1.あなたの愛する独り子イサクを焼き尽くすいけにえとして献げなさい
(1)「アブラハム物語」の最大の山場は、漸く与えられた、愛する独り子イサクを神に献げる、イサク奉献の出来事です。神は何故、このような命令を下されたのか、これは永遠の謎です。また、神の命令に従うアブラハムとイサクとの緊迫した様子が伝わって来ます。キルケゴールは『恐れとおののき』という言葉で、この物語を言い表しました。旧約聖書を代表する物語となりました。
「イサク奉献の物語」は、こういう御言葉から始まっています。「これらのことの後、神はアブラハムを試みられた」。「これらのことの後」とは、創世記21章で語られた内容を受けています。アブラハムとサラとの間に、25年待って、漸く跡取り息子イサクが与えられたことです。イサクは神が付けられた名です。「笑う」です。「神は私を笑わせて下さった」。神が造られた笑いに生きる。アブラハムとサラとの家庭には、笑いに溢れていました。イサクは笑いの中で成長しました。
ところが、ある日、突然試練が襲って来ます。神はアブラハムを試みられます。「イサク奉献の物語」は、神が与えられた試練の物語です。私ども人間には神の御心が分かりません。それ故、何故、何故と問うしかありません。1b節「神が、『アブラハムよ』と呼びかけると、彼は、『はい、ここにおります』と答えた」。神は名を呼ぶ神であり、私ども人間は呼びかける神に応える存在です。
(2)2節「神は言われた。『あなたの息子、あなたの愛する子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして私が示す一つの山で、彼を焼き尽くすいけにえとして献げなさい』」。愛する独り子イサクを焼き尽くすいけにえとして献げる。礼拝で行われる「燔祭」です。ローマ12・1.神への全き献身を現します。何故、燔祭の小羊ではなく、愛する独り子イサクなのか。神が与えられたもので、最も大切なものだからです。最も大切なものを献げることが、「献身」です。「イサク奉献物語」の大きな主題は、神は「与える神」だけでなく、「奪う神」でもあられる。神は大切なものを与える神だからこそ、大切なものを取り去られる神でもある。ヨブの叫びと重なり合います。「主は与え、主は奪う。主の名はほめたたえられますように」(1・21)。イサクはアブラハムとサラのものではなく、神が与えられたものです。神のものです。日々の笑いの生活の中で、アブラハムもサラも、私どもも忘れることです。
「イサク奉献の物語」は、愛する独り子を神に献げるというアブラハムの試練です。同時に、「神の試練」でもあります。神はアブラハムを通して、ご自分の民を祝福し、全世界を祝福すると約束されました。そのため、アブラハムと「永遠の契約」を立てられました。ご自分が立てられた「永遠の契約」が破棄されるという「神の試練」でもありました。
2.焼き尽くすいけにえの小羊は神ご自身が備えてくださる
(1)突然の神の命令に対し、アブラハムの心の葛藤は一切記されていません。激しく動揺し、何故という叫びを繰り返したことでしょう。しかし、アブラハムは神の命令に従います。
3節「アブラハムは朝速く起きて、ろばと鞍を置き、二人の従者と息子イサクを連れ、焼き尽くすいけにえに用いる薪を割り、神が示した場所へと出かけて行った」。4節「三日目になって、アブラハムが目を上げると、遠くにその場所が見えた。アブラハムは従者に言った。『ろばと一緒にここにいなさい。私と子どもはあそこまで行き、礼拝をしてまた戻って来る』。アブラハムは焼き尽くすいけにえに用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。こうして二人は一緒に歩いて行った」。
7節「イサクが父のアブラハムに、『お父さん』と呼びかけると、彼は、『息子よ。何か』と答えた。そこでイサクは、『火と薪はここにありますが、焼き尽くすいけにえにする小羊はどこですか』と尋ねた。するとアブラハムは、『息子よ、焼き尽くすいけにえの小羊は神ご自身が備えてくださる』と答え、二人はさらに続けて一緒に歩いて行った」。
モリヤの山へ登る途中のアブラハムとイサクの緊迫した会話です。沈黙が支配した中で、唯一交わした会話です。「焼き尽くすいけにえにする小羊はどこですか」。「息子よ、焼き尽くすいけにえの小羊は神ご自身が備えてくださる」。「神ご自身が備えてくださる」。この言葉こそ、この物語の主題です。
(2)9節「神が示された場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた」。
アブラハムの一つ一つの動作が語られます。礼拝に備える動作です。しかし、その全ての動作は一つのことへ向かいます。息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。父として断腸の思いで行った動作です。
