「はじめに」
石川地区総会が金沢教会を会場に開催されました。被災地では、今もなお厳しい生活が続いており、多くの方が不安の中で日々を過ごしておられます。そのような状況の中でも、御言葉を語り続け、救いを伝える教会の働きのために、心を合わせて祈り続けたいと願っています。
また、世界では激しい争いが絶えず、人間の罪深さや愚かさが浮き彫りにされています。そのような現実の中に、神は主イエスを遣わし、私たちを愛し、救うために命を捧げてくださいました。神の栄光は、攻撃や復讐の中ではなく、困難の中で祈り、仕えている人々の中にこそ現れています。被災地で出会った方々に「神様に寄りかかって生きてください」と声をかけますが、それは私たち自身にも向けられている言葉です。神の御言葉を通して、心に光が灯されますように。
「ロゴス・キリスト」
本日のヨハネによる福音書には、「ロゴス」、すなわち神の言葉が人となってこの世に来られたことが語られています。天地創造の「光あれ」という言葉に象徴される、目には見えないが力ある神の言葉。それが肉となって現れたのが、イエス・キリストです。ヨハネ福音書はこのロゴス・キリスト論をもって、神の愛と救いの深さを伝えています。
ある父親が、死に向かう我が子の前で打ちひしがれていました。胸が張り裂けるような悲しみの中で、誰かを責めずにはいられなかったのです。事故や災害で家族を失うとき、その悲しみは形を変えます。事故には加害者が存在するため、怒りの矛先が明確になり、深い憎しみに変わることもあります。一方で、地震のような自然災害では、目に見えない神に向かって怒りや問いをぶつけるしかありません。
「神様、なぜですか」。この問いの中で、私たちは神にすがり、涙とともに心をゆだねるのです。怒りや悲しみを感じるのは自然なことです。大切な人や物を失ったとき、私たちは戸惑い、傷つき、自分を責めてしまいます。けれども、そんな私たちを神は見捨てられません。
神様は、悲しみに心が痛むように、私たちを造られました。涙は決して弱さではなく、人間らしさのあらわれです。誰かがそばで祈ってくれるなら、また神様を信じてみようと思えるのです。
キリスト教カウンセリングでは「出会い」が重視されます。自分の殻を少しずつ破って外へ出ることで、思いがけない宝物と出会うことがあるのです。その宝物とは、まさに主イエス・キリスト。十字架の上で命を捧げられたイエスは、今もなお、究極の寄り添いとして、私たちのそばにおられます。どんなに泣き崩れても、怒りにかられても、主は私たちを見捨てることなく、変わらぬ愛で共にいてくださるのです。
私たちは決して一人ではありません。
「様々な悲しみ方」
今日の聖書に登場するのは、愛する子が死にかけている父親です。彼はヘロデ・アンティパスに仕える上級役人。権力も人脈も持ち、あらゆる医者や占い師のもとを訪ね、子を救おうと奔走したはずです。しかし、子どもの容体は悪化するばかり。誰のせいかと怒りが湧き、自分では背負いきれない悲しみが襲いかかります。
悲しみの深さは、愛の深さに比例すると言われます。その重さに押しつぶされ、「もうどうでもいい」と自暴自棄になることもあるでしょう。それは「弱さ」ではなく、「悲しみが重すぎる」からなのです。
人の悲しみ方は様々です。涙が止まらない人、取り乱す人、沈黙する人、逆に笑顔で振る舞う人もいます。どれもが、悲しみの表現です。時に自分でも感情の変化についていけず、戸惑うのです。
だからこそ、牧会学では「泣いている人にだけ寄り添えばいい」とは言いません。笑顔の裏にも、深い悲しみがあるかもしれないからです。誰かに声をかけること、そっと寄り添うこと、それが人の心を支える大きな力となります。
「しるしや不思議な業がなくても」
愛する子どもが死にかけている――その家族に、仲間たちは寄り添い、相談に乗り、共に祈ります。これこそが教会の姿です。どうすれば助けられるか、言葉を選びながら話し合い、やがて沈黙が訪れます。その中で一人が静かにささやきます。「イエス・キリスト」。
皆が息を飲みます。父親は、主イエスを敵視するヘロデ・アンティパスに仕える高官。イエスに助けを求めれば、自らの命が危険にさらされる。しかし彼は決断します。「神の子に、全てをかけてみよう」。
父親は30キロの上り坂を歩き、昼の1時、ついに主イエスを見つけます。誇り高い身分を捨て、地にひれ伏し、「息子が死にそうです。どうか助けてください」と懇願します。
