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2024年2月7日

「ヨハネの黙示録を黙想する22~今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである~」

ヨハネの黙示録14章6~13節

井ノ川勝

1.神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである

(1)ヨハネの黙示録を学ぶ上で大切な点が二つあります。一つは、主の日の礼拝で、甦られた主イエス・キリストによって見させられた天井の幻を書き記した言葉であることです。もう一つは、伝道者ヨハネがアジア州にある7つの教会に宛てた牧会的な手紙であることです。礼拝と牧会という教会が大切にして来た中で、与えられた言葉です。それを忘れてしまうと、黙示録は恐ろしい言葉であるという印象を植え付けます。

 今日の御言葉は黙示録の心臓部とも言えます。何故ならば、この御言葉が語られているからです。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」。黙示録はこの御言葉を告げるために書かれたとも言えます。慰めに満ちた言葉です。伝道者ヨハネが礼拝で、牧会で、あるいは葬儀で語った福音の中心にある御言葉です。

14章全体が黙示録の山場とも言える箇所です。天に居場所を失い、地上に投げ落とされた竜(サタン)が、海から一匹の獣(ローマ皇帝)を呼び出し、地からはもう一匹の獣(偽預言者、偽キリスト)を呼び出し、最後の戦いをするために態勢を整え直しています。獣の像(ローマ皇帝)を拝もうとしない者があれば、皆殺しさせました。獣の像を拝む者たちの右手、額には獣の刻印が押されました。それに対し、小羊キリストがシオンの山に立ち、迎え撃ちます。額に小羊の名と小羊の父の名が記された14万4千人の天の聖歌隊を引き連れて、大賛美で戦おうとしています。

 

(2)14章6~13節には、三人の天使が順番に登場します。最初に、第一の天使が登場します。6節「わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、大声で言った」。第一の天使の使命は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に、「永遠の福音」を告げ知らせることです。「永遠の福音」という言葉はこの箇所だけにしか用いられません。全ての民族に告げ知らせる「永遠の福音」とは、何でしょうか。

7節「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい」。「神の裁きの時が来た」。第一の天使はそう告げます。歴史を支配するのは、竜(サタン)でもなく、獣(ローマ皇帝)でもない。歴史を支配する者は歴史を裁くことが出来るお方。すなわち、神のみです。歴史を生きる全ての者が神の裁きの座の前に立たされます。神の裁きの座の前で、私どもは何をするのか。神を畏れ、その栄光をたたえること。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝することです。獣であるローマ皇帝を礼拝するのではなく、天と地、海と水の源を創造された神を礼拝するのです。神を礼拝することが、神を畏れること、神の栄光をたたえることです。黙示録は「神を礼拝せよ」という言葉が繰り返し語られ、強調しています。黙示録は神礼拝へ導く言葉なのです。

 

2.倒れた、大バビロンが倒れた

(1)第二の天使の登場です。8節「また、別の第二の天使が続いて来て、こう言った。『倒れた。大バビロンが倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が』」。第二の天使が告げた言葉は衝撃的な言葉です。「倒れた。大バビロンが倒れた」。この言葉はイザヤ書21章9節が基にあります。「見よ、あそこにやって来た、二頭立ての戦車を駆る者が。その人は叫んで、言った。『倒れた、倒れた、バビロンが。神々の象はすべて砕かれ、地に落ちた』」。預言者イザヤが生きていた時代、世界を支配していたのは、バビロンの王ネブカドネツァルでした。南王国ユダを滅ぼした王です。しかし、預言者イザヤは、揺るぐことのない王国バビロンが倒れた、倒れたと、その幻を見ています。バビロンの王ネブカドネツァルの神々の象が全て打ち砕かれ、地に落ちる幻を見ています。

第二の天使が語った言葉、「倒れた。大バビロンが倒れた」とは、ローマ帝国を指しています。難攻不落のローマ帝国も倒れる。その幻を伝道者ヨハネは見ています。ローマ皇帝の像の前で、神の怒りを招く淫らな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたローマ帝国の都が倒れた。

 

(2)第三の天使の登場です。9節「また、別の第三の天使が続いて来て、大声でこう言った。『だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受けた者があれば、その者自身も、神の怒りの杯を混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる』」。獣(ローマ皇帝)と獣の象(ローマ皇帝の像)を拝む者、皇帝礼拝をする者は、額や手に獣の刻印が押されています。ローマ皇帝の支配下に置かれた者たちを表す印です。彼らは神の裁きの座の前で、神の怒りの杯を混ぜものなしに、神の怒りのぶどう酒を飲み、滅びに至ります。聖なる天使たちと小羊キリストの前で、火と硫黄で苦しめられ、滅びへと至ります。

