1.信仰によって、アブラハムは
(1)ヘブライ人への手紙11章は「信仰とは何か」を語ります。その時、信仰を理論で語るのではなく、実際に信仰に生きた方々を紹介します。信仰とは生きる姿勢であるからです。ここで紹介されている信仰者は旧約の時代を生きた信仰者です。これらの信仰者には共通している信仰があった。それが13節以下で語られていました。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。16節「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」。これらの信仰者は皆、天の故郷を仰ぎ見ながら、地上では旅人、寄留者として生きたのです。「天の故郷」を仰ぎ見ながらという信仰を、12章1節では更に明確に語ります。「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。大祭司イエスが十字架で自らを犠牲の小羊として献げて下さったことにより、天の故郷への道が拓かれ、憚ることなく近づくことが赦されたのです。それ故、信仰の創始者、完成者であるイエスを仰ぎ見ながら、地上では旅人として生きる。それが私どもの信仰であると、この手紙の説教者は語るのです。
(2)11章4節以下で「信仰者列伝」として紹介されたのは、4節以下ではアベル、エノク、ノアでした。8節以下ではアブラハム、サラが紹介されていました。本日の17節以下ではアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフが紹介されています。更に、23節以下ではモーセ、エジプトを脱出し、約束の地に足を踏み入れた神の民イスラエル、娼婦ラハブが紹介されています。全ての人物の冒頭に、「信仰によって」という言葉が語られます。
17節以下で、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの信仰を語りますが、いずれも「死に臨む信仰」を語ります。17節「信仰によってアブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。創世記22章のイサク奉献の出来事です。アブラハム最大の試練でした。神から与えられた独り子イサクを燔祭の小羊として自らの手で神に献げなければなりませんでした。18節「この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました」。イサクを「独り子」と呼んで、強調しています。独り子イサクを神に献げることは、「あなたの子孫を空の星のように、海辺の砂のように与えられる」という神の約束が実現しないことを意味していました。しかし、神は「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」(創世記21・12)と確かに約束されていました。女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルが跡取り息子ではないということです。
19節「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」。驚くべき言葉です。アブラハムは自らが献げる独り子イサクを、神が死者の中から生き返らせることもお出来になると信じていたというのです。アブラハムは復活信仰に生きていた。アブラハムも信仰の創始者、完成者であるイエスを仰ぎ見ながら生きていたからです。創世記22章において、アブラハムは独り子イサク、若者を連れ、薪をろばの鞍に置き、モリヤの山へ向かいました。麓に着いた時、アブラハムは若者に言いました。5節「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝して、また戻ってくる」。息子と一緒に戻って来ると約束しました。また、イサクから「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と尋ねられた時、アブラハムは答えました。8節「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」。「神が必ず備えて下さる」。この言葉は「摂理の信仰」となりました。更に、ヘブライ人への手紙の説教者は、「復活信仰」を見ているのです。この手紙の終わりは「羊の大牧者の祝福」で結ばれています。13・20~21。復活信仰が語られています。
2.信仰によって、モーセは
(1)20節「信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました」。イサクには、エサウとヤコブという双子の兄弟が与えられました。長子の特権を巡って、エサウとヤコブは争うことになりますが、イサクは二人の将来のために祝福を祈りました。そこにイサクの信仰を見ています。ヤコブはイスラエル民族の父、エサウはパレスチナ人の父となります。
21節「信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました」。創世記49章で、ヤコブは死を前にして、12人の息子を祝福しています。後のイスラエル12部族の原形です。ヨセフの息子たちは「マナセとエフライム」です。創世記49章38節で、ヤコブの最期をこう語ります。「ヤコブは、息子たちに命じ終えると、寝床の上に足をそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた」。ヘブライ人への手紙の説教者はそれをこう語りました。「杖の先に寄りかかって神を礼拝しました」。「杖の先に寄りかかる」とは、神に全てを委ねる信仰を表しています。
