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2023年11月15日

「ヨハネの黙示録を黙想する10~見よ、開かれた門が天にあった~」

ヨハネの黙示録4章1~11節

牧師  井ノ川勝

1.見よ、開かれた門が天にあった

(1)旧約聖書の学びを終え、ヨハネの黙示録の学びを始める時に、教会員の何人もの方が言われたことがあります。「黙示録は恐ろしい御言葉だと思っていた」。このような先入観は外からもたらされた誤解です。黙示録の一つの特徴は讃美歌に満ち溢れていることです。その中心にある讃美歌が4章で歌われています。「聖なるなか、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」。主日礼拝で賛美する頌栄です。讃美歌21-83,25,351.「聖三唱」と呼ばれます。この讃美歌はどこから聞こえて来たのか。天上の礼拝からです。地上の礼拝はローマ帝国の迫害により、礼拝者が一人また一人捕らえられ、殺され、減少して行く。賛美の声も小さくなって行く。そのような最中、天上の礼拝から大きな賛美の歌声が聞こえて来る。天上の賛美が地上の賛美、礼拝を支えていることを、伝道者ヨハネは実感しました。

 

(2)ヨハネの黙示録は、主の日、パトモスの島で礼拝していた伝道者ヨハネに、甦られた主イエス・キリストが現れ、天上の幻を見、書き留めたものです。2~3章は、伝道者ヨハネがかつて伝道・牧会したアジア州にある7つの教会に宛てた手紙が記されていました。4章より愈々、天上の幻、天上の礼拝が語られます。こういう言葉で始まっています。「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった」。主の日の礼拝で、甦られた主イエス・キリストが伝道者ヨハネに現れた時、こう語られました。1章17b節「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」。死と陰府の鍵を持つ甦られた主キリストが、天の門の扉を開け、礼拝の中で見させて下さるのです。

 1b節「そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。『ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう』。天の門の扉が開かれると、ラッパのように響く声、あの最初の声、主キリストの声が聞こえて来た。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう」。

 

2.見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた

(1)2節「わたしはたちまち霊に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座に座っている方がおられた」。5章10節にこのような賛美が歌われています。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」。天上の礼拝の玉座に座っておられるのは、私たちの神と、十字架にかけられ、甦られた小羊キリストです。地上の玉座にはローマ皇帝が座し、「わたしこそ神、主である」と皇帝礼拝を強要している。しかし、天上の玉座に座っておられる私たちの神、小羊キリストこそ、天と地を支配される神、主である。3節「その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた」。天の玉座に座られる神は碧玉や赤めのうのように輝いておられた。玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。ノアの洪水の物語で語られた天と地を結ぶ神の契約の虹です。

 4節「また、玉座の周りに24の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった24人の長老が座っていた」。「24の座」。24は12と12から成り立ちます。12は完全数で、共同体が成り立つ数です。一つの12はイスラエル12部族、イスエラエル民族です。もう一つの12は主イエスの12弟子から成り立つ「新しいイスラエル」である教会です。地上を生きるキリスト教会は一方でローマ帝国の迫害を受け、他方でユダヤ教会から迫害を受けていました。神に選ばれたイスラエル民族と、主イエス・キリストにあって民族を超えた新しいイスラエルである教会の土台が、天上の玉座の周りの24の座にあるのです。24の座の上に白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった24人の長老が座っていました。「白い衣を着た者」は、私どもに先立ち、信仰の旅路を走り抜き、天上の礼拝へ召された者たちです。殉教の死を遂げた者たちです。旧約の時代、神の宮に仕えていた祭司たちは24組に分かれ、当番制で神殿に仕えていました。聖歌隊も24組に分かれ、交代で神の御前で賛美をしました。24人の長老は祭司の役目をし、聖歌隊の役目をしていた。長老は何よりも人々の先頭に立って主に仕え、礼拝する者です。

 

(2)5節「玉座からは、稲妻、さまざまな音、雷が起こった」。天上の礼拝は神の声が鳴り響いていた。「また、玉座の前には、7つのともし火が燃えていた。これは神の7つの霊である。また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海であった」。このような黙示文学的な表現は、エゼキエル書1章にもありました。捕囚の地バビロンで、天使を通して見た天の幻です。

