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2024年7月3日

「ヘブライ人への手紙を黙想する6~『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい~」

ヘブライ人への手紙3章7~19節

牧師 井ノ川勝

1.今日こそ、主の声に聞き従わなければならない

(1)ヘブライ人への手紙の特徴の一つは、礼拝において語られた説教であることです。説教は聖書を説き明かします。それが現れているのが今日の御言葉です。最初の教会の聖書は旧約聖書です。旧約聖書の御言葉が朗読され、説教者がその御言葉を説き明かしています。聖書の御言葉を朗読する時に、説教者はこう語っています。7節「だから、聖霊がこう言われているとおりです」。「だから」というのは直前の御言葉を受けています。3章6節「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです」。教会とは何か。それを明確に言い表した言葉です。この主題を明らかにするために、旧約聖書の御言葉を引用いたします。その時に、「聖霊がこう言われている」と語ります。言い換えれば、「神は私どもにこう語られている」。礼拝においては、私どもが聖書を読むのではなく、神が私どもに御言葉を語りかけておられる。神の声、聖霊の声を聴くのです。

 7~11節でこう引用されています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。荒れ野であなたたちの先祖は、わたしを試み、験し、四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して、憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった』。そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息に、あずからせはしない』と」。モーセに導かれてエジプトから脱出した神の民イスラエルが、荒れ野の40年の旅を続けている時に行った決定的な出来事です。出エジプト記17章1~7節、民数記20章1~13節の御言葉です。ところが説教者は詩編95編7~11節の御言葉を引用します。詩編は何よりも礼拝で祈られ、歌われて来ました。出エジプトの出来事、荒れ野の40年の出来事が、詩編として歌われて受け継がれて来ました。

 

(2)詩編95編を引用した大きな理由は、説教者が説教で強調したい御言葉があったからです。「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない」。今日、神の御言葉が語られ、聴いたならば、明日に延ばすことは出来ない。今日、主に従わなければならない。この手紙は「ヘブライ人への手紙」と呼ばれています。「ヘブライ人」という名称は、エジプト人がつけたあだ名です。「さまよい歩く者」「土地を持たず旅する者」。その名称はイスラエルの民だけでなく、教会に連なるキリスト者に向かって語りかけています。この手紙の主題は「天の故郷を目指し地上の荒れ野を旅する神の民」です。荒れ野でのイスラエルの民の姿は、私どもキリスト者の姿でもあるからです。荒れ野でイスラエルの民が神に執った態度は、「かたくな」でした。荒れ野でイスラエルの民は神に向かって不平を述べ、呟きました。「エジプトでは肉のたくさん入った鍋を食べ、パンを腹いっぱい食べられた。何故、こんな荒れ野に導かれたのか」。「我々に飲み水を与えよ」。イスラエルの民は荒れ野で神に反抗し、神を試しました。神が荒れ野にパンや水を備える真の神であるかどうか試しました。

 それに対し、神は「あなたがたは何と頑なな民なのか」と嘆かれました。神は憤って語られました。「彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった。彼らを決してわたしの安息に、あずからせはしない」。エジプトを脱出して、安息の地に入るまで、何故、40年もかかったのでしょうか。イスラエルの」民が神に対し頑なであったからです。「40年」は世代交代が起こる年数です。エジプトを脱出した時の第一世代は、モーセを筆頭に安息の地は入ることは許されませんでした。

 

2.「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい

(1)説教者は荒れ野のイスラエルの民の頑なさを語りながら、同時に、「兄弟たち」と教会員に向かって語りかけます。12節「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように」。天の故郷を目指し、地上という荒れ野を旅する神の民・教会の中から、生ける神から離れる者がないように注意しなさいと呼びかけています。荒れ野は様々な試練が襲い掛かるところです。生ける神を見失ってしまうところです。神の言葉を柔らかな心で聴けず、頑なな心で跳ね返してしまうところです。ローマ帝国の迫害の時代、信仰の旅路から脱落する教会員が多くいました。それは今日の教会が直面している課題でもあります。

それ故、説教者は語りかけます。「あなたがたのうちにだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」。神の御言葉を今日、聴く。それは自分のためにだけ聴くのではありません。信仰の仲間のためにも聴くのです。それ故、説教者は語ります。御言葉を聴いた「今日」という日のうちに、御言葉によって日々励まし合いなさい。教会はと共に励まし合い、慰め合う交わり、慰めの共同体です。

14節「わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです」。

「最初の確信」。この手紙が強調することです。2章6節で語られ、11章1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。信仰の「確信」は自分の中から生じるものではありません。主から与えられるものです。信仰の確信とは、キリストに連なる者となることです。「キリストに与る者」とされることです。洗礼を受けた頃、私どもの心は柔らかでした。柔らかな心で主の御言葉を喜んで聴き、受け入れました。ところが信仰生活が長くなりますと、柔らかな心が頑なな心に変わり、主の御言葉を素直に受け入れられなくなります。御言葉を聴いても、心が動かなくなります。鈍感になります。最初の確信を最後までしっかりと持ち続ける。地上の信仰の歩みが終わるまで、最後までキリストに連なり、信仰の確信を持ち続ける。これは説教者の切実な祈りです。そのために、御言葉を聴いた今日のうちに、日々励まし合うのです。

 

(2)15節「それについては、次のように言われています」。説教者は再び、詩編95編の冒頭の御言葉を引用します。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」。

 16節「いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセが指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです」。説教者はたたみかけます。「いったいだれが」「@いったいだれに対して」。荒れ野の40年の旅で心を頑なにしたイスラエルの民だけでなく、今、荒れ野の旅をしている教会員に向かって語りかけているのです。

 

3.賛美のいけにえを捧げて歩む荒れ野の旅

(1)この手紙の主題は、「天の故郷を目指し、地上という荒れ野を旅する神の民・教会」です。11章13~16節で語られ、13章12~15節で語られます。地上を旅する神の民の先頭に立たれるのが、40日40夜、悪魔の誘惑を受けられた主イエス、信仰の創始者であり完成車である主イエスです。

「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来たるべき都を探し求めているのです。だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう」。

 主イエスは大祭司として自らを犠牲の小羊となって、十字架でいのちを献げ、その血で私どもの頑なな罪を贖い、聖なる者、キリストに連なるものとして下さったのです。天の故郷へ通じる神の道を荒れ野に拓いて下さったのです。私どもは賛美のいけにえ、主の御名をたたえる唇の実、賛美を捧げながら、荒れ野の旅を歩んで行くのです。

 

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 7月3日の祈り フィリピ1・6

「愛しまつる在天の父よ、われらはあなたがしてくださるみわざを感謝します。あらゆる種類の人間を通じ、あらゆる職業において、あたがた善きものを与えてくださった多くの心によって、あなたはみわざをなしてくださいます。われらは、あなたの大いなるわざのゆえに感謝します。その頂点には主イエスがおられます。主は忍耐と柔和をもってこの世を克服されます。主は、すべての者が、貧しい者のうちで最も貧しい者が、在天の父であるあなたのもとに至れるように、扉を広く開いてくださるのです。われらが光を持つその限り、われらが常に確固とした者であり得ますように。試みにあわせず、悪より救い出してください。国と力と栄えとは永遠にあなたのものだからです。アーメン」。

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