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2024年7月17日

「ヘブライ人への手紙を黙想する8~わたしたちには偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから~」

ヘブライ人への手紙4章12~16節

牧師 井ノ川勝

1.神の言葉は生きており、力を発揮し、両刃の剣よりも鋭く

(1)聖書の御言葉を黙想する時に大切なことがあります。「木を見ながら森を見、森を見ながら木を見る」ことです。一節の御言葉を黙想しながら、ヘブライ人への手紙全体の中でどのような位置にあるのかをいつも心に留めることです。ヘブライ人への手紙は4つの部分に分けることが出来ます。第1部は1章1節~4章13節、「神の言葉への服従」。第2部は4章14節~10章31節、「大祭司キリストを見上げつつ、恵みの御座に近づこう」。第3部は10章32節~13章19節、「耐え忍んで、営所の外に出よう。第4部は13章20~25節、「祝福の祈りと終わりの挨拶」。今日の御言葉、4章12節~16節は、第1部の結び、第2部の始めです。

まず、第1部、1章1節~4章13節、「神の言葉への服従」を見ましょう。ヘブライ人への手紙はこういう言葉から始まりました。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。神は旧約の時代、預言者たちにより、様々な仕方で、神の言葉を語られました。今、終わりの時代、新約の時代に、神は御子により、私どもに神の言葉を語られました。そして私どもの信仰の要である御子はどのような方なのかが、旧約聖書の御言葉を挙げて語られます。ヘブライ人への手紙は礼拝において語られた説教であると言われています。説教は聖書の御言葉を説き明かすことです。3章7節で、「だから、聖霊がこう言われるとおりです」と語りつつ、旧約聖書の御言葉を挙げ、説き明かしています。聖書の御言葉を語る時、そこに聖霊が語られています。

(2)そして第1部の結びである4章12~13節です。「神の言葉への服従」という主題の結びです。私どもがこの手紙の中で、心に留めている御言葉の一つです。「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄を切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」。神の言葉が語られる時、そこで聖霊が語られ、生きた言葉となって私どもに迫って来ます。私どもの生き方を変える力を発揮します。どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄を切り離す程に刺し通します。私どもの頑なな存在を切り離します。前回、詩編95編の御言葉が引用され、繰り返し語られました。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」。更に、神の言葉は私どもの心の奥底にある思いや考えを見分、明らかにする力を有しています。

 13節「更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」。「神の御前」という言葉は礼拝を表す言葉です。神の言葉が語られる時、神の御前で全ての被造物が隠されず、明らかにされます。全てのものが神のまなざしの許、裸にされます。隠していた罪が曝け出されます。神に対して、私どもは自らの罪を告白せざるを得なくなります。パウロの礼拝理解と響き合います。コリントの信徒への手紙一14章24~25節。

2.大祭司キリストを見上げつつ、恵みの御座に近づこう

(1)4章14節から第2部が始まります。10章31節まで続きます。この手紙・説教の本論です。主題は「大祭司キリストを見上げつつ、恵みの御座に近づこう」。この手紙・説教が証しする主イエスは、大祭司イエスです。本日、黙想する4章14~16節は、説教者が最も強調したい主イエスへの信仰が語られています。教会の信仰告白です。

 14節「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」。「わたしたちのは~が与えられているのですから、~しようではありませんか」。この説教者が好んで用いる言い回し、定型句です。説教者が会衆に呼びかけ、共に信仰を言い表そうと勧めています。「わたしたちの公に言い表している信仰」。「今、言い表している信仰」という言葉を、新共同訳は「公に言い表している信仰」と訳しました。一人一人の信仰が個人の信仰ではなく、教会の信仰に連なっていることを言い表しました。教会の礼拝は身内が集まって、閉鎖的な交わりをしているのではありません。神の御前で、この世に向かって、自分たちの信仰を公に言い表しているのです。「わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」。

「信仰をしっかり保つ」。それは神によって与えられた信仰を、人生の終わりまで保ち続けることです。様々な試練が渦巻き、与えられた信仰を失ってしまう者が多くいるからです。この手紙・説教には切り返し警告が発せられます。2章1節「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」。3章12節「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい」。4章1節「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう」。4章11節「だから、わたしたちはこの安息にあずかるよう努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません」。

