1.信仰の父アブラハム
(1)前回より「アブラハム物語」を黙想しています。創世記は「アブラハム物語」を定年に語ります。それはアブラハムが私たちにとって重要な人物だからです。アブラハムは「信仰の父」と呼ばれました。それはイスラエルの民だけでなく、私たちの「信仰の父」であるからです。アブラハム物語は主の言葉から始まりました。
12章1節「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民とし、祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福の基となる。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う人を私は呪う。地上のすべての氏族は、あなたによって祝福される」。
神はアブラハムを通して、全ての民族を祝福すると約束されました。神に祝福されて誕生した天地万物は、アダムとエバの罪、カインの罪、ノアの時代の人々の罪、バベルの塔の罪により、呪われてしまいました。造り主との関係が破れました。しかし、神はアブラハムを通して、呪われた世界を祝福へと変えるために、アブラハムを「祝福の基」とされました。アブラハムが私たちの「信仰の父」である所以があります。
(2)アブラハムが「信仰の父」である所以は、もう一つあります。ヘブライ人への手紙11章8節以下。「
「信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先も知らずに出て行きました」。13節「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものは手にしていませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者(旅人)であり、滞在者(寄留者)であることを告白したのです。彼らはこのように言うことで、自分の故郷を求めていることを表明しているのです。・・ところが実際は、彼らはさらにまさった故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです」。
行く先が分からずに、主の言葉を信じて旅立ったアブラハムの信仰は、天の故郷を目指し、地上を旅する神の民・教会の姿と重なり合います。アブラハムは私たちの先頭に立つ「信仰の父」です。
2.アブラハムの危機
(1)神の言葉に促され、行く先も分からずに旅立ったアブラハムは、ハランから約束の地カナンに下りました。しかし、すぐに危機に直面しました。それが今日の御言葉です。
10節「ところが、その地で飢饉が起こった。その飢饉がひどかったので、アブラハムはエジプトへ下って行き、そこに身を寄せようとした」。
約束の地カナンに地に留まっていたら、飢饉のため生き延びることは出来ません。「外的な危機」です。それ故、アブラハムはエジプトに下りました。地上を歩む旅人としての人生を生きる私どもには、外から襲いかかる危機、「外的危機」が避けられません。しかし、更に深刻な危機は、「外的危機」により、私どもの信仰が揺さぶられる「内的危機」です。
11節「エジプトに近づいたとき、アブラムは妻のサライに言った。『あなたが美しい女だということを私はよく知っている。エジプト人があなたを見れば、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなただけを生かしておくだろう。だからあなたは、自分のことを私の妹だと言ってほしいのだ。そうすれば、あなたのお陰で私は手厚くもてなされ、命は助かるだろう』。
「信仰の父」と呼ばれるアブラハムは欠点のない人物ではありません。ここにはアブラハムの罪が描かれます。エジプトに寄留するためには生き延びなければならない。エジプトの王が美しいアブラハムの妻サライを見れば、私を殺すであろう。そこで「私の妹」と偽れば、私もあなたも助かる。アブラハムも妻も生き延びるためのぎりぎりの策略です。しかし、アブラハムの策略は、自分中心の策略です。自分が犠牲になって妻を助けるのではなく、妻を犠牲にして自分が生き延びようする。アブラハムの自己中心的な罪です。「外的危機」以上に深刻な「内的危機」です。
(2)14節「アブラムがエジプトに入ると、エジプト人は彼の妻を見て、大層美しいと思った。ファラオの高官も彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めそやした。そこでサライはファラオの宮廷に召し入れられた。彼女のお陰でアブラムは手厚くもてなされ、羊と羊の雄ろば、男女の奴隷に雌ろば、そしてらくだなどを得た」。
