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2024年6月26日

「ヘブライ人への手紙を黙想する5~確信と希望に満ちた誇りを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家~」

ヘブライ人への手紙3章1~6節

牧師 井ノ川勝

1.使者であり大祭司であるイエスを仰ぎ見よう

(1)ヘブライ人への手紙は礼拝で語られた説教であると言われています。本日、黙想する3章は「だから」という言葉から始まっています。直前の文章を受けています。直前の文章は説教者が力を込めて語る信仰の核心です。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。この手紙・説教の主題は「大祭司イエス」です。大祭司とは神と私どもの間に立って、私どもの罪を執り成す存在です。そのために主イエスは私どもと同じ人間となられ、私どもの兄弟となって下さいました。ここで語られる「イエス」という名は、私どもと同じ人となられたお方を表しています。主イエスは私どもと同じ人となられ、私どもの兄弟となられたからこそ、私どもが直面するあらゆる試練を受けて、苦しんで下さいました。それ故、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。 この信仰の核心を受けて、「だから」と、3章1節以下が続きます。

                                                                              

(2)「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」。説教者は会衆に、「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と呼びかけています。「聖なる兄弟たち」という言葉は、新約聖書においてこの箇所だけです。「聖なる兄弟たち」とは、ただ神の恵みによって選ばれた兄弟たちという意味です。2章11節でこのような言葉がありました。「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」。主イエスは私どもの兄弟となられた。この説教が強調する点です。しかも主イエスは私どもを兄弟と呼ぶことを恥とはされない。すべての点で兄弟たちと同じになられ、試練を受けている者たちを助けることがおできになられる。「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」。天とは父なる神がおられるところです。主イエスが来られたところ。地上を旅する私どもが向かうところです。神によって召され、同じ召しに与っている聖なる兄弟たち。私どもが主イエスの兄弟と呼ばれ、兄弟同士の交わりの中に入れられたのは、神の召しによるものです。同じ神の召しに与っている兄弟の交わりに生きているのです。

 「わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」。「公に言い表している」。この説教者が強調する言葉です。4章14節、10章23節。私どもが信仰を言い表すことは、心の内でそっと言い表すことではありません。信仰をもって生きることは、この世界に信仰を証しすることです。教会が聖なる兄弟たちの交わりをし、礼拝を捧げていることは、この世界に向かって公に信仰を言い表していることです。一体何を公に言い表しているのでしょうか。「使者であり、大祭司であるイエス」です。主イエスは父なる神から遣わされた使者。父なる神と私どもの間に立ち、私ども兄弟のために執り成す大祭司。「使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」。「考えなさい」は「仰ぎ見る」という言葉です。この説教者が強調する言葉です。12章1~2節「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成車であるイエスを見つめながら」。

 説教者は会衆に呼びかけているのです。主イエスは私どもの兄弟となり、私どもと同じあらゆる試練を受けて下さった。だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスを仰ぎ見よう。

 

2.確信と希望に満ちた誇りを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家

(1)2節「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました」。ここで説教者は主イエスとモーセを比べて、主イエスはモーセに優ると語るのです。説教者が何故、主イエスとモーセを比べるのでしょうか。モーセは旧約を代表する存在です。エジプトで奴隷であったイスラエルの民をエジプトから脱出させ、荒れ野の40年の旅を経て、約束の地へ導きました。この説教も、天の故郷を目指し、地上の荒れ野を旅する神の民を語ります。教会の旅を導くお方が、使者であり大祭司である主イエスです。