しかし主イエスはこう言われます。「あなたがたは、しるしを見なければ決して信じない」。まるで突き放すような言葉です。多くの人々が、目に見える奇跡を求めてイエスを慕ってきましたが、それは真の信仰とは言えませんでした。それでも父親は食い下がります。「子どもが死なないうちに来てください」。目に見える救いを求めて必死です。そんな父親に、主イエスは静かに、しかし力強くこう告げます。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」。
「天地を創造することがおできなる神、最も正義を主張し得るこの方が、沈黙し、命を差し出された」
「生きる」。この神の御言葉の前に、私たちは畏れおののきます。なぜなら神は、その言葉だけで天地を創造された方だからです。「光あれ」と語られたとき、闇の中に光が生まれました。御言葉には、想像を超えた力があります。
ヨハネによる福音書は、創世記に続けてこう語ります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言によって万物が成った。言の内に命があった」。「言(ロゴス)」が、肉をとってこの世に来られた、それがイエス・キリストです。
旧約の時代、神は預言者を通して何度も語られました。しかし、人間は闇を好み、御言葉を拒みました。それでも神は、裏切られながらも忍耐し、なおも愛し、なおも語り続けられたのです。神の愛は深く、激しく、私たちの滅びを見過ごすことができない愛です。そして、ついにその愛が肉をとって現れました。イエス・キリスト。神の御言葉が、肉となり、この世に来られたのです。
人と人が対立するのは、お互いが「自分こそ正しい」と譲らないからです。この分裂に必要なのは、沈黙せざるを得ないような、犠牲です。その犠牲こそ、主イエスの十字架です。
最も正義を主張し得る方が、あえて沈黙し、命を差し出されました。その犠牲の前で、私たちも自分の正しさを押し通すことをやめ、十字架のもとで静まるのです。
過去の罪も、誰かを責めたい思いも、消えない怒りも、主イエスが十字架で全てを背負ってくださいました。神の御子が引き裂かれたその苦しみを見て、父なる神はどれほど嘆かれたことでしょうか。「あなたを救うために、私は我が子を犠牲にした。それほどに、あなたを愛している」神はそう仰せられます。
「こんな私のために、これほどまでに」。その驚きと感謝こそが、教会で起こっている神の救いの御業です。
「主イエスが「生きる」と語られた同じ時間」
父親は、必死に叫びます。「子どもが死なないうちに来てください!」見える神に、見えるしるしによる救いを願います。しかし、主イエスは同行されず、こう言われました。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」。その瞬間、神の力が、言葉とともに働いたのです。「生きる」それは、天地を創られた神の御言葉の響きです。
父親は、信じているかどうか自分でも分からないまま、ただ主の御言葉に押し出されるように坂を下ります。そこへ、笑顔で駆け上がってきた仲間たちの声が響きます。「子どもは生きています!昼の1時、良くなりました」その時刻こそ、主イエスが「生きる」と語られた同じ時間でした。目には見えなくても、イエス・キリストはそこにおられ、語られ、命を与えておられたのです。
「生きて働く神の御言葉」
私たちもまた、主イエスがこの目で見えなくても、確かにここに共におられることを信じています。御言葉は、過去の物語ではなく、今も生きて働く神の御言葉です。信仰とは、努力や知識によって得られるとは限りません。苦しみのただ中で、限界の中で、何もできないと感じるその時こそ、主が働かれ、信仰は輝きを放ちます。それはこの世の力ではない、神の力です。そして私たちは言うのです。「ああ、自分の力ではない。神様がしてくださった」と。
深い悲しみの中で、私たちは教会という場所に集います。涙の奥にある新しい輝きへと、一歩一歩進む場所です。イエス・キリストが、新しい命への扉を開いてくださる場所です。私たちは、主イエスと共に、涙も死もない、新しい天と地へと向かっています。希望の光イエス・キリストは、私たちのうちに、私たちの間に、共に生きておられます。