1.さあ、私は降って行って、見て確かめよう
(1)「アブラハム物語」の主人公はアブラハムです。しかし、多くを語っていません。多くを語っているのは、神ご自身です。アブラハムは神が語られる御言葉に従っています。そこにアブラハムの信仰があります。そのようなアブラハムが神に向かって積極的に語り、自分の思いをぶつけているのが、今日の場面です。「アブラハムの執り成し」と言われています。「アブラハム物語」の中で、重要な場面です。
(2)創世記18章16節以下はこういう御言葉から始まっています。「その人たちはそこをたって行き、ソドムの方面を見下ろした。アブラハムは彼らを見送るために一緒に出かけて行った」。
「その人たち」とは、18章1節以下で登場した、アブラハムとサラを訪問した三人の旅人です。神と主の御使いです。三人の旅人が次に向かった先は、ソドムです。アブラハムの甥のロトとその一族がいる町です。
17節「その時、主は言われた。『私は、これから行おうとしていることをアブラハムに隠しておいてよいだろうか。アブラハムは必ずや大いなる強い国民となり、地上のすべての国民は彼によって祝福される。私がアブラハムを選んだのは、彼がその子らとその後に続く家族の者たちに命じて、彼が正義と公正を行い、主の道を守るようにするためであり、主がアブラハムに約束されたことを成就するためである』」。
「アブラハムの物語」の冒頭の言葉、アブラハムの召命の言葉が再び語られます。アブラハムは「祝福の基」となり、アブラハムを通して地上の全ての民族が祝福される。アブラハムに続く家族の者たちは、正義と公正を行い、主の道を歩む。主はアブラハムに約束されたことを成就する。子孫の祝福と土地の賦与です。しかし、更に重要なことは冒頭の言葉です。神がこれから行おうとすることを、アブラハムに隠しておいてよいだろうか、と神が語られていることです。その内容が20節で語られます。
20節「そして主は言われた。『ソドムとゴモラの叫びは実に大きく、その罪は極めて重い。さあ、私は下って行って、私に届いた叫びのとおり、彼らが確かに行っているかどうかを見て確かめよう』」。
「ソドム」という地名から「ソドムをする」という言葉が生まれました。神に背き、不品行を象徴する言葉となりました。神は不品行の叫びを聴き、降って行って、見て確かめられます。これと同じ言葉が出エジプトの出来事でも語られます。出エジプト記3章8節「私は下って行って、私の民をエジプトの手から救い出し」。「低きに降る神」が語られます。
2.50人の正しい人がいても、その町を赦さず、滅ぼされるのですか
(1)22節「その人たちはそこからソドムの方へ向かって行った。しかしアブラハムはなお主の前に立っていた」。
主の前に立つアブラハム。主の御心を祈り、尋ね求める姿勢です。そこからアブラハムの執り成しが生まれます。神とアブラハムとの一対一の緊迫した祈りの対話です。
23節「アブラハムは進み出て言った。『あなたは本当に、正しい者を悪い者と共に滅ぼされるのですか』」。
主の前に立つアブラハムは、主に向かって一歩進み出て、問いかけます。アブラハムの祈りの中心にあった問いかけです。神が義なる神であられるのなら、正しい者を悪い者と共に滅ぼされるのですか。後に「神義論」と言われ、歴史の中で繰り返し神に問いかける言葉となりました。ヨブの叫びでもあります。「何故、正しい者が苦しみ、悪人が栄えているのか」。
24節「もしかすると、あの町の中には正しい人が50人いるかもしれません。その中に50人の正しい人がいても、その町を赦さず、本当に滅ぼされるのでしょうか。正しい者を悪い者と共に殺し、正しい者と悪い者が同じような目に遭うなどということは、決してありえません。全地を裁かれる方が公正な裁きを行わないことなど、決してありえません」。
主の前に立ち、進み出て、執り成すアブラハム。アブラハムの召命に根ざす行為です。祝福の基として、アブラハムを通して地上の全ての民族が祝福されると、主は約束された。それ故、アブラハムは地上の全ての民を代表して、主の前に立ち、執り成しているのです。神が義なる神であるならば、公正な裁きを行われるはずです。正しい者を悪い者と共に殺し、正しい者と悪い者が同じような目に遭うことなど、決してあり得ません。
26節「主は言われた。『もしソドムの町の中に50人の正しい者がいるなら、その者のために、その町全体を赦すことにしよう』」。
アブラハムの必死の執り成しが、神からこのような言葉を導き出します。「もしソドムの町に50人の正しい者がいるなら、その者のために、町全体を赦す」。
(2)しかし、アブラハムはこの神の答えに満足しません。更に、アブラハムの問いかけは行われます。
27節「塵や灰にすぎない私ですが、あえてわが主に申し上げます。もしかすると、50人の正しい者に5人足りないかもしれません。それでもあなたはその5人のために、町全体を滅ぼされるのでしょうか」。
主の前で、「塵や灰に過ぎない私」である。それはアブラハムが十分に承知していることです。しかし、敢えてわが主に申し上げたいことがあります。ソドムの町に50人の正しい者はいないかもしれない。50人の正しい者に5人足りないかもしれない。それでも主はその5人のために、町全体を滅ぼされるのですか。
