1.あなたがたは罪と戦って血を流すまで抵抗したことがない
(1)ヘブライ人への手紙12章はこういう言葉から始まっていました。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。私どもキリスト者の信仰生活をマラソンランナーに譬えていました。私どもの先頭には、信仰の創始者、完成者である主イエスがおられる。伴走者イエスを見つめながら、共に走っている信仰の仲間を励まし合って、天の故郷を目指して走り抜こうと呼びかけていました。しかも私どもの信仰の先達が雲のような証人の群れとなって声援を送っています。
この御言葉を受けて、4節の御言葉が続きます。「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」。ここでは信仰生活を戦いに譬えています。拳闘、ボクシングの譬えだとも言えます。戦いには相手がいます。私どもキリスト者の戦いに相手は、罪です。神に敵対する力、私どもを神から引き離そうとする力です。この手紙・説教を聴いた会衆には具体的な敵がいました。ローマ皇帝です。ローマ帝国の迫害の時代でした。ローマ皇帝を神として拝まないキリスト者は捕らえられ、拷問を受け、殺されました。しかし、説教者は語ります。「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」。ローマ皇帝に対する抵抗がまだまだ足りないと、説教者は叱責しているのでしょうか。
(2)この手紙は説教として礼拝で語られました。説教は「勧めの言葉」「慰めの言葉」(13・22)です。日々戦いの中で生きているキリスト者を、説教者は説教を通して慰め、励ましています。4節のこの御言葉も叱責ではなく、慰め、励ましていると言えます。「あなたがたは罪と戦って血を流すまで抵抗をしなくてもよいのだ」。何故、そう言えるのか。直前の2節でこう語られていました。「このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び」。罪と戦って血を流すまで抵抗されたのは、十字架の死を遂げられた主イエスのみです。神から見捨てられた罪人の死を遂げられたのは、主イエスただお一人。「十字架の死」という言葉はこの手紙でここだけです。それ故、私どもが罪と戦っても、主イエスの苦しみ以上の苦しみを受けることはない。神から見捨てられた苦しみ、死を受けることはない。十字架の死、苦しみを負われた主イエスによって、私どもの苦しみの抵抗は支えられる。私どもの先頭を走る伴走者イエスは、信仰の開拓者であり、完成者です。
2.わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない
(1)5節「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています」。説教者は子どもたち対するように語りかけます。「勧告」は「慰めの言葉」「励ましの言葉」です。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」。箴言3章11~12節の御言葉です。父のわが子への諭しです。「わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめる」。私どもの信仰が日々襲い掛かる様々な試練、苦難によって、揺らいでしまわないために、信仰は主によって鍛錬を受ける必要があります。主がわれわれの父となって信仰を鍛錬して下さるように、父はわが子の信仰を鍛錬する。それは何よりも、御言葉による鍛錬です。「鍛錬」はヘブライ語では「教育」という意味です。鍛錬、教育なくして信仰の成長はあり得ないからです。
エフェソの信徒への手紙6章1~4節は信仰の家庭訓です。4節「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」。口語訳「父たる者よ、子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい」。「薫陶」は美しい日本語です。元々は、香をたいて香りを移し、粘土を焼いて陶器を作り上げること。そこから、優れた人格で感化し、立派な人間をつくること。信仰的に言えば、キリストの香りを放ち、わが子にキリストの香りを染み込ませる。改革派教会が重んじる教会訓練です。
(2)7節「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい」。鍛錬には忍耐が伴います。12章で「忍耐」という言葉が繰り返されます。「神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」。神が父として譬えられます。私どもは洗礼によって、御子イエスの兄弟とされ、父なる神の養子、庶子とされ、父なる神を「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子とされました。父の役目はわが子を鍛錬、教育することです。
8節「もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか」。父なる神は御子イエスによって、私どもが実の子、神の子とされたことを喜び、愛して下さる。愛するが故に、私どもを鍛錬、教育するのです。「肉の父」に対し、「霊の父」という言葉を用いています。「霊の父」は勿論、父なる神ですが、同時に、伝道者、長老、信仰の先達をも指していると言えます。私も家庭において、「肉の父」から教育を受けます。そして教会において、「霊の父」から信仰の教育を受けるのです。教会の交わりの中で、教会員同士が励まし合いながら訓練、教育を受けるのです。孤独な訓練ではありません。
10節「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです」。父として、母として、わが子を教育して感じることは、自分たちの教育は十分ではなかった。教育者として破れがあったということです。父の思い、母の思いを、わが子に押しつけていました。しかし、霊の父は私どもの益となるように教育して下さる。父なる神の「神聖」「聖性」に与らせる目的で鍛えて下さる。レビ記19章2節の御言葉は律法の中心にある戒めであると言われます。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」。
3.萎えた手と弱った膝をまっすぐに
(1)11節「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」。鍛錬は厳しいものです。忍耐が必要です。長い長い道のりを要するものです。喜ばしいものではありません。しかし、後になって振り返ると、信仰の実りが与えられていることに喜びを感じます。私どもにとって信仰の実とは、「義という平和に満ちた実」です。神の義、神の義しさによって造り出される平和の実です。神がわれらと共にいて下さる平和の実です。主イエスは「平和の君」(イザヤ9・5)として、神の義という平和に満ちた実を結ばせるために来られたのです。
12節「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」。私どもの信仰の手、信仰の膝は、様々な試練と苦難で、萎えてしまいます。弱ってしまいます。萎えた手と弱った膝をまっすぐにしなさい。御言葉によって萎えた手と弱った膝をまっすぐにするのです。
「足の不自由な人が踏み外すことなく」。信仰の足が不自由になって、主の道から踏み外すことがないように。「踏み外す」という言葉は「関節が外れる」という意味でもあります。信仰の関節が外れてしまう。御言葉によって外れた信仰の関節を繋ぐのです。しかし、ここでは、信仰の関節が外れた足が癒されるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。信仰の関節が外れて、座り込んでしまうのでなく、主の道を歩き続けなさい。歩き続けることを止めるな。そうすれば外れた関節はいつの間にか繋がれ、まっすぐに主の道を歩いている。
(2)12~13節の御言葉は旧約聖書の様々な御言葉が土台となっています。イザヤ書35章3~4節「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』」。箴言3章5~6節「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」。4章20~26節「わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を向けよ。・・曲がった言葉をあなたの口から退け、ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものに、まなざしを正しく向けよ。どう足を進めるかをよく計るなら、あなたの道は常に確かなものとなろう」。
これらの旧約聖書の御言葉に生きた信仰の先達の信仰を受け継ぎ、説教者は会衆に語りかけます。「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 12月11日の祈り 詩編16・1~2
「愛しまつる在天の父よ、あなたの子であるわれらを見て、われらが時と永遠にわたってあなたのうちに最高の善を得ていることを感じとらせてください。われらが拒んだり、多くのものを捨てなければならなくても、あなたはわれらの財産、われらの富、われらの愛、われらのよろこびであられることに変わりはありません。あなたに仕えるひとつの民として、われらがともに強くなれるようにしてください。どのように、何を、自分がなすべきかわれらがなお理解しない時にも、聖霊をわれらに与えてください。常にみ手によってわれらを守り、肉体と魂においてあなたの奇跡を見させてください。あなたはわれらの父だからです。あなたは全能者であり、すべてのことにおいて助けることができる方なのです。アーメン」。