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2024年5月29日

「ヘブライ人への手紙を黙想する1~この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました~」

ヘブライ人への手紙1章1~4節

牧師 井ノ川勝

1.慰めの言葉・説教

(1)本日よりヘブライ人への手紙を黙想します。この手紙を選んだ理由は、ヨハネの黙示録と同様、旧約聖書の引用が多いことです。10年掛けて、旧約聖書の御言葉を黙想して来ました。旧約聖書の御言葉を土台として新約聖書の御言葉が成り立っていることを証ししています。ヨハネの黙示録は「小羊キリスト」を証ししていましたが、ヘブライ人への手紙は「大祭司キリスト」「執り成しのキリスト」を証ししています。私ども教会の信仰は、キリストへの信仰を日々新たにし、明確にすることが生命線です。キリストへの信仰が生き生きとしたものとならず、不明確になりますと、信仰の足腰が弱まって行きます。

 ヘブライ人への手紙と呼んでいますが、伝道者パウロの手紙と比べると、その違いが分かります。手紙の冒頭で、誰が誰に宛てたのか、挨拶、祝福の言葉が記されていません。いきなり本文に入っています。手紙の形を採っていません。結びをみますと、こうあります。13章22節「兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください」。この文章を「勧めの言葉」と呼んでいます。「慰めの言葉」という意味です。教会員、キリスト者を慰めるために書かれたのです。それとの関連で、使徒言行録13章14節をご覧下さい。伝道者パウロの第一回伝道旅行の記述です。「パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、『兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください』と言わせた」。最初の教会の礼拝の姿が明らかにされています。「励ましの言葉」は、同じ「慰めの言葉」です。説教を「慰めの言葉」と呼んでいました。「慰め」という言葉は、「傍らに呼んで呼吸をさせる」という意味です。ヘブライ人への手紙が「慰めの言葉」と称されているということは、「説教」であったということを意味しています。最も古い礼拝の説教、それがヘブライ人への手紙です。しかも一回の礼拝で語られた説教です。ある方が一体どのくらいの時間が掛かったのが朗読したら、1時間掛かったそうです。1時間の説教です。今日、1時間の説教をしたら、会衆から苦情が出るかもしれません。しかし、最初の教会の人々は喜んで聴いたのです。

(2)ヘブライ人への手紙という名称が付けられています。「ヘブライ人」という言葉は、イスラエルの民がエジプトで奴隷であった時に、揶揄して呼んだ名です(出エジプト記1・15)。「土地を持たず、さまよい歩く者」という意味です。ヘブライ人への手紙はイスラエルの民だけに語った御言葉ではありません。11章13節「この人たちは皆、信仰を抱いて死にましたが、約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです」。「ヘブライ人」とは、天の故郷を目指し、地上を旅する教会を表しています。誰が書いたのかは分かりません。とても美しい文体で綴られています。紀元90年頃に書かれたと言われています。ローマ帝国迫害の時代、全てのキリスト者に向かって慰めの言葉・説教を届けたのです。

2.御子を賛美する信仰

(1)説教の冒頭は、御子への信仰に集中しています。「御子」という言葉が繰り返されています。「イエス」という言葉が登場するのは、2章9節です。「御子」と呼ぶ時は、神であるキリストを意味し、「イエス」と呼ぶ時は、人となられたキリストを意味しています。1~4節は、最初の教会が礼拝で歌った讃美歌ではないかと言われています。御子を賛美する讃美歌です。ローマ皇帝を神として崇めていた時代、御子こそ神であるとの信仰を讃美歌で言い表したのです。素晴らしい讃美歌です。

 日本で最初の信仰告白は、1890年(明治23年)の「日本基督教会信仰の告白」でした。この年には「教育勅語」が制定され、前年には「大日本帝国憲法」が発布されました。天皇を神と崇める法的な枠組みにより、日本国の形が構築される中で、信仰の告白の冒頭でこう告白しました。「我等が神と崇むる、主耶蘇基督は、神の独子にして」。キリストこそ神、御子への信仰を明確にする教会を形造ろうとしたのです。

(2)説教がどういう言葉で始まるのかは大切なことです。冒頭の言葉が重要です。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。「神は語られた」で始まっています。これは旧新約聖書に一貫する信仰です。神は私どもに語りかける神である。ここに聖書が証しする神のお姿があります。私どもが神に語りかける前に、神は私どもに語りかけられる。神の語りかけ、神の言葉を聴くことが、私どもの信仰の原点です。伝道者パウロも語っています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10・17)。

