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第46回教会修養会開会礼拝

ローマの信徒への手紙10:14~18

開会礼拝

副牧師 矢澤 美佐子

2023年11月3日

00:00 / 38:04

良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか。

 

 このパウロの言葉は、イザヤ書52章7節の御言葉です。この時、人々は「救われた、救われた」と喜びの声を上げているのです。イスラエルは、大国バビロニアに連れて行かれ70年捕囚の民となり国家的悲劇を経験しました。それは、神が警告していたことでしたが、人々は神を軽んじ、その結果、国は奪われ礼拝する神殿も破壊されたのでした。

人々は神への背きを悔い改め、捕囚から解放される日を待ち望みました。解放は「自分たちの力によって、或いは、ダビデのような力あるメシアによって」と人々は願いました。しかし、その時イザヤは「救い主は、力ある姿でなく僕の姿で来られる」そう語ったのです。

 

長い苦難の暗闇から、ついに解放される日が来ました。しかし、人々の思いもよらない仕方でした。自分たちの力によってではなく、力あるメシアによってでもありません。

神は、異邦人を用いられたのです。神に動かされた異邦人ペルシャ王は、イスラエルの人々をバビロンから解放し、人々が再び礼拝できるための神殿再建をも助けたのです。

これは非常に重要な歴史的瞬間です。

この世界には、真に神が、この世を支配しておられるとしか言いようのない出来事が起こります。

イザヤは、震えるほどに謙り語ります。「見よ、ここに」「見よ、ここに」

 

そして解放を伝える者たちが、山々を越え、谷を降り進みます。「神が救って下さった」

喜びの知らせを聴き、緊張していた仲間たちも歓喜の声を上げ「あー神様、感謝いたします」と喜び合ったのです。

困難をくぐり抜け、暗闇の中で助け合い、神と共に生きた人たち。喜びの知らせを伝え合います。その時、神の御言葉は素晴らしく響き渡りました。

 「いかに美しいことか、山々を行き巡り 良い知らせを伝える者の足は」

 

 思いもよらない神の救い。それは、神の御子の誕生もそうでした。

突然、夜空が、燃え上がるように明るくきらめき暗闇を押しのけ、その輝きの中におびただしい数の天使が現れ美しく歌うのです。

 「神の子が、お生まれになりました」。

 羊飼いは立ち上がり「よし、行こう」 彼らを動かすのは、神の御言葉です。羊飼いたちは、笑顔で丘を転がるように降り、心軽やかに飛ぶように進みます。町の華やかな明かりをすり抜けて、辿り着いたのは「汚い、汚い馬小屋」です。

思いもよらない神のお姿。力あるメシアの姿ではなく、神の偉大さ、神の栄光をお捨てになり、私たちの罪を負い、私たちの苦しみをその身に負い、私たちを救うために低くなられた神の御子の姿です。

「見よ ここに」「見よ ここに」神の御言葉は実現しました。

羊飼いたちは畏れ額ずき、そして、山々を巡り多くの人々に伝えます。

 再びあの御言葉が素晴らしく響き渡ります。

 「いかに美しいことか、山々を行き巡り 良い知らせを伝える者の足は」

 

 復活の朝もです。

 暗い夜は明けて、太陽が明るく輝き昇っています。主イエスは復活された。神の御言葉は実現したのです。女性たちは、嬉しくて町から町へ、まるで背中に羽がついているように飛ぶように進み、笑顔で皆に伝えます。「私たちの救い主は、生きておられる。どこまでも、伝えていたい」

 世界に美しい色がつき、この世が新しく光輝いて見えます。

 時代を超えて、パウロも喜びを響かせます。

 「その声は、全地に響き渡り、神の御言葉は、世界の果てにまで及ぶ」

 

 さらに時代を超えてこの御言葉を聞いている、私たちです。

私たちは、今、神の御言葉の力に取り込まれています。御言葉が、神から出て神へと帰っていきます。その救いの輪の中に、私たちはすくい取られ、入っているのです。神の御言葉は、動きが止まった言葉ではなく、生きて働き続けるイエス・キリストそのものです。

それゆえ、私たちが弱くなった時も、私たちの中に生きておられる神の御言葉、イエス・キリストが大いなる力です。

私たちの伝道が、挫折しているように見える時も、私たちの中に生きておられる神の御言葉、イエス・キリストは挫折しないのです。

 神は、伝道する私たちに向かって「あーいかに美しいことか」と語って下さっています。

 

 主イエスが低くなって下さったことによって、私たちは、お互いの弱さを助け合い、祈り合う、他の人を必要とする者となりました。教会。それは、他の人と共に救われていくところです。他の仲間たちをどうしても必要とするキリストの身体です。

 

 「悲しみからの癒し」(グリーフケア)について私は学んでおりますが、教えて下さる先生は、カトリックのシスターでキリスト教大学でも教えていらっしゃいます。大震災で、数千人の方に神様を指し示す慰め、癒しをしてこられた先生も「教会の大切さ」を熱心に、そして優しく穏やかに語られます。

 昔から日本では家の中に、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、子供たち、孫たちが一緒に暮らすことは珍しくありませんでした。近所には世話好きな、おじさん、おばさんもいました。落ち込んでいる人がいれば「どうしたの」と声をかけ、何の評価をせず、悲しみを聞いてくれました。

そういう「癒しびと」が日本にはいました。

 それが核家族が進み、家族の死を初めて経験した若い人たちが、どうしたらいいのかわからない、癒してくれる人も、癒してくれる場所もない。震災の後も、家族だけではあまりにも悲しみが深すぎて、心病んでしまった方が多くおられます。

身近にいた「癒しびと」がいなくなってしまった現代、教会は、とても大切とされています。

そして、多くの人が、誰もが苦しい人生を生きているのだから心優しい人になりたい、自分の苦しみの経験を活かし助けたいと望んでいらっしゃるのです。

 

私は、教会に集う若い人たちと向き合ってお話を聴きますと、競争の毎日に、それでも神様を信じ、人を愛して生きていきたい。純粋で壊れそうな心で真剣に考えておられます。家族の病気、愛するおばあちゃん、おじいちゃんを亡くし、寂しい思いをしている方もおられます。そして、教会に来ると優しいおじさん、おばさん、おじいちゃん、おばあちゃんが声を懸けて微笑んでくれる。とっても癒され、元気になると話してくれます。

 

 世の中には、神様の助けを求めている人がたくさんおられます。本当にたくさんおられます。

「いかに美しいことか」この神の御声を聴きながら、一人でも多くの人を教会へと招きたいと思います。

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