1.立って神の神殿と祭壇とを測り、そこで礼拝している者たちを数えよ
(1)新しい年が大きな地震に遭遇するとは思ってみなかったことです。そのような試練の中で、ヨハネ黙示録11章の御言葉を黙想することから始めます。ある方がこの11章はヨハネ黙示録の中心だと語りました。そのような重さを持っている章です。ヨハネ黙示録は、ローマ帝国の迫害下、流刑されたパトモスの島で、主の日、伝道者ヨハネが数名の者と礼拝を捧げている時、ご復活の主イエス・キリストが現れ、天上の幻を見させられたことを書き留めたものです。礼拝の中で生まれた言葉、祈りの中で生まれた言葉です。伝道者ヨハネはこれまで天上の幻を見るという受け身でした。ところが、この11章で、初めてヨハネは神の御業に参与させられます。
(2)11章はこういう言葉から始まっています。「それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。『立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ』」。ヨハネは杖のような物差しを与えられます。天の幻の中に建つ神の神殿と祭壇とを測るためです。基になっている旧約聖書があります。一つはエゼキエル書40章3節、幻の中で天使が麻縄と測り竿を持ち、エゼキエルに新しいエルサレム神殿を測ってみせた。もう一つはゼカリヤ書2章5節の「第3の幻」。天使が測り縄を手にし、エルサレムを測ると言われた。預言者エゼキエルも、ゼカリヤも、新バビロニア帝国によって、エルサレム神殿は破壊され、地上にエルサレム神殿を見ていません。しかし、幻の中で再建される新しいエルサレム神殿を見、測るのです。ヨハネもまた、紀元70年にローマ帝国によりエルサレム神殿が破壊され、地上にエルサレム神殿を見ていません。しかし、幻の中で新しいエルサレム神殿を見、測る業に参与させられています。
ここで注目すべきは、建物を測るだけでなく、そこで礼拝している者たちを数えるよと命じられていることです。教会は建物も大切ですが、何よりも重要なことは、そこで礼拝している者たちの数です。礼拝者こそが神の神殿です。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿です」(コリント一6・19)。ローマ帝国の迫害の中で、礼拝する者の数がどんどん減少して行く。しかし、たとえ人数が少なくなっても、まだ礼拝している者がいる。その数を数えよ。
2.わたしは二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう
(1)2節「しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである」。ローマ帝国の軍隊がエルサレムに攻め上り、陥落させようとする。神殿の外にまで迫って来ている。神殿の中では危機的な状況であっても、礼拝している者たちがいる。ローマの軍隊は神殿の外の庭にいる。ローマ皇帝を神と礼拝し、キリスト者が礼拝する神を信じ、神を礼拝しない者たちです。そのような異邦人は数えるな。
2b節「彼らは、42か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう」。ローマの軍隊が聖なる都エルサレムを踏みにじるのは、42か月の間。ヨハネ黙示録には様々な数字が用いられます。「42か月」は3節では「1260日」です。42か月、1260日は3年半です。これもダニエル書12章7節が土台にあります。「一時期、二時期、そして半時期たって」。一年、二年、三年、半年経って。7が完全数ですから、3年半は不完全数です。ローマ軍の支配は永遠に続かない、3年半で終わる。年数に限りがある。
3節「わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、1260日の間、預言させよう」。神は自分が立てた二人の証人に粗布を纏わせる。粗布とは悲しみ、悔い改めの象徴です。二人の証人が1260日間、3年半の間、ローマ軍に悔い改めを迫るため、神から預言の言葉が授けられる。4節「この二人の証人とは、地上の主の御前に立つオリーブの木、また二つの燭台である」。これもゼカリヤ書4章が土台です。14節に「二本のオリーブの木」とは、「全地の主の御前に建つ、二人の油注がれた人たち」です。「油注がれた者」は「メシア」という意味です。後にキリストを現す言葉となりました。しかし、ここでは大祭司ヨシュアと王ゼルバベルを指し示しています。「二つの燭台」とは、ヨハネ黙示録1章20節に、「7つの星と7つの燭台」があり、7つの星は天使、7つの燭台は教会を指していました。異邦人が支配する神の庭がなお、神の庭となるためには、神の明かりが灯っていなければなりません。そこに預言をする、御言葉を語る教会がなければなりません。ヨシュア、ゼルバベルの務めを引き続き祭司と王の役目をするのは、何よりも教会です。主イエスは弟子たちを伝道に派遣する時、いつも二人でした。御言葉を語り、執り成しの祈りを捧げ、神の支配を告げるのは、教会です。教会に連なる伝道者、キリスト者です。
(2)5節「この二人に害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。この二人に害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される」。教会の武器は何よりも御言葉です。口から火が出るは、御言葉の火です。それが敵を滅ぼす。