ここで繰り返されている言葉があります。「神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲む」。主イエスが十字架にかけられる前夜、ゲツセマネで夜を徹して祈られた祈りです。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。私どもが神の裁きの座の前で、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲まなくてよいのは、主イエスが私どもに代わって、十字架で神の怒りのぶどう酒が注がれた神の怒りの杯を飲み干されたからです。

第三の天使は更に語ります。11節「その苦しみの煙は、世々限りなく立ち上がり、獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない」。獣の像(ローマ皇帝)の前で、ぶどう酒を飲み、淫らな行いをし、動物を生け贄として献げ、皇帝礼拝をする獣の刻印を押された者たち。その煙は神の裁きの煙となり、世々限りなく立ち上がり、昼も夜も安らぐことはない。

12節「ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である」。皇帝礼拝が行われる只中に、キリスト者は生きています。そこで神の掟を守り、主イエスに対する信仰を守り続けるためには、忍耐が必要です。この言葉は13章10節でも語られていました。「ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である」。この御言葉から改革派が強調する「聖徒の堅忍」という教理が生まれました。「キリスト者の忍耐」です。信仰にとって大切なことは忍耐です。しかし、この忍耐は歯を食いしばる忍耐ではありません。やせ我慢の忍耐でもありません。パウロは語りました。ローマの信徒への手紙5章4~5節「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことはありません」。望みをもって忍耐するのです。望みを伴う忍耐は、神の堅忍、キリストの堅忍に支えられます。神の堅忍、キリストの堅忍に支えられた聖徒の堅忍です。

 

3.今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである

(1)13節「また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。『書き記せ。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と』」。伝道者ヨハネは天から告げる神の声を聴きました。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』」。皇帝礼拝を拒んだキリスト者たちは、捕らえられ、殺されて行きました。伝道者ヨハネがアジア州で牧会していた時、日々、教会員の葬儀を行っていました。その葬儀の中心に立つ御言葉です。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」。伝道者はこの御言葉が主にあって与えられているから、死に立ち向かい、御言葉を語ることが出来ます。亡くなった教会員は死の支配に置かれるのではない。「主に結ばれて死ぬ」。「主の中で死ぬ」のです。流刑された伝道者ヨハネに、主の日の礼拝で現れた甦られた主キリストが語られた御言葉があります。1章17節「畏れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」。死と陰府に勝利をし、死と府の鍵を持つ甦られた主キリストの御手の中で、私どもは生き、死ぬのです。そこに幸いがあります。それこそが「永遠の福音」です。伝道者ヨハネはこの御言葉を書き記し、書き伝えるために、召されたのです。

 「今から後、主に結ばれた者たちは幸いである」。この御言葉は葬儀の時だけでなく、洗礼式の時に語られた御言葉でもあります。洗礼を受けることは、殉教の覚悟をすることです。しかし、主に結ばれて死ぬ幸いに生きることでもあります。

 

(2)「霊も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである』」。天から語られた神の声に、聖霊が応えます。「然り」。キリスト者は地上にあっては、様々な労苦を主のために負います。しかし、主に結ばれて死ぬことにより、主に中に死ぬことにより、労苦を解かれ、永遠の主にある安らぎを得る。主に結ばれて生きた様々な労苦、行いが主にあって報われるのです。聖霊が保証して下さるのです。

 

4.御言葉から祈りへ (1)ブルーハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 2月7日の祈り フィリピ3・13~14

「愛しまつる在天の父よ、あなたは、われらのうちの永遠に変わらないすべてのことにおいて、われらの根源であり、われらの生命です。われらはあなたのもとに赴き、祈り願います。あなたがわれらに与えてくださったものにより、強められるようにしてください。生命の光を与えてください。われらは、この地上の過ぎゆくものの労苦、さまざまな重荷のもとにあっても、この光をめざしていくことができます。われらを虚偽と錯覚により守り、あなたの支配に対する希望のゆえに強い者としてください。あなたの支配は、われらの中にあって、多くの者、すべての者の中にあって、絶えることがなく、確固としたものなのです。アーメン」。

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