「塵や灰に過ぎない私」。同じ言葉をヨブが用いています。義しい者が何故、苦しむのか。そのヨブの問いかけに、最後に神は現れ、語られました。42章4節「聞け、私が語る。私が訪ねる。あなたは答えよ」。神に問いかけていたヨブが逆に、神から問われる。その時、ヨブの口からこのような言葉が生まれました。「私は耳であなたのことを聞いていました。しかし今、私の目はあなたを見ました。それゆえ、私は自分を退け、塵と灰の上で悔い改めます」。アブラハムは「わが主よ」と呼びながら、神にすり寄り、問いかけます。
主は答えられます。28b節「すると主は言われた。『もしそこに45人いるとすれば、私は滅ぼしはしまい』」。
しかし、アブラハムはまだ主の言葉に納得しません。一歩また一歩と神にすり寄り問いかけます。
29節「彼はなおも重ねて主に語りかけた。『もしかすると、そこには40人しかいないかもしれません』。すると主は答えられた。『その40人のために、私は何もしない』」。
しかしなお、アブラハムと神との真剣勝負は続きます。一人に人間の救いが懸かっているからです。
30節「彼は言った。『わが主よ、こう申し上げてもどうかお怒りになりませんように。もしかすると、そこには30人しかいないかもしれません』。すると主は答えられた。『もしそこに30人いるなら、私は何もしない』。彼は言った。『あえてわが主に申し上げます。もしかすると、そこには20人しかいないかもしれません』。すると主は答えられた。『その20人のために、私は滅ぼしはしない』。彼は言った。『わが主よ、もう一度だけ申し上げても、どうかお怒りになりませんように。もしかすると、そこには10人しかいないかもしれません』」。
「わが主よ」と信頼しつつ、しかし重ね重ね主に問いかけることは、不遜であるとこと知りつつも、なお問いかけます。「もう一度だけ申し上げます。どうかお怒りになりませんように」。
32b節「すると主は答えられた『その10人のために、私は滅ぼし葉しない』。主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムは自分の住まいに帰って行った」。50人の正しい人から始まって、最後にはこの答えを神から導き出しました。「10人の正しい人のために、私は滅ぼさない」。
3.一人の義しい者ために、私は滅ぼさない
(1)アブラハムは主の答えに満足したでしょうか。ソドムの町に、10人の正しい人もいないかもしれない、という不安があったことでしょう。アブラハムは更に問いたかったでしょう。「一人の義しい者がいても、この町を滅ぼすのですか」。神への究極的な問いかけです。
伝道者パウロはローマの信徒への手紙3章10節以下で語ります。「正しい者はいない。一人もいない」。詩編14編3節の御言葉です。アブラハムの問いかけを、パウロは受け継ぎます。パウロは語ります。5章18節「そこで、一人の過ちによってすべての人が罪に定められたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」。
ただ一人の義人によって、全ての人が義とされる。「ただ一人の義人」こそ、主イエス・キリストです。主イエスは十字架上で、アブラハムの問いかけを受け継ぎます。私ども罪人のために執り成すのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23・34)。
(2)「アブラハムの執り成し」に匹敵するのは、「モーセの執り成し」です。出エジプト記32章34節「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分のために金の神々を造ったのです。今もし彼らの罪をお赦しくださるのであれば・・・。しかし、もしそれがかなわないなら、どうぞあなたが書き記した書から私を消し去ってください」。このモーセの執り成しこそ、十字架の主イエスの執り成しで極まるのです。詩編106編23節「主は言われた。『彼らを滅ぼそう』と。しかし、主に選ばれたモーセは、主の前で破れ目に立ち、滅ぼそうとする主の憤りをそらせた」。破れ目に立つモーセの執り成しは、十字架という破れ目に立たれた主イエスの執り成しにより、頂点に達したのです。
4.御言葉から祈りへ (1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳)8月12日の祈り イザヤ25・4
「主よ、われらの神よ、あなたはわれらの強き力、われらの盾です。われらの心はあなたによってのぞみを抱きます。そしてわれらに助けが与えられたのです。もろもろの大きな民の間にあってあなたに仕えようとするひとつの民として、われらを守ってください。われらがあなたの名を説教し、あなたについて証しすべきときには、あらゆる方法でためされ、地上で多くのことが困難になろうとも、われらの心を強めてください。あなたは力強い方です。われらを守ることができる方です。光で持たしてくださる方です。そしてわれらはくりかえし新鮮に、よろこびをもって救いを宣べ伝えることができるのです。救いは主イエス・キリストにより、あなたの全能の慈愛とあわれみによってもたらされるのです。アーメン」。