 5b節「この玉座の中央とその周りに4つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。第1の生き物は獅子のようであり、第2の生き物は若い雄牛のようで、第3の生き物は人間のような顔を持ち、第4の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。この4つの生き物には、それぞれ6つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった」。「4つの生き物」は4つの福音書を表すと言われています。マルコ福音書は、力ある主イエスの御業を語っているので獅子を象徴します。ルカ福音書は、御自身をいけにえとしてまで人間を愛された主イエスの愛を語っているので、いけにえとされた雄牛を象徴します。マタイ福音書は、人間的なイエスを語っているので、人間を象徴します。ヨハネ福音書は、生き生きとした霊的な力を証ししているので、鷲を象徴します。

 

3.聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな

(1)これらの4つの生き物はそれぞれ翼を持っていた。「彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方』」。イザヤ書6章の預言者イザヤの召命を想い起こします。エルサレム神殿の祭司であったイザヤは、神殿で天使を通して天の幻を見ました。「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た」。天使が6つの翼を持ち、賛美した。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」。この讃美歌に共鳴する讃美歌が、ヨハネ黙示録で最初に天上の礼拝で歌われた讃美歌です。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」。イザヤ書の賛美歌と決定的に異なるのは、玉座に座っておられる私たちの神、主への賛美と共に、小羊キリストを賛美していることです。「かつておられ、今おられ、やがて来られる方(今、将に来たりつつある方)」。ヨハネ黙示録の中心にある小羊キリストへの賛美です。1章8節で語られていました。

 9節「玉座に座っておられ、世々限りなく生きておられる方に、これらの生き物が、栄光と誉れをたたえて感謝をささげると、24人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った」。ヨハネ黙示録には、「ひれ伏す」「礼拝する」という言葉が繰り返されます。5・8、14,7・11,11・16,19・4,22・9.私たちの神、主、小羊キリストを礼拝することを促しています。その意味で、神、キリストを礼拝する者でないと分からない御言葉です。神、キリストを礼拝する者にこそ分かる御言葉です。ここでも天上の24人の長老が、私どもの先頭に立ち、真っ先にひれ伏し、礼拝しています。

 

(2)24人の長老はひれ伏し、礼拝し、賛美しました。11節「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」。讃美歌は信仰告白です。戦いの武器です。この讃美歌には皇帝礼拝への否が歌われています。「主よ、わたしたちの神よ」。冒頭のこの呼びかけは、ローマ皇帝が自らを礼拝する時に、呼びかけさせた言葉です。しかし、天上の24人の長老に倣って、地上を生きるキリスト者も、神、小羊キリストのみに賛美を捧げました。「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方」。主イエスが教えられた「主の祈り」の「国と力と栄えとは限りなく、汝のものなり」と響き合います。「あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」。万物を造られ、支配しているのは、ローマ皇帝ではなく、神である。ローマ帝国の迫害の中で、しかし、天上の礼拝の賛美に支えられ、私たちの神、主、小羊キリストを賛美することにより、自分たちの信仰を形造り、地上の歩みを形造って行ったのです。

 

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 11月15日の祈り 詩編67・6~7

「主よ、われらの神よ、この世が祝福されるためにわれらを祝福してください!全世界に助けが与えられるために、われらを助けてください!イエス・キリストによって、われらにとって恵みある方となってください。キリストは全世界のためにそのいのちを捨てられました。み国は存立し、終局に至るのだということを、善き祝福された終局に至るのだということを、すぐに明らかにしてください。われらが心に抱くすべての関心事、願いごとにおいてわれらひとりびとりをもすべて祝福してください。それをかなえさせて、われらがいかなる日々においても、賛美し、感謝することができるようにしてください。至るところにおいて、すべての恐怖を貫いて、み心を明らかにし、至なんとする者でさえもあなたをたたえ、賛美し、苦しまなければならない者にもすべてみ顔を仰ぎ、み光をとらえ、たたえ、感謝することができるようにしてください。それゆえに主なる神よ、すべてをあなたにゆだねます。われらはあなたを待ちこがれます。み心は行なわれるにちがいありません。そのことをわれらは知っています。み名は崇められるにちがいありません。そのことをわれらは知り、信じています。それゆえにわれらはよろこび、あなたに感謝するのです。アーメン」。

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