1.一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には12の星の冠をかぶっていた
(1)ヨハネの黙示録は、伝道者ヨハネが主の日、甦られた主イエス・キリストによって、見させられた天上の幻を書き留めたものです。玉座に座られた神が手にしていた7つの封印をされた巻物が次々に開かれます。最後の封印が開かれると、7人の天使が次々にラッパを吹き鳴らします。第7の天使がラッパを吹くと、最後の災いが起こります。その最後の災いの出来事が愈々、12章から始まります。ここで起きている出来事は終末に起こる出来事であり、同時に、歴史において今、起きている出来事でもあります。
12章はこういう言葉から始まっています。「また、天に大きなしるしが現れた」。天に現れた「大きなしるし」とは何でしょうか。「一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には12の星の冠をかぶっていた」。「一人の女」とは誰なのでしょうか。「頭には12の星の冠」をかぶっていた。12部族から成るイスラエル共同体・神の民を現すとも言えます。預言者は神を夫、神の民を十戒の契約を結んだ妻、花嫁と言い表しました。しかし、ここではイスラエル12部族から成る神の民を受け継ぐ、主イエスによって召集された12使徒から成る新しいイスラエル・神の民、すなわち「教会」を現していると言えます。教会は「母なる教会」と呼ばれて来ました。キリスト者を生み出す母胎であるからです。私どもキリスト者は、神を父と呼び、教会を母と呼ぶ信仰に生きます。カルヴァンが重んじたことです。2節「女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた」。女は今将に、生みの苦しみにあった。新しい命の誕生という希望には、生みの苦しみが伴います。
(2)3節「また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である」。もう一つのしるしは、火のように赤い竜が現れた。教会である女と対峙する存在です。「これには7つの頭と10本の角があって、その頭には7つの冠をかぶっていた」。「竜の尾は、天の星の3分の1を掃き寄せて、地上に投げつけた」。誠に荒々しい竜です。更に驚くべきことをしています。「そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた」。恐るべきことに、竜は女が産もうとしている子を食べようとしている。この竜とはサタン、悪魔を現しています。私どもが生きる歴史は、絶えず竜のようなサタンが暴れています。ルターは絶えず悪魔の攻撃を感じていました。黙示録の竜はローマ皇帝を暗示している。
5節「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた」。この言葉は詩編2編の「王の即位の歌」で用いられています。詩編2編7節「主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち、陶工が器を砕くように砕く』」。主イエスがヨルダン川で、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、天から聖霊が降り、神がこの御言葉を告げられました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1・11)。主イエスが新しい王として立てられる宣言です。女が産んだ男の子とは、主イエスです。この女は教会であり、教会を象徴するマリアだとも言われています。デューラーがこの場面を版画で描いていますが、竜に対峙する女をマリアのように描いています。女から生まれた子・主イエスは、サタンである竜に闘いを挑まれる。6節「女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が1260日間養われるように、神の用意された場所があった」。1260日は3年半です。完全数の半分です。サタンの支配は永遠に続かない。しばらくの間、悪魔の誘惑、試練がある。
2.今や、我々の神の救いと力と支配が現れた、神のメシアの権威が現れた
(1)7節「さて、天で戦いが起こった」。天での戦いは地上でも起こることです。「ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである」。ミカエルとはダニエル書12章に登場していました。大天使長です。12章1節「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く、国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう」。「その時」とは「終わりの時」です。終わりの時、大天使長ミカエルが立ち、勝利、救いをもたらす。4節「ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい」。封印された書が開かれ、大天使長ミカエルが現れ、竜に戦いを挑む。「竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった」。この大天使長ミカエルとは誰なのでしょうか。主イエス・キリストです。サタンは主イエス・キリストに勝てなかった。