6節「彼らには、預言をしている間ずっと雨が降らないように天を閉じる力がある。また、水を血に変える力があって、望みのままに何度でも、あらゆる災いを地に及ぼすことができる」。「雨が降らないように天を閉じる力」は、列王記上17章の預言者エリヤを現します。「水を血に変える力」は、出エジプト記7章14節~24節のモーセを現します。二人の証人とはエリヤの力とモーセの力を持つ者です。それが預言、御言葉を語る教会に、伝道者に、キリスト者に与えられている。
3.3日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った
(1)7節「二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう」。「底なしの淵」とは9章で、第5の天使がラッパを吹いた時に、底なしの淵に通じる穴が開かれたとありました。陰府を表します。底なしの淵から一匹の獣が上って来て、二人の証人を殺してしまう。この獣こそ、ローマ皇帝を表します。ローマ皇帝は二人の証人を殺す。「証人」は「殉教者」を意味する言葉となりました。ヨハネ黙示録は殉教の備える覚悟を迫る御言葉です。多くの伝道者、キリスト者が殉教の死を遂げました。伝道者ヨハネにも殉教を迫っています。
8節「彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される」。「ソドム」は創世記19章で、神によって滅ぼされた不信仰の町です。イザヤ書1章9節「わたしたちはソドムのようになり、ゴモラに似たものとなっていたであろう」。「ソドムと「ゴモラ」は不信仰の町の象徴とされました。「エジプト」は神の民を奴隷として苦しめた国です。やはり神に背く代名詞です。二人の証人の死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。「大きな都」はエルサレムを意味している。
8b節「この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである」。二人の証人の主イエスも、エルサレムで十字架につけられた。神の背く者たちは、神が遣わされた御子さえ十字架につけて殺す。1章5節に、イエス・キリストを紹介する最初に、「証人」(殉教者)と紹介している。
9節「さまざまの民族、諸族、言葉の違う民、国民に属する人々は、3日半の間、彼らの死体を眺め、それを墓に葬ることを許さないであろう」。ここでも7日という完全数ではなく、3日半の不完全数です。永遠に続かない。限定された日数です。10節「地上の人々は、彼らのことで大いに喜び、贈り物をやり取りするであろう。この二人の預言者は、地上の人々を苦しめたからである」。厳しい言葉です。地上の人々は二人の証人の死体を眺め、大いに喜び、贈り物をやり取りする。二人の証人が「二人の預言者」と言い換えられています。二人の証人が語る預言の言葉、それは「十字架の言葉」(コリント一1・18)、「十字架につけられたキリスト」(1・23)です。それはユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなものです。人々は教会が語る言葉を喜んで聴かない。むしろ苦しめる。そういう言葉を教会は伝道し、語る。
(2)11節「3日半たって命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた」。これもエゼキエル書37章7~9節が土台としてある。「わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主はわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る』」。十字架につけられた主イエスが三日目に甦らされたように、死んだ二人の証人・教会が神の霊を注がれて、生き返る。教会を再生させるものは、ただ神の霊のみ。
12節「二人は、天からの大きな声があって、『ここに上って来い』と言うのを聞いた。そして雲に乗って天に上った。彼らの敵もそれを見た」。甦った二人の証人は天に上って行く。13節「そのとき、大地震が起こり、都の十分の一が倒れ、この地震のために7千人が死に、残った人々は恐れを抱いて天の神の栄光をたたえた」。神の審きを受け、なお残った者は恐れを抱き天の神の栄光をたたえるという驚くべき出来事が起こる。14節「第二の災いが過ぎ去った。見よ、第三の災いが速やかにやって来る」。
4.御言葉から祈りへ (1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 1月3日 エフェソ3・14~15
「主よ、われらの神よ、われらは今あなたのみまえに集まり、感謝を捧げます。あなたはすべてのみことばにおいて、あなたご自身を与えてくださいました。そのことによってわれらがあなたにしたがう者となり、子となることができ、いかなる時、いかなる運命、いかなる生の中にあっても、信頼と信仰によって耐え忍ぶことができるようにしてくださるのです。われらの日々の生の中であなたのみ手を強めてください。困難がまし加わり、悲しみの時が来ようとも、み民をみ手のうちに支えてください。われらは堅く立ちたいのです。信仰を持ちたいのです。この地上が」どんなに悪く思える時にもそうなりたいのです。あなたはわれらを強めてくださることができる方です。人間の力では、われらにはどうにもなりません。あなたの力が、聖霊の力がわれらを立たしめ、いかなる時にも元気よく、よろこぶものとしてくださるのです。われらはあなたの民なのです。子なのです。悲しみの時にも、み手のうちにあってよろこびたいのです。アーメン」。