1.ある主の日のこと
(1)ヨハネの黙示録は、伝道者ヨハネがかつて伝道・牧会したアジア州の7つの教会へ宛てた手紙です。ヨハネは今、ローマ皇帝により教会員との間を切り離され、島流しにされ、エーゲ海のパトモスの島にいます。今日の御言葉は、このような言葉から始まっています。9節「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれ、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである」。ヨハネが「わたしは」と一人称で語っています。ヨハネは改めて自己紹介しています。伝道者が自己紹介をする時に、教会員との関係を語ります。「わたしは、共にイエスと結ばれた、あなたがたの兄弟」。「共にイエスと結ばれ、主イエスの苦難、支配、忍耐に与っているヨハネ」。ローマ帝国の迫害の中で、キリスト者たちは苦難と忍耐の中にある。しかし、苦難と忍耐の真ん中におられるのは、主イエス御自身です。主イエスは苦難と忍耐の真ん中で、実は支配しておられる。共にイエスと結ばれ、主イエスの苦難、支配、忍耐に与っているヨハネ。9b節「わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた」。伝道者ヨハネはローマ皇帝によって、パトモスの島に流刑されました。しかし、ヨハネはこの島の人々に伝道するため、「神の言葉とイエスの証しのゆえに」、この島へ主から遣わされたと受け留めています。苦難を神の摂理として受け留めています。
(2)10節「ある主の日のこと、わたしは霊に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた」。「主の日」という言葉は新約聖書ではここにしか語られていません。それだけに重要な言葉です。今日、私どもは日曜日を「主の日」と呼んでいます。その先駆けとなったのが、この箇所の御言葉です。「主イエスが甦られた日」です。他の文書では「週の初めの日」と呼んでいました。マタイ28・1,マルコ16・2、ルカ24・1,ヨハネ20・1,19,使徒言行録20・7.キリスト教会が主の日を安息日として礼拝していたことを現しています。伝道者ヨハネはパトモスの島で、主の日、数名の者と礼拝を捧げていました。礼拝の中で、神から示された幻を見、聴きました。それがこの黙示録です。主の日の礼拝で生まれた幻、言葉です。私どもも主の日の礼拝で、神の言葉を聴き、主イエスの証し、幻を見るのです。礼拝は神の言葉を「聴く」と共に、神の御業を「見る」のです。11節「その声はこう言った。『あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオデキアの7つの教会に送れ』」。アジア州にある7つの教会の名前が語られています。
2.人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた
(1)12節「わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、7つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。右の手には7つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった」。ヨハネが主の日の礼拝で見たものは、「人の子」、すなわち、栄光の主イエス・キリストでした。ここで用いられている描写は、ダニエル書と似ています。伝道者ヨハネはダニエル書に親しんでいました。ダニエル書も黙示録も、黙示文学的な描き方をしています。「人の子」はダニエル書7章13節の言葉です。「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み」。「人の子」は終わりの日に現れる救い主です。
更に、ここでの主イエス・キリストの描写は、ダニエル書10章5節と似ています。「目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻の衣を着、純金の帯を越に締めて立っていた。体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、離す声は大群衆の声のようであった」。主イエスが身に纏っている衣装、それは祭司、大祭司の服です。神と人間との間に立ち、執り成す大祭司です。
(2)「7つの金の燭台」、右の手に「7つの星」を持ちと、7が強調されています。それは何を意味しているのでしょうか。主イエス自らが語られています。20節「さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。あなたは、わたしの右の手に7つの星と、7つの金の燭台とを見たが、それらの秘められている意味はこうだ。7つの星は7つの教会の天使たち、7つの燭台は7つの教会である」。アジア州の7つの教会に、7人の天使が遣わされている。主イエスが語られた御言葉を思い起こします。マタイ福音書18章10節「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」。主は一つ一つの教会に天使を遣わされておられる。教会に生きる一人一人は悲しみや苦しみの中で、天の父の御顔を仰げないことがある。しかし、天使が代わって、天の父の御顔を仰いでおられる。素敵なイメージです。
伝道者ヨハネが主の日の礼拝で見た主イエス・キリストのお姿で特徴的なのは、この御言葉です。「口からは鋭い両刃の剣が出て」。ヘブライ人への手紙4章12節の御言葉を思い起こします。ヘブライ人への手紙も大祭司キリストを強調します。「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、間接と骨髄とを切り離すほど刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」。大祭司主イエス・キリストの御言葉の鋭さは、両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、間接と骨髄を切り離すほどの鋭さを持つ。
3.一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている
(1)17節「わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった」。生ける神の御前で、私ども罪人は立つことはできない。シナイ山で燃える柴を通し、神と対面したモーセ然り。「モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った」(出エジプト記3・6)。神殿で神と対面したイザヤ然り。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ6・5)。
「すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。『恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である』」。「わたしは最初の者にして最後の者」。黙示録が強調する主イエス・キリストへの信仰告白です。1章8節で既に語られていました。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』」。「アルファ」「オメガ」は、ギリシャ語の最初の文字と最後の文字です。歴史の初めと歴史の終わりに立ち、歴史を支配する者は、ローマ皇帝ではなく、生ける主イエス・キリスト。
(2)「一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」。興味深い主イエス・キリストの御言葉です。主イエス・キリストは十字架で一度は死なれた。しかし、見よ、甦られて、世々限りなく生きておられる。主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を、このように言い表しています。更に注目すべきは、「死と陰府の鍵を持っている」。死は何故恐ろしいのか。死は陰府、滅びの中に、私どもを閉じ込める鍵を持っているからです。しかし、主イエスが十字架で一度は死なれ、甦って世々限りなく生きられることにより、死と陰府の鍵を奪い取られたのです。死と陰府の鍵は世々限りなく生きておられる主イエス・キリストの御手にある。ローマ帝国の迫害の中で、死と向き合いながら生きているキリスト者たちは、死と陰府の鍵を持つ主イエス・キリストへの信仰に、望みをもって忍耐したのです。
主イエスは「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白したペトロに向かって、こう語られました。マタイ福音書16章18節「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしは岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。主イエス・キリストが手にされた「天国の鍵」、「死と陰府の鍵」を、教会に託されました。生けるキリストを証しする説教と聖礼典こそが、主から委ねられた「天国の鍵」「死と陰府の鍵」なのです。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 9月13日の祈り エフェソ2・8~9
「主よ、われらの神よ、われらは自分があなたの子であることを知っています。その確信によってわれらもともにあなたの見ておられるみまえでひとつの交わりをつくり、あなたに祈り願います。われらに聖霊を与えてください。聖霊はわれらに働いて、われらをなお苦しめようとする多くの禍いからの解放を与えてくださるのです。大いなる恵みをもって、力強い恵みをもって、われらの心のうちにいてください。そしてわれらが勝利できるように、われらのこの世における人生が、多くの欠陥、多くの不都合や罪にもかかわらず、よろこびへと至ることができるようにしてください。あなたの恵みはなお大きく、いっさいのわれらの過失よりもはるかに大きいのです。そしてそのことにおよってわれらはきょうも、またこののちも常に、よき良心を持ちたいと思います。あなたがわれらの神であり、われらの父だからです。アーメン」。