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2024年12月4日

「ヘブライ人への手紙を黙想する25~信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら~」

ヘブライ人への手紙12章1~3節

井ノ川勝

1.自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか

(1)ヘブライ人への手紙12章の冒頭の御言葉は、多くの信仰者の心を捉えて来た御言葉です。愛唱聖句にされている方もいます。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。

 この手紙の説教者は信仰生活を、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と、競技ランナーに譬えています。しかも短距離ランナーではなく、長距離ランナーです。マラソンランナーです。信仰生活は長い道程を走り抜かなければなりません。信仰生活を「走る」ことで捉えたのは、伝道者パウロも同じです。コリントの信徒への手紙一9章24節「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人たちは皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりはしないし、空を打つような拳闘もしません」。フィリピの信徒への手紙3章13節「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。パウロも、この手紙の説教者も、実際マラソンランナーを観ながら、信仰生活と重ね合わせたと言えます。

 学生時代、マラソン大会がありました。中盤に差し掛かると、足が重くなり、脇腹が痛くなり始め、何度も歩きたくなる誘惑に駆られます。ゴールが遠くなります。走っても走っても、ゴールが見えて来ません。

(2)マラソンレースにとって何よりも求められることは、忍耐です。それ故、説教者は語ります。「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」。この手紙は「忍耐」を重んじていました。

10章32節「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」。39節「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」。

洗礼を受け、喜んでマラソンランナーに加わった信徒たちが、長いレースの途中で、ローマ皇帝に迫害を受け、それに耐えられなくなり、信仰生活から落伍して行きました。今、落伍しそうな信徒もいます。そのような教会の現実を心痛めながら、説教者は御言葉を語ります。走り続けている信仰者に向かって、声援を送っているのです。何度も「忍耐が必要なのです」と語ります。ひるんでレースから外れるなと呼びかけます。

11章で、長い信仰生活の道程を忍耐強く走り抜いた信仰者たちを紹介しました。その信仰者たちの姿に倣いながら、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、と呼びかけているのです。「自分に定められている競争」という言葉は、「自分の目の前にある競争」という言葉が用いられています。

2.信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら

(1)12章はこういう言葉から始まっていました。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上」。「こういうわけで」は、11章の旧約の時代を忍耐強く走り抜いた様々な信仰者たちの姿を受けています。これらの信仰者は地上のレースを走り抜いて、今、天にある競技場の観客席から、地上のレースを走り続けている信仰者たちに向かって声援を送っているのです。聖書協会共同訳はこう訳しました。「こういうわけで、私たちもまた、このように多くの証人に雲のように囲まれているのですから」。

 私どもの先頭を走っていた信仰者たちが、今、地上のレースを走り終えて、雲のように私どもを囲み、声援を送っている。私も走り抜くことができたから、あなたも走り抜けると励ましているのです。こんなに心強いことはありません。墓前祈祷会で、教会の墓碑に刻まれた信仰の先達は、今、信仰の証人として雲のように私どもを囲み、声援を送っているのです。

 「多くの証人に雲のように囲まれている」。イメージ豊かな言葉です。更に、イメージ豊かな言葉が続きます。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」。「絡みつく罪」という言葉です。私どもの罪は足で払っても払っても、足に絡みついて来る、しぶとい罪です。讃美歌21-58は、日本人が作詞、作曲した代表的な讃美歌です。そこにヘブル書の言葉が用いられています。

「み言葉をください、吹く風のように強く、救いの主よ。からみつく罪、根こそぎされて、いのちあらたに、芽生えるために」。

 私どもの絡みつく罪とは何でしょうか。様々にありますが、その要にあるのは、信仰の創始者、完成者であるイエスを見失うことです。学校のマラソン大会で走りながら、私は何のために走っているのだろうか、と自問しながら走っていました。マラソンレースは孤独です。誰も助けてくれません。自分が最後まで走り抜かなければなりません。しかし、信仰のレースは違います。私どもの目の前を走っておられる方がいます。信仰の創始者また完成者であるイエスです。信仰の創始者、完成者であるイエスを見失ってしまう。主イエスよりももっと素晴らしい導き手がいるではないか。別のものに目が注がれてしまう。このような誘惑の罪が絡みついて来る。

