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2024年6月12日

「ヘブライ人への手紙を黙想する3~これほど大きな救いに対して無頓着でいられようか~」

ヘブライ人への手紙2章1~9節

牧師 井ノ川勝

1.これほど大きな救いに対して無頓着でいられようか

(1)ヘブライ人への手紙は慰めの言葉・説教であると言われています。「慰めの言葉」は傍らに呼んで息をさせるという意味です。説教はこの御言葉を聴いた聴き手である教会に連なる教会員の現実、苦悩が明らかにします。2章はこういう御言葉から語り始めています。「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」。「押し流されてしまう」。この言葉は航海で用いられる言葉です。当時の舟は人の手で漕ぐか、風任せの帆を掛けて航海します。よほど注意深く漕いだり、帆のひもを手繰らないと、潮の流れに押し流されてしまいます。舟は目的地ではなく、思わぬ方向へ押し流されてしまいます。教会も舟に譬えられることがあります。主イエスも弟子たちと共に舟に乗られ、向こう岸、異邦人の地を目指して航海をされました。様々な荒波が押し寄せ、なかなか目的地に辿り着けない。思い掛けない方向に押し流されてしまうことがあります。そこで大切なことは、教会という舟に乗っている教会員が、船長である御子イエス・キリストへの信仰を明確にすることです。

(2)2章は「だから」で始まります。1章で語られたことを受けています。1章で語られたことは、主イエスは天使よりも優れた者、優れた名を受け継ぐ存在であることです。何故、主イエスと天使を比べているのか。初代教会の人々の信仰の土台は旧約聖書をどのように理解するかにありました。モーセは神から御言葉、律法を聴き、それを民に伝えました。その時、御言葉、律法を民がきちんと理解するために、また御言葉、律法を実行するために、天使が働いたと理解しました。それが2節で語られています。「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違反や不従順が当然な罰を受けたとするならば」。御言葉、律法を聴いても、それに従わない、あるいはそれに聴こうとしない。すべての違反、不従順に対しては罰せられても当然です。天使の働きに対してこのようであれば、ましてや遙かに優る大いなる救い、最高の救いをもたらした御子イエス・キリストに対して無頓着ではいられません。鈍感であってはいられません。私どもの救いが懸かっているからです。

 3節「ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができるでしょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまの奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます」。これほど大きな救いは、最初に主イエス・キリストが語られ、それを聴いた人々によって確かなものとされました。神もまた、しるし、不思議な業、様々な奇跡、聖霊の賜物により、主イエス・キリストの救いの確かさを証しされておられます。

2.イエスが死の苦しみのゆえに、栄光と栄誉の冠を授けられたのを見ています

(1)5節「神は、わたしたちが語っている来たるべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです」。神が約束された来たるべき世は天使が支配する世界ではなく、御子キリストが支配する世界です。私どもが生きている新約の時代です。そのことを明らかにするために、詩編8編5~7節を引用しています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子は、何者なのか。あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました」。詩編8編は神の創造の御業、人間創造の御業を賛美した詩です。「人の子」は私ども人間を指しています。注目すべきはこの御言葉です。「神は僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」。私ども人間は神に僅かに劣るものとして造られた。驚くべき言葉です。神は御自分が造られたものを、神に代わって人間に統治させる務めを委ねられました。

 しかし、ヘブライ人への手紙は、「人の子」を「御子キリスト」として理解しています。「あなたは御子キリストを天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました」。ヘブライ人への手紙は、「僅かに」を「僅かの間」と言い換えています。「御子キリストを天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」。どういう意味なのでしょうか。旧約の時代、神の御業のお手伝いを天使がしました。しかし、来たるべき時代、新約の時代では、御子キリストが御父に代わって救いの御業を行っています。御子キリストに栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。

(2)8b節「『すべてのものを彼に従わせられた』と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません」。御父は御子キリストにすべてのものを統治する権威を委ねられました。御子キリストの足の下に従わないものは何もものは何も残っていません。しかし、その後に、説教者、聴き手の現実の痛みと悲しみが続きます。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものが御子キリストに従っている様子を見ていません。ヘブライ人への手紙が説教として語られた時代は、ローマ皇帝によるキリスト教会への迫害の時代です。ローマ皇帝こそ神として崇められた時代です。私どもが生きている今日も変わっていません。様々な権力者が恰も神のように世界を支配しています。私どももいまだに、すべてのものが御子キリストに従っている様子を見ていません。御子キリストの御支配に逆らう現実を目の当たりしています。そこに私どもの悲しみと痛みがあります。

