1.兄弟としていつも愛し合いなさい
(1)ヘブライ人への手紙を共に黙想しながら、新しい年を迎えた元日に、最後の章、13章の御言葉に入りました。ここにはキリスト者の日々の生活が語られています。この手紙は礼拝で語られた説教ですが、礼拝から生活へ、生活から礼拝へ、それが一つに循環しています。礼拝と生活を区別しません。それがとても大切な点です。キリスト者の生活の中心にあるのは、愛です。1節「兄弟としていつも愛し合いなさい」。忘れてはならないのは、私どもの愛は、大祭司イエスの憐れみの執り成しから注がれたものであることです。この手紙の心臓部は4章14節以下でした。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受けて、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。礼拝において、大祭司イエスの憐れみの執り成しを受けて、愛が注がれ、その愛を波紋ように拡げて行くのです。「兄弟としていつも愛し合いなさい」。生活の中で、愛はキリスト者以外の方にも広がって行きます。
(2)2節「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」。欧米では故郷を離れた両学生や家族のものを、クリスマスに家に招きます。寂しい思いにさせないよう愛の配慮をします。それが体に染み込んでいます。「旅人」「寄留者」「よそ者」への愛の配慮は、旧新約聖書に受け継がれる一貫した愛です。伝道者パウロも、ローマの信徒への手紙12章9~13節の「愛の十戒」で、「旅人をもてなすよう努めなさい」と語ります。何故、旅人をもてなすのか。主が遣わされた天使であるからです。これはアブラハム物語のことが土台にあります。創世記18章で、アブラハムとサラがもてなした旅人が、実は天使であったと語っています。
3節「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり」。礼拝の中で大切な祈りの一つが、「執り成しの祈り」です。私どもの執り成しの祈りは、とても狭いのです。教会の交わりしか視野にありません。しかし、欧米の教会の礼拝での執り成しの祈りの範囲は、とても広いのです。中でも必ず、牢に捕らわれている人たちのために執り成しの祈りを捧げます。牢に捕らわれている人たちは罪人で、私どもは義人ではありません。私どもも罪人の頭です。人間の目から見れば、愛が及ばない牢にも、愛が届くことを祈るのです。悔い改めて主に立ち帰ることを祈るのです。「自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい」。私どもは体を持って生きています。それだけに体に受ける苦しみを味わいます。虐待されることは、体も心も深い傷を負うことです。不当な虐待を受けている方は多くいます。
2.金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい
(1)4節「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません」。結婚式に読まれる御言葉です。キリスト者はこの世で生活をしています。社会と関わり、交わりを持つ基礎に、結婚があります。夫婦の交わりがあります。この世において、愛に生きる基礎が夫婦の交わりにあります。
5節「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい」。この世を生きる時に大切なことは、金銭の用い方です。この世を生きるために金銭は欠かせません。賢い用い方が問われます。金銭に執着し、金銭が生活の中心に立ち、金銭の奴隷になる誘惑が絶えずあります。主イエスも、「神と富とに仕えることはできない」(ルカ16・13)と警告されました。今持っているもの、主に与えられたもので満足しなさい。鎌倉雪ノ下教会の長老であり、国際基督教大学学長であった渡辺保男さんの愛唱聖句でした。この御言葉には、更にこういう御言葉が続いていることに、渡辺保男さんは心捕らえられました。
何故、今持っているもので満足しなさいと語るのか。「神御自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決して置き去りにはしない』と言われました」。申命記31章6節の御言葉です。モーセが若き指導者ヨシュアの任命式の時に語った主の言葉です。「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」。31章8節にも同じ言葉があります。
(2)6節「だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます」。「はばからずに」。この説教者の愛用の言葉です。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」。詩編118編6節の御言葉です。「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう」。
詩編118編は「メシア預言」として大切な御言葉です。特に22節以下の御言葉は、主イエスを始め、新約聖書で最も多く引用されています。「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと」。
3.イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方
(1)今日の御言葉は7、8節まで続きます。「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかりと見て、その信仰を見倣いなさい」。この説教者は繰り返し、信仰の指導者、信仰の先達を重んじます。私どもに先立って信仰の道を歩んだ者たちがいます。その信仰者たちを思い起こし、その信仰を見倣いなさい。神の言葉を語った指導者たちの生涯の終わりをしっかり見なさい。信仰の指導者たちが何によって生かされていたかが見えて来る。
8節「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」。この手紙の中でも大切な信仰です。全ての信仰者が主イエス・キリストによって生かされた生涯を送った。イエス・キリストは昨日も、今日も、明日も、永遠に変わることなく、私たちを導いて下さるお方です。過去も、現在も、将来も、永遠に変わることのないお方です。
(2)昨年の元日、新しい年を迎え、新たな志を立てて一歩を踏み出そうとした矢先、能登半島地震が起こりました。2025年の新しい年も、この一年がどのようになるか全く分かりません。先を見通すことなど出来ません。しかし、私どもにはただ一つ確かなことがあります。イエス・キリストは、昨日も今日も、明日も、永遠に変わらないお方であることです。この主イエス・キリストに支えられて、明日に向かって一歩を踏み出すのです。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 1月1日の祈り マタイ6・9~13
「天にいますわれらの父よ!み名があがめられますように。み国が来ますように。み心が天に行なわれるとおり、地にも行なわれますように!新しい年もこの祈りにおいてわれらをお守りください。われらがともに手をたずさえて、永遠にして聖なるあなたとの交わりを見いだしうるようにしてください。そして、自分の道を、地上における自分の道をあゆむわれらを祝福してください。そしてたとえ地上がどんなに悪しきものと思われる時にも、すべてのことにおいて常に自由であり、あなたがなされるすべてのよきことを日ごと夜ごとに感謝しうるようにしてください。われらはみ名をたたえ、救い主が語ってくださったそのとおりに祈ります。アーメン」。