1.鎌を入れて刈り取ってください、刈り入れの時が来ました
(1)ヨハネ黙示録は、私どもが生きている歴史がどこへ向かっているのかを記しています。竜であるサタンの支配でもなく、獣であるローマ皇帝、権力者の支配でもなく、神が支配していることを告げています。歴史が向かうところは終末です。終末に生きている者も死んだ者も、全てが神に審かれる。神の審きは厳しく、恐ろしいものです。しかし同時に、神の審きだからこそ、そこに望みがあるのです。
ヨハネ黙示録14章の御言葉を黙想しています。14章13節の御言葉が、黙示録の心臓部です。黙示録全体の骨格に、いのちを注ぐ御言葉です。「書き記せ、『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』。霊も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである』」。ローマ帝国の迫害下、キリスト者たちは皇帝礼拝を拒否し、多くの者が殉教をしました。伝道者ヨハネは毎日、教会員の葬りをしていた。葬儀に語るべき御言葉が主から与えられた。「今から後、主に結ばれて(主の中で)死ぬ人は幸いである」。聖霊が応える。「然り、彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る、その行いが報われるからである」。労苦の多い地上の歩みが報われる。あなたの労苦は無駄ではなかったと、主から語られる。あなたは主の中で生き、主の中で死んだ。そこに幸いがある。伝道者が命を懸けて語った言葉です。伝道者パウロもこう語る。「主に結ばれているならば自分たちの苦労が無駄にならない。それ故、しっかり立ち、主の業に励みなさい」(コロント一15:58)。
(2)14章は、天使が入れ替わって、天上の幻を伝道者ヨハネに見させ、そのことを通して、終わりの日の出来事を明らかにしています。14節「また、わたしが見ていると、見よ、白い雲が現れて、人の子のような方がその雲の上に座っており、頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた」。白い雲に乗った人の子のような方が現れた。ダニエル書7章13~14節の御言葉が土台にあります。「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた」。「人の子」は終わりの日に来られる救い主です。主イエス御自身、自らを「人の子」と呼びました(マルコ2・10)。人の子は頭に金の冠をかぶっていた。勝利の王冠です。そして何よりも特徴的なのは、手に「鋭い鎌」を持っておられました。
15節「すると、別の天使が神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に向かって大声で叫んだ。『鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています』」。人の子が何故、手に鋭い鎌を持っているのか。刈り入れの時が来たからです。地上の穀物は実っているからです。終末は刈り入れの時である。これは主イエスも語られたことです。マタイ福音書13章37~43節。毒麦の譬えです。「良い種を蒔く人は人の子、畑は世界、良い種は御国の子、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世斧終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わして、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい」。鎌で刈り入れる。それは神の審きです。しかし同時に、主にあって正しい関係にある者は、主に結ばれて死ぬ者は、父の国で太陽のように輝くと約束されています。人の子である主イエスは何よりも、地上の実りを楽しみに待っておられる。私どもはそのような実りを造り出しているかどうかが問われています。
16節「そこで、雲の上に座っておられる方が、地に鎌を投げると、地上では刈り入れが行われた。
2.鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れよ、ぶどうの実は既に熟している
(1)17節「また、別の天使が天にある神殿から出て来たが、この天使も手に鋭い鎌を持っていた。すると、祭壇のところから、火をつかさどる権威を持つ別の天使が出て来て、鋭い鎌を持つ天使に大声でこう言った。『その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れよ。ぶどうの実は既に熟している』」。14節以下では、鎌で刈り入れるのは穀物、麦でした。しかし、ここではぶどう房の刈り入れが語られています。ぶどうは、預言者たちは神の民イスラエルを表す象徴として語りました。主イエスも、ヨハネ福音書15章で、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と、主イエスと教会を表す譬えを語られました。ぶどうの実は熟している。それ故、鎌で刈り入れよ。