 しかし、ヘブライ人への手紙の説教者は絶望していません。「わたしたちはいまだに、見ていません。しかし、見ています」。このような構文になっています。9節「ただ、『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています」。説教者は何を見ているのでしょうか。主イエスが死と苦しみのゆえに、栄光と栄誉の冠を授けられたのを見ています。肉眼ではこの世の権力者が世界を支配している現実が見えて来ます。しかし、信仰のまなざし、霊のまなざしで見ると、主イエスこそが世界を支配しておられるのが見えるのです。しかも主イエスが一体どこで世界を支配しているお姿が見えるのか。「死と苦しみのゆえに」。主イエスが立たれた十字架においてです。これも驚きです。人間の目から見れば、主イエスの十字架の苦しみと死は、敗北にしか見えません。しかし、主イエスの十字架の死と苦しみこそ、勝利であり、主イエスの御支配の要にあるものです。

3.イエスは神の恵みによって、すべての人のために死んでくださった

(1)ここで注目すべきは、「イエス」という言葉です。この手紙で初めて「イエス」と語るのは、死の苦しみの故にという十字架の出来事です。この手紙の冒頭では、「御子」という言葉を繰り返していました。御父と同じく、御子も神であるという信仰が込められていました。「イエス」は人となられた人間イエスという信仰が込められています。「イエスが、神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです」。「死んでくださった」は「死を味わわれた」という意味です。身も魂も存在全体で味わう感覚的な言葉です。主イエスは十字架で一体どのような死を味わわれたのでしょうか。「神の恵みによって」という言葉は、別の写本では「神なしに」となっています。主イエスが十字が味わわれた死と苦しみの現実は、神がいない現実であった。それ故、主イエスは叫ばれました。「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになられたのですか」。主イエスの十字架の死と苦しみを言い表した詩編があります。詩編88編です。「暗黒の詩編」と呼ばれています。

 15節「主よ、なぜわたしをの魂を突き放し、なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。わたしは若い時から苦しんで来ました。今は、死を待ちます。あなたの怒りに身を負い、絶えようとしています。あなたの憤りがわたしを圧迫し、あなたを恐れてわたしは滅びます。それは大水のように、絶え間なくわたしの周りに渦巻き、いっせいに襲いかかります。愛する者も友も、あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」。死がなぜ恐ろしいのか。神から突き放され、神がおられない死だからです。それこそが暗黒であり、絶望です。何の救いも、光もありません。しかし、御子キリストが私どもと同じ人間となられ、私どもに代わって、神から突き放され、神がおられない十字架の死と苦しみを全身で味わって下さった。それ故、私どもが直面する死は、もはや神がおられない絶望の死、暗黒の死ではなくなったのです。神が共におられる死を味わうのです。 (2)2章14節以下で、この手紙が繰り返し語る福音の勘所があります。「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷状態にあった者たちを解放なさるたねでした」。17節「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。

4.御言葉から祈りへ (1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 6月12日 ヨハネ16・8

「主よ、われらの神よ、われらは感謝します。あなたはわれらに霊を与えてくださいます。すべての時代を貫いて常に新しく与えてくださいます。そしてその霊によってイエス・キリストを理解し、われらの地上のいかなる日々にもキリストに従うことができるのです。われらを祝し、この世の中に、聖霊の大いなる啓示をもたらしてください。新しい霊の注ぎを、もろもろの心のうちに、もろもろの民のうちに、すべての国民のうちに与えてください。なぜならば、罪はなお罰せられなければならず、義のためには、この世はさばきによって、罰をこうむらなければならないからです。あなたが主であり、全能の神であり、サタンもこの世の君もみ心にさからうことはできないからです。み心は聖霊によってあなただけが行なわれることだからです。だがわれらは、いかなる日にもイエスに従います。よろこびつつ主イエスに従うことはわれらのよろこびとなるべきであり、それは価高きことなのです。み名はほむべきかな。われらは主イエスを、主イエスについての証言を、日ごと福音のうちに聞きます。日ごとに新鮮に、時に大いなる悲しみのうちにおいても、なおよろこんで主にしたハイ、聖霊によって強められていくのです!アーメン」。

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