22節「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨についての指示を与えました」。ヤコブの末息子ヨセフは兄たちの妬みを買い、エジプトに売られて行きます。しかし、様々な試練を経て、エジプトの農林大臣となります。ヨセフの臨終は創世記50章24節以下に記されています。「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」。25節「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときは、わたしの骨をここから携えてください」。ヨセフの遺骨はエジプトではなく、約束の地カナンに埋骨されました。ヨシュア記24章32節。ヨセフもまた、約束の地への信仰に生きたのです。
(2)23節「信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです」。出エジプト記1章15節以下です。エジプトの王は寄留者であるヘブライ人の数が増したことを恐れ、助産婦に向かって、ヘブライ人の男の子が誕生したらナイ川に放り込めという命令を下しました。2章1節、レビの家の出のある男が同じレビの娘をめとり、男の子が生まれた。モーセの誕生です。その子がかわいかったので、三か月の間隠しておきました。しかし、もう隠しきれず、男の子を籠に入れ、ナイル川に放ちました。そのモーセをエジプトの王女が広い、エジプトの王子として育てられました。モーセのことをヘブライ人への手紙の説教者はこう語ります。
24節「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです」。モーセはエジプトの王子となることよりも、神の民と共に虐待される方を選びました。モーセ、神の民、娼婦ラハブの信仰を、「決断の信仰」として語ります。信仰的な決断です。モーセは神の民と共に虐待されることを、キリストの故に受ける嘲りとして受け留めました。キリストの十字架の苦しみを遙かに仰ぎ見ながら、苦難を耐え忍びました。モーセもまた信仰の創始者、完成者であるイエスを仰ぎ見ていたからです。
27節「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んだからです」。モーセの信仰をこのひと言で言い表しています。「目に見えない方を見ているように」。エジプトからの脱出、紅海の奇跡、荒れ野の40年の旅。試練の連続でした。しかし、モーセは目に見えない神を見ているように、神は必ず共にいて、生きて働かれる信仰に生きました。
28節「信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました」。出エジプトの出来事です。出エジプト記12章です。エジプトを脱出する夜、神の使いがエジプト人を打ちました。イスラエルの民は小羊の血を鴨居に塗りました。そして小羊を丸焼きにし、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べました。神の使いは鴨居に小羊の血が塗られたイスラエルの民の家を、審かずに通り過ぎました。過越の祭りの原形となりました。
29節「信仰によって、人々は陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました」。紅海の奇跡です。出エジプト記14章10節以下。エジプトを脱出したイスラエルの民は、前は海、後ろはエジプトの軍勢に挟まれて、八方塞がりに直面しました。恐れるイスラエルの民に向かって、モーセは語りました。13節「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。・・主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」。モーセが杖を高く上げると、海は真っ二つに分かれ、道が出来ました。イスラエルの民は海の中に出来た道を通って、向こう岸に辿り着きました。信仰によらなければ、海の中に出来た道を渡ることなど出来ません。ここにも、目に見えない神を見ているようにという信仰があります。
アブラハムも、モーセも、信仰の創始者、完成者であるイエスを仰ぎ見ながら歩みました。神は死者の中から生き返らせることのお出来になる生ける神である。見えないが、生きて働かれる神である。見えない方を見ている信仰に生きたのです。
3.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 11月20日の祈り、エレミヤ16・19
「主よ、われらの神よ、いかなる困窮、いかなる圧迫にあっても、われらはみもとにまいります。いかなることにあってもあなたは光をもたらし、あなたの大いなるいつくしみと誠実とによって、更にわれらを助けてくださるのです。それゆえにわれらはみもとにまいります。あなたはわれらの助けなのです。このわれらの時代の中に堅く立ち、あなたの助けを期待することができるために、すでにみ助けを待つことによって堅く立ち、よろこぶことができるために、われらはみことばによって強められたいと思います。み国は来たり、み心は天に行なわれるごとく、地にも行なわれるからです!アーメン」。