1.神の怒りがその極みに達する
(1)ヨハネの黙示録の特徴の一つは、多くの讃美歌が歌われています。その中には今日まで歌い継がれた讃美歌もあります。黙示録は神賛美の黙示録です。厳しい審きの言葉、恐ろしい描写がある中で、「恐怖の黙示録」ではなく、「神賛美の黙示録」であることは、黙示録を読む上で大切な点です。
黙示録は主の日の礼拝において、伝道者ヨハネが甦られたキリストによって、天の幻を書き留めた御言葉です。歴史の終わりに起こる出来事が天の幻を通して、明らかにされました。本日の15章はこういう御言葉から始まっています。「わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである」。七人の天使が携えたが最後の災い。神の怒りを盛った七つの鉢。それがこの後、16章以下で延々と展開されて行きます。しかも「これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのです」。「極みに達する」。この言葉で想い起こすのは、ヨハネ福音書13章の冒頭の御言葉です。主イエスが十字架を目前とされ、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗われ場面です。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛し、この上なく愛し抜かれた」。文語訳ではこう訳されていました。「極みまで之を愛したまえり」。黙示録と同じ言葉が用いられています。主イエスの十字架の出来事は、主イエスの愛が極みまで達する愛であった。そのことと、黙示録が語る「神の怒りがその極みに達する」ことと相反することなのでしょうか。否、それは一つの出来事です。主イエスの十字架の出来事は神の愛が極みに達する出来事であり、同時に神の怒りが極みに達する出来事でもありました。神は御自分が造られた私ども人間を愛するが故に、同時に、神の愛に背を向ける私どもに怒りを注がれるのです。神の目的は私どもを滅ぼすことにあるのではなく、私どもを愛することにある。愛するが故に怒りを注がれるのです。
(2)15章の御言葉も、13章、14章と関連があります。13章、14章は、私どもが生きている歴史の現実を描いていました。天に居場所を失い、地上に投げ捨てられた竜・サタンが、小羊キリストと最後の戦いをするために、態勢を整え直しました。海の中から一匹の獣を呼び出しました。獣とはこの世の権力者・ローマ皇帝です。獣は牙をむき、皇帝礼拝を拒むキリスト者たちを噛み砕こうとしています。皇帝礼拝をしている者も獣と化しています。人間性を失っているのです。カルヴァンが青少年のために作成した『ジュネーヴ教会信仰問答』で、私どもの造り主である神を礼拝しない者は獣と化すと語っています。鋭い人間理解です。黙示録の信仰から生まれた人間理解です。私どもが神を礼拝することを止めたら、「神のかたち」を失い、人間性が奪われ、獣と化してしまうのです。ローマ皇帝、権力者を神のように賛美する者は獣と化すことです。恐ろしいことです。
2.彼らは神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌った
(1)2節「わたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た」。天上の神の玉座の前は、ガラスの海のように透明で澄んでいる。獣は海から現れましたが、それと対比しています。獣の血で濁っていない。透き通って澄んでいるガラスの海には、火が混じっていた。神の審きの火が混じっていた。あるいは、エジプトを脱出した神の民イスラエルが荒れ野の40年の旅を、昼は雲の柱、夜は火の柱で導かれた。出エジプト記13章21~22節。神の御臨在を表す火でもあります。2b節「更に、獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た」。「獣に勝ち、その像に勝ち、その名の数字に勝ち」。「獣」とはローマ皇帝です。「その像」とはローマ皇帝の像です。皇帝礼拝に用いられた偶像です。「その名の数字」とは、13章18節で語られた「666」です。皇帝礼拝をする者たちの右手か額に押された刻印です。「666」という数字は、皇帝ネロを表しています。そしてこの時代、皇帝ネロの再来と言われていたドミティアヌス帝を表しています。「獣に勝ち、その像に勝ち、その名の数字に勝つ」。「勝つ」という言葉が三回用いられています。三は完全数ですから、完全な勝利です。「勝利」という言葉は、「解き放たれる」「解放される」という意味でもあります。小羊キリストによって、獣の支配から解放される。小羊を礼拝する。そこに「神のかたち」の回復があり、人間性の回復がある。生き生きとした人間らしさがある。
獣に勝ち、その像に勝ち、その名の数字に勝った者たちは、誰なのでしょうか。14章1節に登場した「14万4千人」の天上の聖歌隊です。その額に小羊の名「イエス・キリスト」と小羊の父の名「アッバ」「あってある者」が記されていた者たちです。「14万4千人」は7章4~8節で語られていたように、イスラエル12部族であり、主イエスに選ばれた12弟子の上に立つ新しいイスラエルである教会を表しています。12の倍数を千倍した数字が、14万4千人です。2c節「彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった」。
