1.あなたがたの耳が鈍くなっている
(1)ヘブライ人への手紙は礼拝で語られた説教だと言われています。説教を聴いている会衆の現実が見えて来ます。本日の最初の御言葉がそれを示しています。5章11節「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません」。「このことについては、話すことがたくさんある」。前回の御言葉の主題、「主イエスはメルキゼデクと同じ大祭司である」を受けています。メルキゼデクは創世記14章18節に登場した、アブラハムを祝福した祭司です。聖書の中で最初に登場した祭司です。主イエスがメルキゼデクと同じ大祭司であることは、話すことがたくさんあるが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、説明することが出来ない。「耳が鈍くなっている」。神の言葉を聴き取る耳。その耳が鈍くなっていることは、信仰の致命傷です。私どもを生かす命の言葉を聴き取れなくなれば、私どもの信仰は死んでしまいます。
(2)12節「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに」。この「教師」は伝道者ではありません。信仰生活が長く、信徒の信仰指導をする指導者です。「再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです」。幼児が乳から離乳食、固形物を食べて成長するように、信仰者も乳から固い食物を食べて成長します。神の言葉の初歩から神の言葉の深みへと進んで行かなければなりません。
13節「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」。「固い食物」を「義の言葉」と言い換えています。「善悪を見分ける感覚」「真理を見分ける感覚」を養う言葉です。神の言葉を聴いて、これは本物の真理だ、これは偽りの真理であると見分ける感覚を持たないと、信仰はこの世の現実に流されてしまいます。信仰者は一人前の大人となって成長する必要があります。教会は一人前の大人の集団として、この世に立ちます。
2.キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう
(1)6章1節「だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成長を目指して進みましょう」。「死んだ行いの悔い改め」。信仰が死んだものとならないように、神の言葉により絶えず悔い改める。「種々の洗礼についての教え」。洗礼を受けるために種々の準備の教育。「手を置く儀式」。洗礼式、伝道者、長老の按手。「死者の復活」「永遠の審判」。「使徒信条」で告白されている「体の甦り」「永遠の命」。「使徒信条」は洗礼準備教育のために用いられました。いつまでも基本的な教えを学び直す段階に留まらず、キリストの教えの初歩を離れ、信仰の成長を目指して進みましょう。
3節「神がお許しになるなら、そうすることにしましょう」。4節「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世とを体験しながら」。洗礼に与り、神の言葉によって神の国の恵みを味わう信仰生活をする。6節「その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません」。厳しい言葉です。当時、ローマ帝国の迫害に遭遇し、信仰を捨てた伝道者、信徒がいました。棄教した者たちを教会はどのように取り扱うかが大きな問題でした。棄教した者が再び悔い改めて立ち帰ることは、「神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」。キリストを再び十字架につけて侮辱することに繋がる。棄教した者、教会から離れた者が、悔い改めて教会に立ち帰る手順を、厳しく考えていたことを表す言葉です。今日でも、教会から離れていた者が再び礼拝に出席した場合、長老会で試問し、悔い改めを確認した上で、聖餐に与らせるという手順を執る改革派の教会もあります。
(2)7節「土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人びとに役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには抜かれてしまいます」。主イエスが語られた譬えです。マルコ4章1~20節。私ども信仰者が土に譬えられます。神の言葉の雨を吸い込み、豊かな信仰の実をならせます。しかし、茨やあざみという障害物が信仰の実をならせることを邪魔をします。信仰生活には絶えず試練がある。それ故、神の言葉を聴き分ける耳を養い、信仰の固い食物を噛み砕き、咀嚼する舌を持ち続ける必要があります。
3.信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となり
(1)9節「しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについても、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」。説教者は会衆に向かって、随分厳しい言葉を語りました。「信仰に堕落した者を再び悔い改めて立ち帰らせることはできません」。「しかし、愛する人たち」と呼びかけます。「愛する人たち」と呼びかけるのは、この手紙ではこの箇所だけです。直前では「彼らは」と三人称で語っていましたが、ここからは「あなたがた」と二人称で語りかけています。説教者の思いは会衆を審くことにあるのではなく、会衆を神の救いの深みへと導くことにあります。「わたしたちはあなたがたについても、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」。
10節「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたの聖なる者たちのために以前も今も仕えることによって、神の名のために示されたあの愛をお忘れになることはありません」。神は不義な方ではなく、義なるお方。ここに私どもの信仰の核心があります。「あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちのために以前も今も仕えることによって、神の名のために示されたあの愛を神はお忘れになることはありません」。「聖なる者たち」とは信徒たちです。信仰の足腰が弱っている者、教会の交わりから離れている者。そのような信仰の仲間を覚えて、神の名によって祈り、神の名によって愛を注いで来ました。その愛の業を義なる神はお忘れになることはない。教会は慰めの共同体です。愛をもって執り成して行く交わりです。信仰に挫折した者たちが悔い改めて神に立ち帰ることを祈る交わりです。
11節「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います」。「あなたがたがおのおのが最後まで希望を持ち続けるために」。この「希望」は神が与えて下さる希望です。ここに伝道者パウロも強調したキリスト者の信仰生活を導く、「信仰」「希望」「愛」が語られます。この「希望」については次回の13節以下の主題となります。神の希望は神から与えられた信仰を最後まで持ち続けることです。そのために熱心であってほしい。それは自分に与えられた信仰だけではなく、信仰の仲間に与えられた信仰においても最後まで持ち続けてほしい。そのことに熱心であってほしい。
12節「あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです」。「怠け者」という言葉は、5章11節の「耳が鈍く」の「鈍い」と同じ言葉です。信仰が怠惰は信仰の耳が鈍くなることです。「怠惰な罪」「怠慢の罪」が指摘されます。髙倉徳太郎の日記を読みますと、伝道者として「怠慢の罪」と以下に格闘していたかが分かります。説教でも教会員に向かって、信仰が怠惰にならないようにと繰り返し戒めています。私がキリストを掴まえるのではなく、キリストにむんずと掴まれることが肝要。そのために神の言葉を深く聴く信仰の耳を養い、神の言葉を深く味わう信仰の舌が必要である。
神から与えられた「信仰」「希望」「愛」に生きる。「希望」には「忍耐」が伴う。しかし、この「忍耐」は、歯を食いしばる忍耐ではなく、「待ち望む」という「忍耐」です。「あなたがたは怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者になってほしいのです」。この御言葉は11章13節以下の御言葉と響き合います。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分で故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです」。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 7月31日の祈り 詩編4・7
「主よ、われらの神よ、われらは心をつくしてみまえに立ちます。われらの心は、ことばと、慕いこがれる心と、信仰をもって常にみまえにあり、あなたがわれらのもろもろの問題を導いてくださるようにすべきです。われらの神であり父である方としてわれらをお守りください。危険におちこみそうになったり、すでにおちこんでしまっているすべての人を守ってください。死なんとする者の心にあなたの大いなる愛と啓示を告げてください。かくしてわれらの心をともに集めて、あなたのうちに、あなたに対する信仰と希望のうちに交わりを得させてください。どんな心にかかることがあっても休息を得るように、こよいもわれらを守ってください。なぜならば、ひとりびとりの心にかかることをも、あなたはみ手のうちに取られるからです。主なる神よ、われらの父よ、われら自身がみ手のうちにあるからです。われらはみ手のうちにとどまりたいと思います。み手はすべてをよくしうるのです。み名はほむべきかな!アーメン」。