 「モーセが神の家全体の中で忠実であった」。出エジプト記40章を指しています。荒れ野の40年の旅において、神が大切にされたのは礼拝です。40章1節「主はモーセに仰せになった。第一の月の一日に幕屋、つまり臨在の幕屋を建てなさい。あなたはそこに掟の箱を置き、垂れ幕を掛けて箱を隔て、机を運び入れ、その付属品を並べ、燭台を運び入れてともし火をともす」。幕屋に十戒の契約の板が入れられた箱を置きました。そこに神が御臨在される。それ故、「臨在の幕屋」と呼びました。16節「モーセは主が命じられたとおりにすべてを行った」。この御言葉がヘブライ人への手紙が語る「モーセが神の家全体の中で忠実であったように」です。「臨在の幕屋」を「神の家」と言い換えています。出エジプト記40章34節「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである」。

 「モーセが神の家全体に忠実であったように、イエスは御自身を立てた方に忠実であられました」。「忠実」という言葉もこの説教者が好む言葉です。2章17節「神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司」。神の召しに忠実であられる。

 

(2)3節「家を建てる人が家そのものより尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました」。家を建てる人は家そのものより尊ばれる。モーセは神の家に忠実であったが、主イエスは神の家・教会を建てるお方である。それ故、主イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされた。

 4節「どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです」。神こそが万物の創造者であり、神の家・教会の建築者。主イエスも神の家・教会の建築者であられる。

5節「さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです」。モーセは神の家で忠実に神に仕える祭司であった。それは将来語られることを証ししている。神の家を治める忠実な大祭司キリストを証ししている。

この手紙で重要な点は、主イエスへの呼び名です。1章の冒頭で「御子」と呼びました。「御父」に対して「御子」。御子は神であられる。2章9節で初めて「イエス」と呼びました。人となられたイエス。その後、ずっと「イエス」と呼び名が用いられました。そして3章6節で初めて「キリスト」という呼び名が用いられました。人となられたイエスは「キリスト」(救い主)であられる。「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです」。神の家・教会を治めるのは、牧師、長老ではなく、御子キリスト。再び「御子」が用いられます。神の御子キリストこそが神の家を忠実に治められる。

「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしこそ神の家なのです」。「確信と希望に満ちた誇り」。この説教者の愛用の言葉です。信仰をもって神の家を生きることは、確信と希望に満ちた誇りに生きる。主から与えられる信仰の確信と希望に満ちた誇りに生きる。「確信」という言葉は「大胆」という意味でもあります。「誇り」は「高慢」「傲慢」という意味もあります。神の家の忠実な大祭司キリストの仕える私どもは、主から与えられた誇りに生きる。この誇りは何よりも、神の御前でひざまずくことを知る誇りです。当時の神の家・教会に生きたキリスト者たちが、様々な試練の中で、主から与えられた信仰の確信と希望に満ちた誇りを失っていた。顔を上げられず、うな垂れてばかりいた。今日の私どもの姿と重なり合っています。信仰の確信と希望が持てないから、神の家に生きる誇りを持てない。「もし~ならば」という言葉は仮定を表すのではなく、「確かなこと」を表す言葉です。キリストは御子として神の家を忠実に治められている。それ故に、確信と希望に満ちた誇りに生きることが出来る私たちこそ神の家なのです。神の家は建物ではありません。主から与えられた信仰の確信と希望に満ちた誇りに生きる私たちこそ神の家なのです。この神の家をキリストは御子として忠実に治められるのです。

神の家・教会に生きる私どもが、いつも掲げる御言葉こそがこの御言葉です。「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです」。

 

3.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 6月26日の祈り ヨハネ一1・3

「主なる神よ、いかなる日にもわれらをあなたとの交わりにいれてください。あなたのいましめを果たすために、われらの心を備えさせてください。み心を行なうようにと、すべてのことにあって備えさせてください。もろもろの民のためにも、この世のためにも、全世界のためにも、われらの祈りを聞いてください。聖なるみ心を行なってください。窮乏に苦しむ者のすべてをおぼえ、正しい道に導いてください。あなたがわれらを導くすべての道にあって常によろこべるようにしてください。み名はわれらを助け、栄光は来たり、この世はあなたの愛と力と栄光に満ちるでしょう。アーメン」。

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