(2)「神の僕モーセの歌」とは、出エジプト記15章の「海の歌」を表しています。エジプトを脱出した神の民イスラエルが、神に導かれて紅海を渡った後、歌った歌です。聖書の中で最も古い讃美歌です。神の大いなる御業を賛美する歌です。エジプトからの解放、奴隷の家からの解放への賛美です。15章20節「アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた」。旧約聖書を代表する「神の僕モーセの歌」と、「小羊の歌」とが一つになって、天上の聖歌隊が賛美した。エジプトからの解放、奴隷の家からの解放という「出エジプト」は、小羊キリストによる罪の奴隷からの解放という「新しい出エジプト」となった。その神の解放の御業を賛美する歌です。
小羊キリストを礼拝する者は、獣から解放されて、神を賛美する人間となる。そこに「神のかたち」である人間らしさがある。カルヴァンは『ジュネーヴ教会信仰問答』問1「人生の主な目的は何か」、答「神を知ること」。換言すれば、「神を礼拝すること」「神を賛美すること」です。この問答を土台とした『ウェストミンスター小教理問答』問1「人生の主な目的は何か」、答「神の栄光をたたえ、神を永遠に喜ぶこと」。換言すれば、「神を永遠に賛美すること」です。
「神の僕モーセの歌と小羊の歌」とは、どのような歌か。3b節「全能者である神、主よ、あなたの業は偉大で、驚くべきもの。諸国の民の王よ、あなたの道は正しく、また、真実なもの。主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ。すべての国民が、来て、あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、明らかになったからです」。この歌は詩編の様々な御言葉から構成されています。詩編は祈りであり歌です。詩編から生まれた新しい讃美歌です。「主こそ王、主こそ正しい裁きを行う王。全ての国民は来て、主の御前にひれ伏し、礼拝を捧げる」。
3.天にある証しの幕屋の神殿が開かれた
(1)5節「この後、わたしが見ていると、天にある証しの幕屋の神殿が開かれた」。「証しの幕屋」は、出エジプト記40章24節「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである」。荒れ野の40年の旅を、神の民イスラエルは幕屋で生活しました。その中心に、「臨在の幕屋」がありました。主が御臨在される幕屋です。主の栄光が満ちる幕屋です。この地上の臨在の幕屋の土台となるのが、「天にある証しの幕屋の神殿」です。神の御臨在を証しする天の幕屋の神殿です。神が生きておられることを証しする天の幕屋の神殿です。今や、天にある証しの幕屋の神殿が開かれた。6節「そして、この神殿から、七つの災いを携えた七人の天使が出て来た。天使たちは輝く清い亜麻布の衣を着て、胸に金の帯を締めていた」。天使たちの衣装は、祭司の服装です。私ども人間の先頭にたち、神を礼拝し、私どものために神に執り成しの祈りを捧げる務めを果たすのが、祭司です。天使は祭司の役目を継承しています。
7節「そして、四つの生き物の中の一つが、世々限りなく生きておられる神の怒りが盛られた七つの金の鉢を、この七人の天使に渡した」。「四つの生き物」とは4人の福音書記者です。何故、神は怒られるのか。神が世々限りなく生きておられるからです。神は愛するが故に、私ども人間の罪を怒られるのです。見逃さないのです。8節「この神殿は、神の栄光とその力とから建ち上る煙で満たされ、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、だれも神殿の中に入ることができなかった。
(2)先週の水曜日より受難節に入りました。ヨハネ福音書1章29節。洗礼者ヨハネは自分の方へ来る主イエスを指し示し、証言しました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。黙示録が主イエスを「小羊」と呼ぶのは、ここから来ているのかもしれません。主イエスは、世の罪を取り除く神の小羊として十字架に立たれました。御自分のいのちを犠牲にしてまで、私どもを極みまで愛して下さった。私どもの罪に対しては、神の怒りは極みまで達したのです。その神の怒りが盛られた七つの金の鉢が、七人の天使に渡されたのです。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 2月21日の祈り エフェソ5・25~27
「主よ、われらの神よ、われらがどんなに取るに足らぬ者であっても、われらのことをおぼえてください。すべての悪、日ごとの脅威であるわれらの心をそこなうすべてのものに対し、われらを守ってください。み手がわれらと共にあり、ついにはあなたの教会から、全世界に対する大きな力が生じ、約束されたことをなしとげることができますように。あなたの慈愛のすべてを感謝し、あなたに祈り願います。われらを保証し、われらを支えて正しい霊と感覚を保たせ、いっさいの正しからぬもの、よからぬものに抵抗することを得させてください。われらが仕えるのはあなたであって、この世ではないからです。それゆえに、きょうもまた、そしてこののちいつまでも、われらを守ってくださいますように。アーメン」。