1.イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方
(1)ヘブライ人への手紙の一つの特徴は、信仰の先達、信仰の先祖を大切にしていることです。11章に、「信仰者列伝」が語られ、アベルから始まりまして、旧約の時代を生きた信仰の先達、信仰の先祖が語られていました。これに新約の時代を生きた信仰の先達、信仰の先祖を加えることが出来ます。更に、金沢教会144年の教会の歩みを生きた信仰の先達、信仰の先祖を挙げることが出来ます。私どもの信仰は、信仰の先達、信仰の先祖から受け継がれたものだからです。それを受けて12章1節以下の御言葉が語られました。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。
この御言葉と響き合う御言葉が、13章7節以下の御言葉です。「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」。ここでも信仰の先達、信仰の先祖を挙げています。神の言葉を語った指導者たちのことを思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。「生涯の終わりをしっかり見る」ことは、その方が何によって生かされたのかをしっかり見ることです。信仰の先達、信仰の先祖の信仰を見倣いなさい。言い換えれば、信仰の先達、信仰の先祖を生かした信仰の血を受け継ぐことです。その「信仰の血」こそ、イエス・キリストへの信仰です。
(2)「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」。この手紙の中心聖句です。愛唱聖句にされている方も多いでしょう。この御言葉は初代教会の讃美歌、あるいは信仰告白の一節であったと言われています。元の言葉の順序はこうです。「イエス・キリストは、きのうも今日も同じ方、そして永遠に」。礼拝で交読文のように告白された信仰の言葉です。司式者が言います。「イエス・キリストは、きのうも今日も同じ方」。会衆が応えます。「そして永遠に」。イエス・キリストは昨日も今日も、明日も、永遠に変わることのない方。私どもの信仰の先達、信仰の先祖の先頭に立たれる方は、昨日も今日も、明日も、永遠に変わることのないイエス・キリストです。それこそが信仰の先輩、信仰の先祖から受け継ぐべき信仰の血です。
2.わたしたちには一つの祭壇があります
(1)9節「いろいろな異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした」。この手紙の会衆も、私どもも異教社会の中を生きています。異教社会の風習は食事の儀式としばしば結び付きます。いろいろな異なった教えに迷わされてはなりません。特に、ユダヤ教には厳格な食物規定がありました。レビ記11章に、「清いものと汚れたものに関する食物規定」があります。食べて良い食物と食べてはいけない食物が厳格に区別されていました。しかし、主イエスはこのような食物規定から自由に食事をしました。食事の交わりを喜びとしました。それ故、主イエスは大酒飲みで大食漢との批判も受けました。食事の交わりの中心に主イエスが立って下さることにより、豊かな恵みの交わりとなりました。食事の交わりが、主イエスによって恵み豊かな交わりとなりました。その食卓の交わりの中心にあるのは、聖餐の交わりです。
(2)10節「わたしたちには一つの祭壇があります」。初代教会の礼拝は家の教会でなされました。それ故、神殿のように立派な祭壇があったわけではありません。ローマ帝国の迫害の最中にありましたので、地下のお墓、カタコンベで礼拝をしたこともありました。その時の祭壇は棺でした。棺の上に聖餐のパンとぶどう酒を置き、聖餐の恵みに与りました。「わたしたちには一つの祭壇があります」と言う時、それはキリストのいのち、聖餐を表しています。聖餐があるところ、そこに祭壇があります。粗末な祭壇かもしれませんが、しかし、キリストのいのち、聖餐があるところが、私たちの祭壇です。4章16節の言葉で言えば、「恵みの座」です。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。
10節「わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです」。この御言葉の背景には、レビ記16章「贖罪日の規定」があります。年に一度、大贖罪日に、大祭司は十戒が納められた神の箱が安置されている至聖所に入り、犠牲の雄牛、犠牲の雄羊の血を祭壇に振りかけます。神の民の罪に代わって、神の審きを受けたことを表しました。犠牲の雄牛、犠牲の雄羊の肉は宿営の外で焼き尽くされます。従って、犠牲の雄牛、犠牲の雄羊の肉を食することは出来ません。旧約の時代、贖罪日の規定が毎年、行われました。繰り返し犠牲の雄牛、犠牲の雄羊が献げられました。
しかし、主イエス・キリストが来られたことにより、新しい永遠の贖いが、ただ一度なされました。それが十字架の出来事です。この手紙の説教者は既に語りました。9章11節「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自分血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに降りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の霊によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」。
3.イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです
(1)12節「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです」。主イエスの十字架刑は、門の外でなされました。神の都エルサレムは城壁で囲まれています。罪人の処刑のゴルゴタの丘は、門の外にありました。神の民の生活の外で、罪人たちの処刑が行われました。主イエスが門の外で苦難に遭われたということは、私どもと同じ罪人となって十字架刑という苦難に遭われ、処刑を負われたことを表しています。主イエスは御自分の血で、罪のない血で、罪人である神の民を聖なる者とされたのです。
そして13節が続きます。「だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。わたしたちはこの地上に永続すべき都を持っておらず、来たるべき都を探し求めているのです」。私どもキリスト者は主イエスの御足の跡を踏み従います。その時、キリスト者も主イエスが受けられた辱めを担います。信仰を貫こうとすれば、様々な苦難に直面します。しかし、宿営の外に出て、主イエスの御許に赴こうではありませんか。私どもは主イエスによって拓かれた来たるべき都、天の故郷を目指して、地上を旅する神の民として歩んでいるのです。
(2)15節「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください」。大祭司イエスが自らを十字架で、犠牲のいけにえとして、ただ一度献げ、永遠の贖いを成し遂げられた。それ故、私どもは犠牲の雄牛、犠牲の雄羊をいけにえとして、繰り返し献げなくてもよいのです。私どもが献げるいけにえは、「賛美のいけにえ」です。素敵な言葉です。御名をたたえる唇の実を、感謝して絶えず神に献げるのです。「善い行いと施しとを忘れないでください」。礼拝における賛美のいけにえ、感謝のいけにえを表しています。
主イエスが拓かれた来るべき都、天の故郷を目指して、私どもは賛美のいけにえを献げながら、地上を旅する神の民なのです。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 1月8日の祈り ルカ17・5~6
「愛しまつる在天の父よ、あなたがわれらに与えてくださるあまりにも多くの力を感謝します。われらに明らかに示してくださる、あまりにも豊かな生のしるしを感謝します。すべてのみ守りを、われらの信仰と希望を守っていてくださることをも感謝します。そしてわれらは祈り願います。悪と不幸の世界の中にあってもわれらがあなたの証人えあり、この世のいのちにも、来たるべきいのちにものぞみを持ちうるようになるために、あなたご自身から来る霊が、いよいよわれらにしみとおるようにしてください。アーメン」