 神はかつて、旧約の時代、預言者たちによって、多くのかたちで、多くのしかたで先祖に語られた。神に立てられた様々な預言者が、律法、神殿、幻、夢、自然現象を通して、神の言葉を語って来た。「しかし、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。御子キリストの来られたことにより、神の国が突入し、終末が突入しました。「この終わりの時代」とは、御子が到来した時代、新約の時代を意味しています。新約の時代、神は御子によって私たちに語りかけられた。「御子によって」。この一点が重要です。神の言葉の扇の要です。神は御子によって、神の言葉を語られた。

3.御子の創造、救済、統治

(1)「神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました」。御子への信仰が豊かな言葉で、整った言葉で言い表されています。「御子は万物の相続者」。「相続者」は「受け継ぐ」という意味です。聖書が重んじる言葉です。信仰の父アブラハムは神の祝福、神の土地を受け継ぐために旅立ちました。御子が受け継ぐ万物は、神が創造された全てでもあり、神がなされる全ての御業でもあります。しかも御子が万物の相続人であることは、御子によって神の子とされた私どももキリストと共同の相続人(ローマ8・17)であるのです。御子にあって神の祝福を受け継ぐ者とされているのです。

 「神は、御子によって世界を創造されました」。御子も天地創造の御業に参与されている信仰は、コロサイの信徒への手紙1章15~17節でも語られます。「万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」。ヨハネ福音書1・3.「世界」は「代々」とも訳せる。神は御子によって代々新しい創造をされている。

 「御子は、神の栄光の反映であり」。主語が「神」から「御子」に移動しています。御子は神の栄光を映し出している。あるいは、神の栄光の輝きである。古代の教会の基本信条に「ニカイア信条」があります。御子への信仰を明確に言い表しています。「光よりの光」。御子キリストにおいて神を礼拝する信仰を表しています。『ウェストミンスター小教理問答』問1「人生の主な目的は何か」。「神の栄光をたたえ(あらわし)、永遠に神を喜ぶことです」。

 「神の本質の完全な現れであって」。「完全な現れ」は「刻印」という意味です。元々は貨幣に刻まれた印という意味。御子は父なる神の一部分ではなく、父なる神の全体の生き写しである。ここから神の「似姿」としての人間という信仰が生まれた。神の子とされた私どもは神、キリストを映し出す。

 「御子は、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます」。2節「神は御子によって世界を創造されました」と響き合っています。御子は万物を力ある言葉によって支え、支配されておられる。御子の言葉による統治です。

 「御子は、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」。御子の救いの御業は、何よりも人々の罪を清めること。「罪をきよめる」は、大祭司が犠牲のいけにえを捧げ、罪を清めるから生まれた。大祭司キリスト自ら犠牲のいけにえとなって十字架にかけられた。

 御子は今どこにおられるのか。天の高いところにおられる大いなる方の右の座にお着きになっている。ヘブライ人への手紙が強調する大祭司キリストの執り成しが序曲になっている。以上、御子が主語になって、御子の創造、御子の救済、御子の統治が語られている。しかも讃美歌として御子をほめたたえる言葉となっている。

(2)加藤常昭先生が作成された『雪ノ下カテキズ』は、ドイツ語では『日本のカテキズム』と訳された。その特色が問1に表れている。日本のプロテスタント教会の信仰の原点がここにある。「あなたが、主イエス・キリストの父なる神に願い求め、待ち望む、救いの喜びとは、いかなる喜びですか」。「私が、私どもを神の子としてくださる神からの霊を受けて、主イエス・キリストの父なる神を、『私の父なる神、私どもの父なる神』と呼ぶことができるようになる喜びです。神は、いかなる時にも変わらずに私の父でいてくださり、私の喜びとなり、誇りとなってくださいます」。ヘブライ人への手紙の冒頭の御子への賛歌は、『雪ノ下カテキズム』では御子キリストの父なる神への賛歌へと連なるのです。

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 5月29日の祈り エフェソ2・4~6

「主よ、われらの神よ、われらは感謝します。われらはみ力を経験することをゆるされています。われらはただこの世のことのみにかかずらうことなく、あなたの霊はくりかえしわれらを助け、ひき立たせてくださいます。どうぞそのようにしてわれらをお守りください。多くの心に、どのような恵みがわれらに与えられているかを感じとらせてください。この恵みによって、ここで、この過ぎゆく世界にあって、多くの愚かさのただなかで、われらの霊をたずさえたままに天上にあゆみ、確信に満ちてこういうことができるのです。われらを苦しめ、われらの労苦のたねであるすべてのものは過ぎ去る、それは過ぎ去っていく、そしてわれらはよろこびつつ、大胆に、ますます力を増すみ国に向かってあゆみゆくのだ、と。アーメン」。

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