アブラハムの知恵で、「外的危機」は逃れました。しかし、そのために大きな代償を払いました。「あなたのお陰で」(13節)、「彼女のお陰で」(16節)が繰り返されます。言い換えれば、「妻を犠牲にして」です。
17節「ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオとその宮廷に恐ろしい災いを下された」。
「内的危機」の只中で、主が介入されます。「アブラハム物語」は「主は言われた」で始まりました。ここでも、「ところが主は」と語られます。「アブラハム物語」はアブラハムが中心に立っているように見えますが、実は、主が中心に立ち、導かれるのです。危機の只中で、「ところが主は」と、主が介入されます。
18節「ファラオはアブラムを呼びつけて言った。『あなたは何ということをしたのか』」。この言葉は3度目です。神の言葉として語られて来ました。一度目は3章13節。食べてはいけない木の実を食べ、神との約束を破ったアダムとエバは、神の顔を避けて隠れました。神は語られました。「あなたはどこにいるのか」(3・7)。そしてこう言われました。「何ということをしたのか」。二度目は4章10節。弟アベルを殺したカインに向かって、神は語られました。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」(4・9)。そして言われました。「何ということをしたのか」。三度目がファラオの言葉です。「あなたは何ということをしたのか」。しかし同時に、神の言葉でもあります。神はアブラハムの罪を嘆かれます。
「あなたは何ということをしたのか。なぜ、彼女が妻であると告げなかったのか。なぜ、彼女を妹であると言ったのか。だからこそ私は彼女を妻として召し入れたのだ。さあ今すぐ、あなたの妻を連れて行きなさい」。30節「ファラオは家臣に命じ、彼としの妻、その持ち物すべてを送り出した」。
「あなたは何ということをしたのか」の後に、「なぜ」が繰り返されます。ファラオの言葉ですが、主の言葉でもあります。
3.十字架の主イエス・キリストを仰ぎ見て
(1)「外的危機」が「内的危機」をもたらす。エジプト下りの直前に、このことが語られていました。神の言葉に導かれ、約束の地カナンに来たアブラハムは、シェケムとベテルで、主の祭壇を築き、主の名を呼びました。しかし、「外的危機」に陥った時、アブラハムは主の御前で、主の名を呼ぶことをしていません。主の御心ではなく、自分の知恵で危機を乗り越えようとしました。その結果、妻を犠牲にし、自らが生き延びる道を選びました。そこにアブラハムの「内的危機」がありました。主に召され、主の御言葉に導かれたアブラハムは、主の御言葉に聴き、主の御心を求め、主を中心にしなければなりませんでした。自分が中心に立ったのです。
アブラハムが直面した「外的危機」と「内的危機」により、アブラハムは悔い改めました。しかし、再び同じ罪を犯してしまいます。20章のゲラル滞在の時、全く同じ罪を犯します。「信仰の父」と呼ばれたアブラハムも罪人であったのです。
(2)ローマの信徒への手紙5章8節。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われたのは、なおさらのことです」。
妻を犠牲にして、自らは生き延びようとしたアブラハム。しかし、主イエス・キリストは自らを犠牲にしてまで、罪人を救う救い主です。「信仰の父」アブラハムも、十字架の主イエス・キリストを必要としているのです。
十字架の主イエス・キリストを遙かに仰ぎ見ていたのです。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 7月1日の祈り ルカ13・29
「愛しまつる在天の父よ、全能の神よ!朝より夕に格まで、東から西まで、南から北まで、もろもろの民をご支配のもとに来たらせ、あなたのさばきのもとに置いてください。なぜならば、み心はすべての民の間に行なわれ、
み名は崇められなければならないからです。もろもろの国はあなたのものです。あなたのみ心が支配権を持っておられるからです。人間が最後には安息を得て、自分があなたの子であり、あなたに従わなければならない者であることを学ぶためには、あなたの天国が来なければなりません。あなたの善にして、恵みあり、完全な意志を全世界に果たすべき方は、あなたのキリストだからです。あなたがわれらにもたらしてくださるすべての善きことを感謝します。こよいも天使をしてわれらを守らしめ、われらがするすべてのことにおいてわれらと共にいてください。あなたが与えてくださったすべての善きことをわれらが心からよろこべるように、み手を強くしてください。アーメン」。
