イエスの愛と赦しが映っていました。
自分の罪と主イエスの愛。深い悲しみと、深い喜びの、入り混じる感情の中で、私たちは生まれ変わっていきます。深い悲しみと、痛みの奥にある深い喜びが同居しているのです。深い悲しみと、痛みを伴う深い喜びが、同時にそこにある。それが「赦される」ということです。
こんな私たちを、赦して下さった。
私たちの努力、信仰、不信仰を、超えたところからの力。これが私たちに与えられている信仰です。これが、新しい命へと、伝道へと押し出される力です。
復活された主イエスは、ペトロに会います。そして、ペトロに尋ねるんです。
「あなたは、私を愛しているか」
ペテロは、自分の口から「絶対に愛しています」とは、もはや言えない。ペテロは、こう答えるしかないのです。「主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」。もはや、かつてのような自信に満ちた言葉ではありません。むしろ、傷つき、挫折した者、弱さを抱えた者としての答えでした。ペテロは、失敗と裏切りを通して、打ち砕かれていました。そして主イエスは、そんなペテロを、深く深く愛し、伝道へと遣わすのです。
しかし、ここで大切なことがあります。私たちは、ペテロの、もはや自分を誇れず、謙遜な姿に感動します。しかし、それだけでしょうか。ここにはもっと深い、深い、神の御心があるのです。
ペテロが、ますます主に用いられて行くのは、「謙虚になったから」「打ち砕かれたから」だけではありません。確かに、それは大切な要素です。しかし、それだけが召された理由でしょうか。そうではないのです。
ここで聖書を、よく読みたいのです。ペテロの「あなたがご存知です」という言葉。
この言葉の中にある、二重の意味です。
一つは、「私はもはや、自分の愛を絶対だとは言えません」という謙虚さ。
そして、もう一つは、それでもなお「私の愛は不完全です。けれど、やっぱり、どうしても、あなたを愛してしまうのです」と告白しているのです。
これは、ただ打ち砕かれただけの姿ではありません。むしろ、神の前に真実に立ち、自分の限界を知った上で、それでも神への愛を告白しているのです。
過去に犯した罪、罪人の私を赦して下さった。主は、今も、こんな私を愛して下さっている。涙のしずくに、主の慈しみが映っている。私は、もはや、あなたを愛する資格などないかも知れません。けれど主よ、主よ。私が、あなたを愛していることは、あなたがご存知です。私は、どうしても、あなたを愛してしまうんです。
謙虚さと共に、積極的な前進。
これは、まぎれもなく、主の御力によるものです。これも、神の御業です。そして、そんな私たちを、神は、ますます用いて遣わしてくださるのです。
主イエスに赦されたことが、彼を変えたのです。ペテロ自身の努力や、英雄的な力ではなかったのです。
最初に紹介しましたヤコブ青年は、やがて洗礼を受け、主イエスを証ししながら歩む者へと変えられていきました。聖書に登場する癒された人々。彼らは、ただ病が治ったから、苦しみが去ったから、主イエスの弟子になったのでしょうか?そうではありませんでした。
たとえ病が残ったとしても、たとえ苦しみが去らなかったとしても、主イエスに出会った人たちは、見える世界から解き放たれ、見えない神の御顔を仰ぎ見るようになったのです。
そして、こう思うようになるのです。「主と共に歩むなら、この世界はこんなにも美しい。祈り合えることが、こんなにも幸せ。助け合うことが、こんなにも喜び。深みのある信仰へ、深みのある人生へ」
それが、主イエスの、真実の癒しであり、新しい使命への出発なのです。
ヤコブ君は「僕は、ここに、生きていていいの?」その問いを、何度もキリスト者の家族に投げかけました。その度に家族は、仲間たちは、変わらず愛を込めてこう答えました。「あなたがいない人生なんて、考えられないわ。あなたがいるから、私たちの人生は素晴らしい。あなたに出会えて、本当に良かった」
彼は、教会の中で、確実に、生きる意味と価値を見出し、彼の命は輝いていったのです。
聖書は繰り返し、「試練がなくなること、病が治ること」よりも、「遣わされる者、証しする者となること」が重要だと語ります。だからこそ、私たちは、こう答えるのではないでしょうか。
『試練にもあわず、病気もなく、毎日がたとえ元気で明るくても、神様を知らない人生』なら、『病を知り、苦しみを知り、神様と出会い、人の愛に触れながら生きる人生』を、私たちは選びたい。
なぜなら、その人生には、涙の中にも希望があり、弱さの中にも力があり、そして、苦しみの中にも、神の栄光が、確かに光、輝いているからです。