鋭い鎌を持つ天使の他に、火を司る権威を持つ別の天使が登場し、大声で語りました。「その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を刈り入れよ。ぶどうの実は既に熟している」。火を司る天使とは、天上の神殿の火、礼拝の火を絶やさない天使です。既に8章3~4節に登場していました。「また、別の天使が来て、手に金の香炉を持って祭壇のそばに立つと、この天使に多くの香が渡された。すべての聖なる者たちの祈りを添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるためである。香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った」。天上の神殿の火、礼拝の火とは、地上の私どもの祈りです。祈りの香が煙のように立ち上り、天上の祭壇に捧げられます。それを担当する天使が火を司る天使です。私どもの祈りは虚しく消えて行くのではない。神に聴かれないのではない。天使の執り成しを受けて、天上の祭壇に献げられ、父なる神に届けられているのです。
(2)19節「そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた。搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンにわたって広がった」。凄まじい神の審きの描写です。搾り桶から流れ出た血は、千六百スタディオンにわたって広がった。1スタディオンが約185メートル。その千六百倍。パレスチナの南北が千六百スタディオン。東西南北の四方を四倍し、更に百倍した数です。四方八方、全領域、全天地に及ぶ範囲です。
この御言葉の土台に、イザヤ書63章2~4節があります。「『なぜ、あなたの装いは赤く染まり、衣は酒ぶねを踏む者のようなのか』。『わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ、憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び、わたしは着物を汚した』。わたしが心に定めた報復の日、わたしの贖いの年が来た」。
もう一つの御言葉は、ヨエル書4章13~15節。「鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した。来て踏みつぶせ、酒ぶねは満ち、搾り場は溢れている。彼らの悪は大きい。裁きの谷には、おびただしい群衆がいる。主の日が裁きの谷に近づく。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う」。
終わりの日、刈り取られたぶどうの実、私どもの罪の血は酒ぶねに入れられ、搾り桶に入れられ、足で踏みつけられる。前回見た14章8節以下で、「神の怒りのぶどう酒の杯」という言葉が繰り返されていました。8節「倒れた、大バビロンが倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が」。「大バビロン」とはローマ帝国です。9節「だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり」。「獣」とはローマ皇帝です。神の怒りのぶどう酒が注がれた杯を飲むことは、滅びに至ることです。
3.搾り桶は都の外で踏まれた
(1)ここで注目したいのは20節「搾り桶は、都の外で踏まれた」。この表現はヘブライ人への手紙13章11~12節にもあります。「なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです」。私どもを聖なる者とするために、主イエスは門の外で、エルサレムの外で、十字架につけられた。神の怒りの杯を飲まれた。十字架の上で、神の怒りの足で踏みつけられる神の審きを受けられた。十字架の主イエスの血により、私どもは聖なる者とされ、神の怒りの杯を飲むこと泣く、滅びから解き放たれた。14章4節にあるように、「神と小羊に献げられる初穂」とされた。
(2)主イエスが十字架にかけられ、殺された時、ユダヤの権力者は祝杯を飲み干したことでしょう。キリスト者たちが殺されるのを見て、ローマ皇帝は祝杯を飲み干したことでしょう。主イエスこそ十字架の死を通して、殉教の死を遂げられた第一号です。その後に、キリスト者も従いました。先程見たヘブライ人への手紙13章の御言葉の後に、こういう言葉が続きます。13章15~16節「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです」。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 1月14日の祈り コリント一13・4
「主よ、われらの神よ、われらは今あなたのみ前に集まり、あなたの王座の前にあります。そして心から祈り願います。われらに聖なる霊を与え、唯一の神にしてすべての生の創造者であるあなたによって、われら人間の生が支配統治されるようにしてください。みことばをわれらの心にいれ、われらが生きるすべてのことにおいてわれらを祝福してください。そのすべてのことの中にあって、われらは祈りつつみまえに立っているのです。われらは弱く、貧しく、われらの霊は何をすることもできません。疲れ果てているのです。しかしあなたはわれらを強め、いっさいを正しくしてくださいます。そして全世界の中にみ国が明らかなものとなるようにしてくださるのです。特に、あなたが地上にのぞまれるのは悲しみではなく、あなたご自身の善であり、生命であり、永遠であることを、われらの時代に経験させてくださるのです。アーメン」。