9節「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンと呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた」。主イエス・キリストに勝てなかったサタンは天に居場所を持たず、地に投げ落とされた。「投げ落とされた」という言葉が3回も用いられています。天に居場所をもたないサタンは、「堕落した天使」と呼ばれています。ここで初めて「巨大な竜」が「年を経た蛇」「悪魔とかサタン」とか呼ばれるものと、その正体を明らかにしています。アダムとエバを誘惑し、神に背かせた蛇が、老練となって登場します。天に居場所をもたないサタンは、地上で暴れ回ります。
(2)10節「わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた」。神の勝利宣言です。「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた」。今や、主イエス・キリストにおいて、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである」。サタンを「告発する者」と言い換えています。元々、サタンは「告発する者」という言葉から生まれました。神の御前で私どもの信仰の欠点を告発する者です。ヨブ記に登場した堕落した天使も、神に対し、ヨブの信仰を告発しています。しかし今や、メシアの権威を担う主イエス・キリストによって、告発する者であるサタンは地に投げ落とされた。
11節「兄弟たち、小羊の血と、自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは死に至るまで命を惜しまなかった」。主イエス・キリストはサタンと孤軍奮闘をされているのではない。仲間と共に戦っておられる。その仲間こそ教会に連なる兄弟たちと呼ばれる、私どもキリスト者です。私どもキリスト者の武器は、小羊キリストの十字架で流された血と、キリストを証しする証しの言葉で、サタンに立ち向かいます。彼らは「死に至るまで命を惜しまなかった」。殉教の死を惜しまなかった。黙示録が大切にしている言葉です。2章10節「死に至るまで忠実であれ」。12節「このゆえに、もろもろの天と、その中に住む者たちよ、喜べ。地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、お前たちのところへ降って行った。残された支配が少ないのを知ったからである」。
3.竜は海辺の砂の上に立った
(1)13節「竜は、自分が地上へ投げ落とされたと分かると、男の子を産んだ女の後を追った」。地上に投げ落とされた竜、サタン、ローマ皇帝は、女である教会、キリスト者の後を追った。14節「しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野のある自分の場所へ飛んで行くためである。女はここで、蛇から逃れて、1年、その後、2年、またその後半年の間、養われることになっていた」。神の御業は鷲の翼で譬えられます。イザヤ書40章31節「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。追いかけて来る竜、サタン、蛇、ローマ皇帝に対し、教会は荒れ野の逃れ、そこで悪魔の誘惑、試練を受ける。しかし、その誘惑・試練の期間は3年半、永遠には続かない。
15節「蛇は、口から川のように水を女の後ろに吐き出して、女を押し流そうとした。しかし、大地は女を助け、口を開けて、竜が口から吐き出した川を飲み干した」。17節「竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った。そして、竜は海辺の砂の上に立った」。竜、サタン、蛇であるローマ高齢の迫害により、多くのキリスト者は殉教の死を遂げました。しかし、「残りの者たち」を神は残された。神の掟を守り、主イエスの証しを守り通す者たちです。その残りの者たちに最終の戦いを挑むために、竜は海辺の砂の上に立った。その戦いは13章に続く。
(2)カール・バルトがアメリカで講演をした時に、質問があった。「あなたの神学は難しい。要するに、何が言いたいのですか」。その時、バルトはアメリカの信徒が親しんでいる「主われを愛す」を歌った。この歌に、私が言いたいことが全て含まれている。昨日、長谷川榮兄の葬儀を行った。長谷川榮さんが北陸学院高校の英語の教諭となった時、当時の学校長である井上良彦先生がこう言われた。「信仰は単純なことですが、決して簡単ではありません」。信仰は単純なこと。それはバルトの言葉で言えば、「主われを愛す」で全て歌われている。バルトは若き日、ブルームハルト父子を訪ね、大きな影響を受けました。最も影響を受けたのは、「主イエスこそ勝利者である」。この信仰に立ち続けたのです。私どもが生きる歴史は、竜、サタンが支配しているように見えます。しかし、主イエス・キリストこそ勝利者であることを信じて生きるのです。それは簡単なことではありませんが、その信仰は単純なこと、シンプルなことです。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 1月17日の祈り 詩編23・1~2
「愛しまつる在天の父よ、われらは感謝します。われらがとりのこされた思いをせず、われらを導き、支配するみ手を知ることを得させてくださいました。われらがすでに経験したことを、霊のうちに経験したことを、更にまた肉体によって、この地上のことがらのうちに経験したことを、すべてわれらは手をとりあって感謝します。あなたはわれらによってほめたたえられるべき方、更にわれらを導くべきお方です。そして常にくりかえしみわざをなし、われらすべてが、われらもまたよき牧者が自分を導いてくれるのを見たのだ、そのことを経験したのだと言えるようにしてくださるのです。アーメン」。