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2024年10月23日

「ヘブライ人への手紙を黙想する20~信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること~」

ヘブライ人への手紙11章1~3節

井ノ川勝

1.わたしたちはひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者

(1)ヘブライ人への手紙は三つの説教から成り立っています。今、私どもが黙想しているのは第三の説教です。1第三の説教は10章32節~13章19節です。主題は「天の故郷を目指し、信仰をもって前進しよう」です。本日の11章以下は、「信仰」という言葉が集中して語られています。実に18回も用いられています。その冒頭にある御言葉は愛唱聖句とされている方が多くいます。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。この御言葉は直前の10章の御言葉を受けています。37節以下で、ハバクク書2章3~4節の御言葉を引用していました。10章37節以下「もう少しすると、来たるべき者がおいでになる。遅れられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない」。ここに既に11章以下の主題となる「信仰」が語られていました。「わたしの正しい者は信仰によって生きる」。この御言葉に注目したのは伝道者パウロです。ローマの信徒への手紙1章17節で引用しています。そしてこの御言葉に目を留めたルターが、「私どもが救われるのは、ただ信仰によってのみ」という福音を再発見し、宗教改革の口火となりました。

                                                             

(2)この手紙の説教者はハバクク書の中で、「信仰」と共に、それと対比している「ひるむ」という言葉に注目しました。しして10章39節でこう語りました。「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」。「ひるむ」ということは、恐れの中で心も体も縮こまることです。縮こまって後退りすることです。当時はローマ帝国の迫害の時代です。皇帝を神として拝まず、キリストを神として拝んでいたキリスト者を捕らえ、殺しました。主の日、礼拝を捧げることが命懸けでした。将に、ひるんで、縮こまって、後退りしてしまうような現実がありました。それ故、説教者は10章25節でこう語ったのです。「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう」、説教者は会衆に語りかけます。「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」。私どもキリスト者はひるんで、縮こまって、後退りする者ではない。信仰によって命を得る者です。「ひるむ」の反対は、説教者が繰り返し語る「大胆に」「憚ることなく」です。大祭司イエスの執り成しによって、大胆に、憚ることなく、恵みの座に近づくのです。

 

2.信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること

(1)この10章39節の御言葉を受けて、11章の冒頭の言葉が続くのです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。多くの方が愛唱聖句としている御言葉です。「信仰・希望・確信」が一つのこととして語られています。信仰とは、神が与えて下さる、約束された望みの事柄を確信すること。見えない事実を確認すること。約束された望みの事柄、見えない事実とは何でしょうか。「天の故郷」です。11章13節以下でこう語ります。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れていませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」。

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し」。「確信」というと、私どもの内にある確信と考えてしまいます。そうではなくて、神が与えて下さる確信です。聖書協会共同訳は11章1節の御言葉をこう訳しました。「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです」。訳が変わってしまったので、戸惑われた方が多くいます。こちらの方が元の言葉に即しています。「確信」を「実質」と訳しました。「本質」とも訳されます。この言葉はこの手紙の冒頭で語られていました。1章3節「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって」。御子は神の本質の完全な現れである。「本質」「実質」という言葉は「何かの下にある」という意味です。堅固な建物は地下の見えない地中の土台で支えられています。堅固な建物の本質、実質は、目に見えない地中の土台です。それ故、地震が起きても、揺るがない確信が与えられます。揺るがない「保証」が与えられます。「確信」は「保証」という言葉でもあります。神が保証して下さるのです。

 「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証することです」。「望んでいる事柄の実質」とは、大祭司イエスです。「見えないものを確証する」。大祭司イエスによって約束されている天の故郷です。大祭司イエスが十字架で、ただ一度自らのいのちを犠牲のいけにえとして捧げて下さったことにより、私どもは憚ることなく、天の故郷に近づくことが約束されているのです。

 

(2)10月31日は宗教改革記念日です。ルターが教会改革のための「95箇条の提題」を発表しますと、大きな反発がありました。ルターの命を狙う者も現れました。ルターは幽閉され、ワルトブルグ城で短時間で、新約聖書をドイツ語に翻訳しました。民衆に分かる母国語に翻訳しました。ルターが最後まで迷っていたのが、11章1節の御言葉だと言われています。中世以来の訳は、「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって」。しかし、ルターはこう訳しました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し」。ルターの宗教改革、「信仰のみ」を支える訳となりました。

 

3.見えるものは、目に見えないものでできている

(1)「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。信仰の主題です。説教者は信仰を理屈で説明しようとはしません。理論的に説明しようとはしません。信仰は理屈ではないからです。理論ではないからです。2節「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」。説教者は信仰に生きた実際の信仰者たちを紹介します。それが4節以下で語られる「信仰者列伝」です。「信仰によって」生きた人たちです。アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、預言者たちです。信仰の父と呼ばれるアブラハムからではなく、カインに殺されたアベルから始まり、次にエノクが登場する興味深い「信仰者列伝」です。「信仰の証人」とも言えます。実際、12章の冒頭でこう語られています。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上」。信仰とは日々の生活の中で、証しに生きることです。

 

(2)3節「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」。この御言葉の背後にあるのは、創世記1章の冒頭の御言葉です。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』。こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた」。神の言葉による天地創造です。目に見える天地万物、世界は、目に見えない神の言葉によって創造され、支えられている。現代人は目に見えるものこそ確かであると確信します。しかし、見えるものは、目に見えない神の言葉で創造され、支えられているのです。目に見えない神、大祭司イエスを仰ぎ見ながら、神の言葉に聴き従い、信じて歩むのです。

 宗教改革者は、聖餐は「目に見える神の言葉」、説教は「目に見えない神の言葉」であると語りました。礼拝はこの二つの神の言葉であり、実際は一つの神の言葉で成り立ちます。カルヴァンは語りました。「目に見える神の言葉」・聖餐は、「目に見えない神の言葉」・説教に支えられる。説教なしの聖餐は、魔術、呪術に陥る。ローマ・カトリック教会への批判です。「見えるものは、目に見えないもので支えられている」。聖餐の信仰がここにあります。

 詩編119編130節「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」。御言葉が開かれると光が射し出で、「神の本質」である大祭司イエスが現れ、私どもを捕らえて下さるのです。

 

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 10月23日の祈り コリント二1・5

「主よ、われらの神よ、あわれみ深き父、すべての慰めの神よ、あなたはいかなる艱難の中にいる時でもわれらを慰めてくださいます。われらは感謝します。あなたはわれらの苦難をも生命の道としてくださいました。われらはすべてのことにあって大胆に、感謝していることがゆるされています。あなたはまさにわれらにとっては困難なものの中でも最善をなしうる方だからです。み名がたたえられますように。死と罪を貫いてひとつの道がわれらに与えられています。いっさいの禍いを貫いて祝福の道が与えられているのです。それゆえにみ名はほむべきかな!アーメン」。

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