 パラリンピックで、視覚障がい者のマラソンがあります。ブラインドレースには伴走者がいます。走っている人が安心して力を出せるように、周囲の状況や方向を伝えたりする役目を担います。伴走者とランナーは輪になった一本のひもを互いに持ち、走ります。一人の力で走るのではなく、共に走ることで繋がり、サポートを受けます。信仰の創始者、完成者であるイエスは、私どもの伴走者となって、私どもの信仰のレースを励まし、助言し、導いて下さるのです。伴走者イエスと私どもを繋ぐ輪になった一本のひもは、主イエスが語りかける御言葉です。

実は、旧約の時代を走り抜いた信仰者たちも、信仰の創始者、完成者であるイエスを見つめながら、走り続けたのです。旧約の信仰者たちは私どもを見て、羨ましく思っています。私どもは遙か遠くに主イエスを仰ぎ見ながら走り続けた。しかし、あなたがたは主イエスをもっと確かに見つめながら走ることが出来る。何と幸いなことか。

 「信仰の創始者」という言葉は、2章10節で語られていました。「救いの創始者」。私どもに信仰を与え、始められたのは主イエス。そして主イエスが私どもの信仰を完成させて下さる。必ず、ゴールである天の故郷へ導いて下さる。だから、思い煩うな、迷うな、恐れることはない。こんなに心強いことはありません。「信仰の創始者」という言葉は、「信仰の導き手」という意味でもあります。私どもの信仰を導き、完成して下さる主イエスを見失うことなく、走り続けよう。

(2)「このイエスは、御自分の目の前にある喜びを捨てて、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」。「十字架の死」という言葉は意外に思うかもしれませんが、この手紙で初めて用いられています。これまでも大祭司イエスの執り成しを強調して来ましたが、「御自身の血によって、永遠の贖いを成し遂げられた」と語られていました。十字架の出来事は語っていましたが、「十字架の死」という言葉はここが初めてです。主イエスは御自分の目の前にある喜びを捨てて、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍んで下さった。今、神の玉座の右にお座りになられ、大祭司として私どもの信仰を執り成しておられる。主イエスは一方で、信仰のレースを走り続ける私どもの導き手、伴走者となって共に走り続けて下さる。他方で、私どもの信仰のゴールである神の玉座の右に座し、天の故郷で、私どもを執り成しておられる。

 3節「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えてなさい」。長い信仰のレースで、気力を失い疲れ果ててしまって、信仰のレースから落伍しそうな信仰者がいました。信仰の創始者、完成者である主イエスに反抗し、他のものを地上のレースの導き手として仰ぎ見ました。しかし、御自分に対する罪人たちの反抗に、主イエスは忍耐されました。ここでも主イエスの忍耐が強調されています。主イエスの忍耐によって、私どもの信仰が支えられている。私どものために忍耐されている主イエスのことを、よく考えなさい。「よく考えなさい」という言葉は、「しっかりと見なさい」という意味です。「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。

3.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 12月4日の祈り 黙示録3・10~11

「主よ、われらの神よ、みことばによってきょうもわれらの心を強めてください。あなたはわれらの父なのです。われらはあなたの子なのです。すべてのわれらの人生にあってあなたに信頼したいと思います。いかなる道にあってもわれらを守ってください。み国の到来に、われらの主イエス・キリストの将来に、常に目を注がせてください。われらの時代に生ずる多くのものによってわれらが誤りをおかすことなく、常に自由でいられるようにわれらを助けてください。この世の中に何が起ころうと、その自由の中であなたに仕え、誤ることのないようにしてください。いっさいのことにあってわれらに聖霊をお送りください。聖霊なくしてはわれらは何もなし得ないからです。われらを助けてください。そしてすべてのことによってたたえさせてください。そのすべてのことによって、すでにわれらに多くの助けを与えてくださったのです。アーメン」。

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