top of page

2024年7月10日

「ヘブライ人への手紙を黙想する7~神の安息にあずかるように努力しようではありませんか~」

ヘブライ人への手紙4章1~11節

牧師 井ノ川勝

1.取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけなさい

(1)ヘブライ人への手紙は礼拝で語られた説教だと言われています。説教とは聖書を説き明かすことです。4章の御言葉は、前回黙想した3章7節以下の続きの説教です。そこで朗読された聖書は詩編95編7節以下でした。「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。『あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように、心を頑なにしてはならない。あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。40年の間、わたしはその世代をいとい、心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。わたしは怒り、彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った』」。エジプトを脱出した神の民イスラエルが、約束の地を目指して荒れ野の40年の旅を続けたことが歌われた詩です。説教者は約束の地を「神の安息」と呼んでいました。今、説教を聴いている会衆も、天の安息を目指して地上の荒れ野を旅する神の民です。エジプトを脱出した神の民が心を頑なにして神の言葉に聴き従わず、約束の地に入れなかった者がいたように、あなたがたも神の安息に与ることが出来ないような不信仰に生きてはならないと、3章の結びで警告していました。それを受けて4章の説教が続いています。

 

(2)「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう」。説教は会衆の現実を語ります。「取り残されてしまったと思われる者」とは、地上の荒れ野の旅をする神の民・教会から離れてしまった者を指しています。山を登る時に、先頭としんがりに、登山の経験者を立てます。落伍者が出ないためです。洗礼を受け、天の安息を目指して地上を旅する神の民・教会に加わったにもかかわらず、様々な試練によって旅する民から取り残された者がいることを、説教者は心痛めながら語っています。そして会衆に呼びかけています。「神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう」。

 2節「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです」。神の民イスラエルの荒れ野の40年の旅を導いたのは、神の言葉でした。しかし、神の民イスラエルは頑なな心で神の言葉を跳ね返し、聴こうとしませんでした。神の言葉が日々の歩みと結び付かなかった、役に立たなかったからです。説教者は神の言葉を「福音」(喜びの知らせ)と語ります。福音は私どもの日々の生活、旅の歩みと結び付くものです。「結び付く」という言葉は、「混じり合う」という意味です。「礼拝から生活へ、生活から礼拝へ」。これは私どもの信仰生活を表す大切な主題です。礼拝で聴いた御言葉が私どもの日々の生活と結び付き、混じり合うのです。礼拝で聴いた御言葉が日々の生活と役に立たない言葉となったなら、それは信仰の危機です。旅を続ける足取りが挫かれます。

 

2.神の安息にあずかるはずの人々がまだ残っている

(1)3節「信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。『わたしは怒って誓ったように、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」』と言われたとおりです」。神の言葉を信じ、それが日々の生活を導く杖となっている私どもは、神の安息、天の安息に与る約束が与えられています。

 3b節「もっとも天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。なぜなら、ある箇所で7日目のことについて、『神はすべての業を終えて休まれた』と言われているからです。そして、この箇所でも改めて、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と言われています」。説教者は神の安息を主題として語っています。荒れ野の40年の旅をした神の民イスラエルは、約束の地を目指しました。約束の地を神の安息と呼びました。更に、説教者は神の安息を語るのに、創世記2章1節以下の御言葉に触れます。

「天地万物は完成された。第7の日に、神は御自分の仕事を完成され、第7の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第7の日を神は祝福し、聖別された」。神の天地創造の御業です。神は6日間で天地万物を創造され、完成され、7日目に安息なさった、祝福されました。出エジプト記20章の「十戒」の第4戒めは、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」。神の安息にあなたがたも与ることが、祝福されることです。申命記5章の「十戒」の第4戒は、出エジプトの神の御業、約束の地へ導かれた神の御業を想い起こすことが、神の安息、祝福与ることです。天の安息を目指し、地上を旅する神の民・教会にとって、天の安息が永遠の安息、神の祝福です。

 

(2)6節「そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、再び、神はある日を『今日』と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、『今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない』とダビデを通して語られたのです」。説教者は、天の安息を目指し地上を旅する神の民・教会から離れて行った教会員のことに心痛めています。再び詩編95編の御言葉を語ります。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」。旅を続ける神の民・教会から離れて行った教会員にも、神は今日、御言葉をそして私どもと共に、天の安息を目指し旅を続けようではないかと招いているのです。この方々も、神の安息に与るはずの残された人々です。

 

3.わたしたちは神の安息にあずかるように努力しようではありませんか

(1)8節「もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。それで、安息日の休みが神の民に残されているのです」。エジプトを脱出した神の民イスラエルを約束の地カナンへ導いたのは、モーセの後を継いだヨシュアでした。しかし、カナンという地上の約束の地が神の安息ではありません。神が天地創造の業を終えられ、7日目に休まれた。その神の安息に与ることが永遠の安息です。説教者が11章で語る「天の故郷」です。「イエス」という名はヘブライ語で「ヨシュア」です。主イエスは新しいヨシュアとして、天の故郷、永遠の安息へ導く信仰の創始者であり完成者です。「安息日の休み」という言葉はこの箇所です。天の故郷こそ、永遠の安息日の休みです。

 10節「なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです」。天の故郷を目指し地上を旅する神の民・教会において、私どもの先頭に立って歩まれた信仰の先達がいます。今、信仰の創始者であり完成者である主イエスに導かれて、天の故郷、永遠の安息に与っています。その後に続き、地上を旅する私どもを天から声援を送っています。12章1節「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。

 

(2)11節「だから、わたしたちはこの安息にあずかるよう努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません」。「だから、~しようではありませんか」。この言い回しは、この説教者が好む言い回しです。16節「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。説教者の呼びかけの言葉です。同時に、私どもの神の民・教会の旅を先頭に立って導かれる主イエスの呼びかけの言葉です。「だから、わたしたちは神の安息、永遠の安息に与るよう務めましょう」。旅を続ける私どもがお互い励まし合いながら、落伍者が出ないように、天の安息を目指して旅を続けるのです。

 

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 7月10日の祈り 詩編95・6~7

「主よ、われらの神よ、われらのうちにあってあなたに由来する永遠なるものを強めてください。善にして正しく真実なるものを強めてください。われらに賜物を与えてくださり、そのあなたに由来するものが外へますます働きかけるようになり、困窮と史にも凱旋をあげ、自分にはなお謎であるすべてのことにあっても、確信を持って平安を待つことができますように。聖なる霊とみ名のために、善なるもの、いのちあるものが、必ず生ずるにちがいないと確信するのです。われらは自分自身をみ手にゆだねます。われらのもとにとどまってください。そしてわれらの人生がひとつの召しを得て、自分の外面的な仕事においても、いかなる自分の行為においても、聖霊がわれらのうちに置いてくださった高貴なるものを感じとることがゆるされますように。アーメン」。

bottom of page