1.すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい
(1)ヘブライ人への手紙の主題は、「天の故郷を目指し、地上を旅する神の民」です。その主題を表す御言葉が、12章12~13節に語られていました。「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」。萎えた信仰の手、弱った信仰の膝を真っ直ぐにしよう。信仰の足の不自由な人が主の道を踏み外すことなのないように、お互いが助け合い、執り成し合って、天の故郷を目指し、自分の足で真っ直ぐな主の道を歩こう。日々襲い掛かる試練の中で、目標を見失うことなく、共に歩き続けようと呼びかけられています。
(2)それを受けて14節の御言葉が続きます。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」。国同士の平和、民族同士の平和という大きな問題だけでなく、ここでは身近な問題である家族との平和、友人との平和、信仰の仲間との平和を意味しています。しかし、私どもは身近な家族との平和、友人との平和、信仰の仲間との平和が破れて、心痛める生活をしています。どうしら平和な関係が打ち立てられるのか、頭を抱えます。すべての人との平和は、聖なる生活を追い求めることと一つのことです。聖なる生活とは、主を見る生活です。主が生きておられ、私どもの真ん中に立っておられることを見ることです。平和の関係を打ち立てられず、心痛める私どもの間に、真ん中に主が立って執り成しておられることを見る。聖なる生活は何よりも祈りの生活です。祈り求めることで、生きておられる執り成しの主を見るのです。
15節「神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい」。厳しい言葉です。身近な関係において平和を打ち立てられない私どもの根っこに、「苦い根」が生えて、私どもを悩ますのです。「苦い根」という言葉は、申命記29章16節以下に出て来ます。「あなたたちは、彼らが木や石、銀や金で造られた憎むべき偶像を持っているのを見て来た。今日、心変わりして、我々の神、主に背き、これらの国々の神々のもとに行って仕えるような男、女、家族、部族があなたたちの間にあってはならない。あなたたちの中に、毒麦や苦よもぎを生ずる根があってはならない。もし、この呪いの誓いの言葉を聞いても、祝福されていると思い込み、『わたしは自分のかたくなな思いに従って歩んでも、大丈夫だ』と言うならば、潤っている者も渇いている者と共に滅びる。主はその者を決して赦そうとはされない。そのときこそ、主の怒りとねたみが燃え上がり、この書に記されている呪いの誓いがすべてその者にのしかかり、主はその名を天の下から消し去られる」。何故、身近な関係において平和を打ち立てられないのか。私どもの心の根っこに「苦い根」「苦よもぎ」が生えているからです。それは私どもの「頑なな心」です。すべての人との中心に立つ主を押しのけて、自分の頑なな心が神のように中心に立ってしまうからです。それが人との間の平和を壊しているのです。
預言者イザヤのクリスマス預言があります。イザヤ書11章1~2節です。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」。私どもの心の根っこに生える「苦い根」「私どもの頑なな心の根っこ」を切り取るために、エッサイの株からひとつの芽が萌え出で、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊が留まる。平和の根っこ主イエスです。
2.あなたがたは手で触れることができるもののために、神に近づいたのではありません
(1)家族の平和、兄弟の平和が破れてしまった具体的な例として上げられているのが、ヤコブとエサウの双子の兄弟の物語です。16節「また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないように気をつけるべきです。あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです」。ヤコブとエサウ物語は創世記25章27節以下に記されています。双子の兄弟でありながら長子の権利、神の祝福を受け継ぐのは、長男のエサウです。ところが、エサウは一杯の食物のために、長子の権利を弟ヤコブに譲り渡してしまいました。後から気づいて後悔して、涙を流して返すように求めたけれども、一度手放した長子の権利、神の祝福を手に入れることは出来なかった。目に見える一杯の食物のため、目に見えない永遠の祝福を手放してしまう。家族の平和、兄弟の平和が破れてしまう。エサウの心の根っこに「苦い根」「頑なな心の根」が生えていたからです。
(2)18節「あなたがたが手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。彼らは、『たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない』という命令に耐えられなかったのです。また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、『わたしはおびえ、震えている』と言ったほどです」。エジプトを脱出したモーセと神の民は、シナイ山に辿り着きます。神の民を代表してモーセは、シナイ山に降られた主なる神とお会いするため上って行きました。その場面が描かれているのは、出エジプト記20章18節です。「民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれている有様を見た」。燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音。神の御臨在を現す目に見えるものです。出エジプト記19章11節以下。「主はシナイ山に降られるからである。民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる』」。主が御臨在されるシナイ山に、主に赦されたモーセ以外誰も登ってはならない、山に触れてはならないと命じられました。
この手紙の説教者は旧約聖書の神の民の物語を語りつつ、会衆に向かって語りかけます。あなたがたは手で触れるもの、目で見えるものために、神に近づいたのではありません。「近づく」という言葉は、この手紙の鍵となる言葉です。「神に近づく」「神を礼拝する」ことです。4章14節以下。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。
3.あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム
(1)私どもは手で触れ、目に見えるもののために、神に近づいたのではありません。22節「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける聖なる都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です」。
私どもが近づくのは、「シオンの山」、それを言い換えて、「生ける聖なる都」「天のエルサレム」。10章16節で「天の故郷」と語っていたのが、ここでは「生ける聖なる都」「天のエルサレム」と言い換えています。神に近づき、神を礼拝する時に、私どもが見るべき天の幻です。そこには「無数の天使たちの祝いの集まり」です。12章1節で「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上」。私どもの信仰の先達が、無数の天使、主に仕える者となって、天のエルサレムで礼拝をしているのです。主をほめたたえているのです。私どもの地上の礼拝が少人数であっても、天のエルサレム、天上の礼拝で、無数の主に仕える者たちと共に礼拝を捧げているのです。「天に登録されている長子たちの集会」。1章6節で「神はその長子をこの世界に送るとき、『神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ』とありました。「神の長子」は御子イエスです。しかし、私どもも洗礼を受けることにより、天国の名簿に名が記され、神の長子とされ、ヤコブのように神の祝福を受けるのです。天のエルサレムは、神の祝福を受けた神の長子たちの集会、礼拝です。
(2)「すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人の霊、新しい契約の仲介者イエス」。天のエルサレムの中心に立たれるのは、すべての人の審判者である神です。そして新しい契約の仲介者イエスです。9章14節以下「まして、永遠の霊によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです」。
「そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です」。11章4節以下の「信仰者列伝」の先頭に立っているのが、アベルです。兄カインにより殺されたアベルの血は土の中から叫んでいます。報復の叫びです。しかし、十字架で流された新しい契約の仲介者イエスの血は、報復の叫びを包み込む立派な、強力な「赦しの叫び」です。
4.御言葉から祈りへ (1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳)12月18日 テサロニケ一5・17
「神よ、人々が静かにシオンに向かってあなたを賛美することができますように。そのようにして人はあなたに誓いを果たすのです。あなたは祈りを聞いてくださいます。それゆえにすべての肉はみもとにまいります。主よ、われらの神よ、われらの父よ、あなたがわれらに課題として与えてくださいましたことの中で、あなたの子としてわれらをお守りください。そしてわれらが正しい仕方であなたに仕えることができますように、そしてあなたがわれらに必要な賜物をも与えてくださるようにしてください。われらがみ名を証しし、み国を迎えることができるようにしてください。いかなる点においてもわれらを助け、われらのいのちをみ手にゆだねさせてください。そしてわれらが、われらの神でおり、救い主であるあなたのうちに、力強くふみとどまることができるようにしてください。アーメン」。