「信仰をしっかりと保とうではありませんか」。この御言葉は3章14節と響き合っています。「わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです」。

(2)14節「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから」。「もろもろの天を通過された」、面白い表現です。天へ通じる道には幾重にも層があり、そこに私どもを脅かす諸霊が生きていると言われていました。しかし、主イエスはもろもろの天を通過されて、私どものところに来て下さいました。甦られ、もろもろの天を通過されて、父なる神の御許へ行かれました。私どもが経験するあらゆる試練を潜り抜け、それらを打ち破って下さった。

 「もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエス」。私ども教会が公に言い表している信仰です。「偉大に大祭司」。既に2章17節で言い表されていました。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」。主イエスは「偉大な大祭司」。大祭司の中で最も偉大である。旧約の時代、贖罪日に、大祭司は神殿の至聖所に入ります。そこに十戒の契約の板を入れた神の箱が安置され、神が御臨在されていました。大祭司はしみも傷もない犠牲の小羊の血を祭壇に注ぎ、神の民の罪が赦されたことを執り成しました。レビ記16章「贖罪日の規定」。

 主イエスは「偉大な大祭司」であり、「神の子」である。この手紙・説教は冒頭で、主イエスは「御子」である告白から始まりました。「御子」であるということは、神であられることです。その信仰が再びここで強調されます。「神の子イエス」。意外かも知れませんが、この表現は新約聖書ではこの箇所だけです。主イエスはもろもろの点を通過された「神の子」、神であられ、同時に、人となられ、私どもの罪を執り成す「偉大な大祭司」であられる。

3.はばかることなく恵みの座に近づこうではありませんか

(1)15節「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく」。「わたしたちの弱さ」。様々な試練を受けて、生ける神から離れてしまいようになる。天の故郷を目指し地上を旅する神の民・教会から離れてしまいようになる。大祭司イエスは私どもの弱さに同情できない方ではない。「同情」という言葉は英語の「シンパシィ」「共感」です。「共に苦しむ」という意味です。大祭司イエスは私どもの弱さに、共に苦しんで下さる。「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。大祭司イエスは「罪を犯されなかった」、その点で神であられる。しかし、あらゆる点で、私どもと同様に、あらゆる試練に遭われた。真に人となられた。私どもが出会う試練で、主イエスが経験されない苦しみはない。だから、大祭司イエスは私どもの苦しみを共に苦しんで下さる。同情して下さる。私どもは試練の中で、大祭司イエスに執り成されているのです。2章17節の御言葉と響き合っています。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。

主イエスは「偉大な大祭司」。それは、十字架で自らのいのちを私どものために献げ、私どもの罪に血を注ぎ、贖って下さり、執り成して下さったからです。

(2)16節「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。「だから、わたしたちは~しようではありませんか」。説教者の定型句です。「恵みの座」という表現はこの手紙のみです。神が御臨在されるところです。生けるキリストが御臨在されるところです。カトリック、聖公会、メソディスト教会は、「恵みの座」に進み出て、聖餐に与ります。「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。「大胆に」はこの手紙の説教者が好む表現です。口語訳では「はばかることなく」。大祭司イエスが犠牲の小羊となって自らの血を注いで下さった。だから、罪人である私どもは憚ることなく、恵みの座に近づき、キリストのいのち・聖餐に与ることが赦されているのです。

4.御言葉から祈りへ(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳)7月17日 イザヤ61・1~2 「主よ、われらの神よ、あなたはイエス・キリストにおいて、人々の間の光です。われらはよろこびと確信に満ちて祈り願います。われらをあなたの全能と結びつけてください。すべての暗黒、すべての罪、すべての死、すべての束縛と戦うあなたの力と結びつけてください。われらにそのようなあなたの全能と交わることをゆるし、われらの嘆息を聞いてください。なぜならばわれらはあなたの子であり、そのことは変わることがないのです。あなたはわれらに救いと解放を約束してくださいました。われらはともにその約束にとどまり、みまえにこう申します。われらはあなたがお送りくださった救い主イエス・キリストのゆえにあなたの子です、と。あなたの子らの祈りを聞いてください。子らのひとりびとりをすべて祝福し、民全体として祝福してください。この時代と世界のいっさいの悲惨の中にあってあなたに仕えることをゆるされている僕として祝福してください。アーメン」。

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