1.信仰を生きる
(1)ヘブライ人への手紙11章はこういう御言葉から始まっていました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。信仰とは何を明確に言い表している御言葉です。信仰とは、主から与えられた希望の事柄を確信し、見えない事実を確認することです。「主から与えられた希望の事柄」「見えない事実」とは、13節以下で語られています。「主から約束されたもの」「天の故郷」です。
この手紙の説教者は信仰とは何かを理論的に展開しません。具体的に語ります。信仰とは理論ではなく、具体的に生きるものだからです。2節で「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」とあります。地上を生きた具体的な信仰者の姿を語ります。旧約の時代に登場した信仰者たちです。信仰者列伝と呼ばれるものが、4節以下で語られます。信仰に生きた証人の姿です。13節でこうあります。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。
11月3日、逝去者記念礼拝を捧げ、教会墓地で墓前祈祷会、納骨を行いました。墓碑に刻まれた一人一人は、金沢教会143年の歴史を生きた信仰者列伝です。私どもには信仰を模範とする信仰の証人がいるのです。その信仰の姿を見ながら、私どものその信仰の跡に続くのです。
(2)4節以下で、信仰者列伝が語られます。ここには実に、「信仰によって」という言葉が23回も繰り返されています。それだけでなく、「信仰」「信じる」という言葉が繰り返し語られます。私どもが信仰に生きるとはどういうことかを問う時に、立ち戻るべき御言葉です。旧約の時代を生きた信仰者列伝として挙げられている人物は、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、エジプトを脱出したイスラエルの民、娼婦ラハブです。更に、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、預言者たちの名が挙げられています。旧約聖書を代表する信仰者たちです。しかも自分たちにとって遠い存在ではなく、親しいおじいちゃん、あばあちゃん、おじさん、おばさんとして生き生きと語っています。
2.信仰によって、アベルは
(1)信仰者列伝でまず挙げられている3名は、アベル、エノク、ノアです。しかも、兄カインに殺されたアベルから始まっています。これは意外なことです。私どもだったら人類の最初に立つ信仰者ノア、信仰の父アブラハムから語り始めるのではないでしょうか。何故、アベルからなのでしょうか。アベル、エノク、ノアなのでしょうか。何よりも創世記に登場した順番に語っていると言えます。私どもが見落としてしまうアベル、エノクを採り上げ、この人たちも信仰に生きたのだと語りたかったのだと思います。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。アベルも、エノクも、この信仰に生きたのです。
最初に登場するのは、アベルです。4節「信仰によって、アベルはカインよりも優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています」。アベルが登場するのは、創世記4章です。アダムとエバの二人の息子が、カインとアベルです。兄のカインは土を耕す者、弟のアベルは羊を飼う者となりました。それぞれが収穫の実り、初物を神に献げました。ところが、主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められませんでした。カインは激しく怒って顔を伏せました。そして弟アベルを殺してしまいました。人類最初の家族に起こった殺人事件が、兄弟殺しです。しかし、創世記は主が何故、アベルとその献げ物に目を留められ、カインとその献げ物に目を留められなかったのは語っていません。
しかし、この手紙の説教者はカインとアベルの物語を、このように受け留めています。「信仰によって、アベルはカインよりも優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい物であると証明されました」。アベルはカインよりも優れたいけにえを神に献げた。その優れたものは何か。それは「信仰によって」であると受け留めています。この物語で注目すべきは、アベルはひと言も語っていないことです。アベルの血が土の中から主に向かって叫んでいるだけです。しかし、その叫び声の内容も語られていません。アベルがしたことは、羊の初子を神に献げただけです。そこに信仰を見ています。この手紙の説教者はカインは死んでも、土の中からでも、信仰によって語っている、信仰の叫びを上げていると受け留めています。
(2)主がアベルとその献げ物には目と留められ、カインとその献げ物には目を留められなかった時、カインは激しく怒って顔を伏せました。しかし、主は怒って顔を伏せたカインだけには語りかけました。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」。あなたが信仰をもって献げ物をしたのなら、顔を上げて息なさいと、主は語られます。信仰とは主への信頼です。たとえ主から顧みられない現実であっても、主を信頼し、顔を上げて生きなさいと、主は語られます。アベルは信仰によって、主を信頼して、主に献げ物をして生きました。カインが主に信頼していたら、一度主に顧みられないということで、弟アベルを殺すことはなかったではないか。
3.信仰によって、エノクは、ノアは
(1)次に登場するのは、エノクです。5節「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」。エノクが登場するのは創世記5章です。「アダムの系図」が記されています。アベルが死んだ後、アダムにはセトが与えられました。アダムから数えて七代目がエノクです。21節「エノクは65歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」。「アダムの系図」は、他の人物はこういう言葉で結ばれます。「セトは九百十二年生き、そして死んだ」。ところが、エノクだけはこう記されます。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」。死んだとは記されていません。「神が取られたのでいなくなった」。このことから、エノクは死を経験しないで、生きたまま神の御許に引き上げられたと受け留められて来ました。生きたまま神の御許に引き上げられたのは、預言者エリヤとエノクだけです。その意味で特異な存在です。
この手紙の説教者は語ります。「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくささる方であることを、信じていなければならないからです」。エノクは何よりも神と共に歩みました。信仰によって、神に喜ばれて生きました。「神に近づく者」、この手紙の説教者が強調することです。信仰とは神に近づくこと。大祭司イエスの執り成しを受けて、憚ることなく神に近づき、礼拝し、祈りを捧げる。神に近づく者は、神が存在し、生きておられることを信じている。神は御自分を求める者たちに報いて下さる、祈りに応えて下さることを信じている。エノクはこの信仰に生きた。
(2)三番目に登場するのは、ノアです。7節「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」。ノアが登場するのは、創世記6~9章です。5節「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に計っていることを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」。それ故、主は、神に従う無垢、真っ直ぐな人、神と共に歩んだノアに、箱舟を造ることを命じられた。大地は洪水が起こり、人々は洪水に呑み込まれてしまいました。しかし、箱舟に入ったノアとその家族は救われました。この手紙の説教者はノアの信仰をこう語っています。「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」。
洪水が止み、ノアが箱舟を出て真っ先にしたことは、主のために祭壇を築き、焼き尽くす献げ物を捧げました。主を礼拝しました。主は宥めの香りをかいで、こう語られました。8章21節「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度としまう」。主は人類を代表するノアとの間に、虹の契約、永遠の契約を結ばれました。虹を見る度に、私どもは主の決意を知るのです。「わたしは人に対して大地を呪うことは二度とすまい」。それが信仰に基づく義を受け継ぐ者とされたことです。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルーハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 11月6日の祈り イザヤ25・7~8
「主なる神よ、み国は来ます。あなたの助けはわれらのところに来ます。われらはどんなに苦しくても、あなたを仰ぎのぞみます。あなたは約束を与えてくださいました。われらの事情はなおよくなるのだということを、地上においてもあなたの民は生き、忍耐とよろこびを持ってあなたを待つ力を持つのだということを、主よ、われらの神よ、み手をわれらに置いてください。あなたの救い主としての力を、われらに明らかにしてください。あなたはわれらに必要なものをご存じです。ひとりびとりの心のうちを見ぬかれます。そしてすでに語ってくださったとおりに、われらを助けることができる方なのです。それゆえにわれらを祝福し、われらを助けてください。われらの間にあってみ名が崇められ、み国が来たり、み心が天に行なわれるごとく地にも行なわれるようにしてください!アーメン」。