10節「アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。すると、天から主の使いが呼びかけ、『アブラハム、アブラハム』と言った。彼は、『はい、ここにおります』と答えると」。
神は「アブラハム、アブラハム」と二度まで呼びかけます。アブラハムは「はい、ここにおります」と答えます。アブラハムが神に応える言葉はこの言葉のみです。(1節。7節)。
12節「主の使いは言った。『その子に手を下してはならない。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが今、分かった。あなたは自分の息子、自分の愛する独り子を私のために惜しまなかった』」。
神はアブラハムの沈黙の行為に、神への畏れを見ました。神への畏れは、このひと言で言い尽くされています。「あなたは自分の息子、自分の愛する独り子を私のために惜しまなかった」。「イサク奉献物語」の中心聖句です。
13節「アブラハムが目を上げて見ると、ちょうど一匹の雄羊がやぶに角を取られていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕らえ、それを息子の代わりに焼き尽くすいけにえとして献げた。アブラハムはその場所をヤハウェ・イルエと名付けた。それは今日、『主の山に、備えあり』と言われている」。
「イサク奉献物語」のもう一つの中心聖句です。「焼き尽くすいけにえの小羊は神ご自身が備えてくださる」。「主の山に、備えあり」。「備える」という言葉は、「見る」という意味でもあります。「アブラハムが目を上げて見ると」(4節、13節)、そこに小羊が備えられていた。この「備える」という言葉から、「摂理」が生まれました。「前方にある神の備えを見る」という意味です。コリント一10・13.
3.主の山に備えあり
(1)15節「主の使いは、再び天からアブラハムに呼びかけて言った。『自らにかけて誓われる主のお告げである。あなたがこうして、自分の息子、自分の独り子を惜しまなかったので、私はあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を空の星のように、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取るであろう。地上のすべての国民はあなたの子孫によって祝福を受けるようになる。あなたが私の声に聞き従ったからである』」
19節「アブラハムは従者のところへ戻り、皆一緒にベエル・シェバへと向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ」。
「あなたは自分息子、自分の独り子を惜しまなかった」。この言葉が三度繰り返されます。2節、12節、16節。「イサク奉献物語」の中心聖句です。ここに神はアブラハムの私の声に聞き従った畏れ・信仰を見ました。ヘブライ11・17~19.
(2)アブラハムが愛する独り子イサクを献げたモリヤの山とは、どこにあるのでしょうか。歴代代誌下3・1「ソロモンは、エルサレムのモリヤの山で、主の神殿の建設を始めた」。モリヤの山はエルサレムにあった。エルサレムは小高い丘の上にあります。2千年後、エルサレムのモリヤの山で、神ご自身が愛する独り子を焼き尽くすいけにえとして献げられました。ゴルゴタの丘の上に起きた主イエスの十字架の出来事です。伝道者パウロは「イサク奉献物語」と主イエスの十字架の出来事を重ね合わせて語りました。ローマ8・32.
「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡される方は、御子と一種にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか」。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 9月9日の祈り エフェソ6・10~11
「主なる神よ、われらは感謝します。あなたはわれらを強くしようとしてくださいます。あなたご自身の顕現により、イエス・キリストにより、強くしようとしてくださいます。キリストはあなたのことを果たし、地上で、人々の間で、勝利者でありつづけられます。われらがこのわれらの時代にあって、あなたを、あなたの国を迎えうるためには、われらの魂は強くなり、心は確信あるものとならなければなりません。それゆえに、われらが疲れ果てようとする時に、聖霊をもってわれらを祝福してください。そしてあなたの強さの中にふみとどまり、あなたの強さによって信じ、希望を持ち、あなたの強さによって救いを見るようにしてください。救いはやがて来たり全世界のよろこびとなるのです。アーメン」。
