1.わたしは獣にまたがっている一人の女を見た
(1)ヨハネの黙示録はイメージ豊かな言葉で綴られています。画家たちの絵心を誘った御言葉です。その中に、「バンベルク黙示録」があります。黙示録の御言葉を絵で綴ったものです。その絵の中に、伝道者ヨハネが登場し、天使に導かれて、天の幻を仰ぎ見ています。ところが17章は、伝道者ヨハネは天使に導かれて、下を見ているのです。私どもが生きている地上の現実を見させるのです。赤い獣にまたがっている一人の女、大淫婦を見ています。17章に登場する象徴的な存在で、地上を支配するものです。大淫婦とは一体、何を表しているのか。
17章の御言葉は15章から続いています。伝道者ヨハネは天の幻の中に、七人の天使が七つの災いが盛られた鉢を持っているのを見ました。七人の天使が順番に鉢の盛られた神の怒りを地上に注ぎ、災いが起こりました。17章は、七つに鉢を持つ七人の天使の一人が来て、ヨハネに語りかけることから始まっています。「ここへ来なさい。多くの水の上に座っている大淫婦に対する裁きを見せよう。地上の王たちは、この女とみだらなことをし、地上に住む人々は、この女のみだらな行いのぶどう酒に酔ってしまった」。大淫婦は水の上に座っています。地上の王たちは、この女と淫らなことをしています。地上に住む人々は、この女の淫らな行いのぶどう酒に酔っています。大淫婦とは何を指しているのでしょうか。
17章の結びの16節でこう記されています。「あなたが見た女とは、地上の王たちを支配しているあの大きな都のことである」。大淫婦とはあの大きな都です。5節ではあの大きな都とは「大バビロン」と称されると記されています。旧約の時代、南王国ユダを滅ぼしたのは、ユーフラテス川沿いに栄えた新バビロニア帝国の都バビロンです。しかし、ここで「大バビロン」と言う時、それはローマ帝国を表しています。地上の王、権力者の欲望が満ちていた都です。皇帝を神として拝み、皇帝の像の前でぶどう酒に酔い、淫らなことが行われていた都です。大淫婦の誘惑に満ちていた都です。それは今日の世界の現実でもあります。
(2)3節「そして、この天使は霊に満たされたわたしを荒れ野に連れて行った。わたしは、赤い獣にまたがっている一人の女を見た」。天使は霊を注がれた伝道者ヨハネを、荒れ野へと導きました。そこに赤い獣にまたがった一人の女を見ました。主イエスが宣教を開始される前、霊に導かれて荒れ野へ連れて行かれ、悪魔の誘惑を受けられた場面を想い起こします。ローマ帝国は地上の栄華を誇り、輝いています。しかし、そこは荒れ野です。私どもが生きる意味を呑み込む荒れ野です。大淫婦は赤い獣にまたがっていた。獣とは何か。既に13章で象徴的な存在が登場していました。一人は竜です。サタンです。この竜、サタンに導かれて獣が海の中から上って来ました。獣とはローマ皇帝です。獣に支配され、皇帝礼拝をする者たちは獣の刻印を押され、獣と化して行きました。神を神として拝まない者は、人間らしくなるのではなく、人間性を失われ、獣と化して行きます。赤い獣にまたがった大淫婦は、地上の権力者を土台とし、神を失った帝国です。
3b節「この獣は、全身至るところが神を冒涜する数々の名で覆われており、七つの頭と十本の角があった。女は紫と赤の衣を着て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を持っていた」。「バンベルク黙示録」の絵では、獣にまたがった大淫婦が赤と紫の高貴な色の着物を身に纏い、手に金の杯を持ち、両手を広げています。私どもを招いている姿をしています。5節「その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、『大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母』という名である」。ここで初めて大淫婦の正体が明らかにされます。大淫婦の額に名が記されていた。「大バビロン、みだらな女たち、地上の忌まわしい者たちの母」。地上の帝国は母なる存在です。私どもを欲望で満たす母なる存在です。6節「わたしは、この女が聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血で酔いしれているのを見た」。大淫婦が手にしている金の杯の中には、聖なる者たちの血、イエスの証人たちの血が注がれていた。殉教者の血で酔いしれていた。
2.小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ
(1)6b節「この女を見て、わたしは大いに驚いた。すると、天使がわたしにこう言った。『なぜ驚くのか。わたしは、この女の秘められた意味と、女を乗せた獣、七つの頭と十本の角がある獣の秘められた意味とを知らせよう。あなたが見た獣は以前はいたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来るが、ついには滅びてしまう』」。1~6節では大淫婦の正体が明らかにされていましたが、7節からは大淫婦がまたがる獣の正体が明らかにされます。獣は「以前はいたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来る」。この表現は黙示録の定型句です。1章8節「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」。甦られた主イエス言い表す信仰告白です。それを獣に用いています。「以前はいたが、今はいない、やがて底なしの淵から甦って上って来る」。皇帝ネロを指しています。ネロは自殺しましたが、甦って来るという皇帝ネロの待望が広がっていました。黙示録の時代の皇帝はドミティアヌス帝です。ネロの再来と呼ばれ、ネロに勝るとも劣らぬキリスト者への迫害を行いました。小羊キリストと皇帝ネロ。共に救い主、神として崇められる。しかし決定的な違いは、小羊キリストは永遠なる神、皇帝ネロは甦っても滅びる存在であることです。今日の時代も、強いリーダーシップを発揮し、軍備を拡張し、自国優先主義の政策を採る強い皇帝を求めています。
8b節「地上に住む者で、天地創造の時から命の書にその名が記されていない者たちは、以前はいて今はいないこの獣が、やがて来るのを見て驚くであろう」。3章5節「勝利を得る者は、このような白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことなく」。洗礼を受けた者は白い衣、殉教者の衣装、キリストを身に纏わされ、命の書、天国の名簿に名が記される。命の書に名が記されていない者、獣の刻印が押されている者は、以前はいて今はいない獣、皇帝ネロがやがて来るのを見て驚く。死んだネロが甦るとは思ってもみなかったからである。9節「ここに、知恵のある考えが必要である」。歴史を生きる私どもは、誰が真実の救い主なのを見分ける知恵が必要である。惑わされてしまうからです。
9b節「七つの頭とは、この女が座っている七つの丘のことである。そして、ここに母人の王がいる。五人は既に倒れたが、一人は今王の位についている。他の一人は、まだ現れていないが、この王が現れても、位にとどまるのはごく短い期間だけである」。女を乗せた獣には七の頭がある。それは歴代のローマ皇帝を表しています。しかし、獣の支配はごく短い期間。7年の半分、3年半。不完全数、永遠に続かない。11節「以前いて、今はいない獣は、第八の者で、またそれは先の七人の中の一人なのだが、やがて滅びる」。
12節「また、あなたが見た十本の角は、十人の王である。彼らはまだ国を治めていないが、ひとときの間、獣と共に王の権威を受けるであろう。この者どもは、心を一つにしており、自分たちの力と権威を獣にゆだねる」。十本の角は十人の王、これから現れる権力者です。やはり獣と支配を受けている。
(2)14節「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める」。地上の権力者、王、獣は、小羊キリストに戦いを挑む。しかし、小羊キリストは主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいるキリスト者も勝利を得る。小羊キリストへの信仰告白です。戦いの旗印です。19・16。
15節「天使はまた、わたしに言った。『あなたが見た水、あの淫婦が座っている所は、さまざまの民族、群衆、国民、言葉の違う民である。また、あなたが見た十本の角とあの獣は、この淫婦を憎み、身に着けた物をはぎ取り裸にし、その肉を食らい、火で焼き尽くすであろう』」。大淫婦が座った水は、様々の民族、群衆、国民、言葉の違う民を表す。これから現れる十本の角、権力者が大淫婦、ローマ帝国を憎み、身に着けた物を剥ぎ取り裸にし、その肉を食らい、火で焼き尽くす。ユーフラテス川の向こうからパルテア人が現れ、ローマ帝国を滅ぼす。
17節「神の言葉が成就するときまで、神は彼らの心を動かして御心を行わせ、彼らが心を一つにして、自分たちの支配権を獣に与えるようにされたからである。あなたが見た、女とは、地上の王たちを支配しているあの大きな都のことである」。歴史を支配しているのは、獣でも、大淫婦でもなく、主なる神である。
3.見よ、世の罪を取り除く神の小羊
(1)12章で、竜、サタンが子を産もうとしている女が、子を産んだら呑み込もうとしていました。女は荒れ野へ逃げたとあります。子とはキリスト、女とはマリア、母なる教会を意味していました。17章では、竜、サタンに支配された獣、ローマ皇帝、大淫婦、ローマ帝国が、小羊キリストを呑み込み、自分たちこそ主であることを誇示しようとしています。しかし、小羊キリストこそ主の主、王の王だから、打ち勝つことは出来ない。小羊キリストと共にいるキリスト者も勝利を得る。21章で、教会は花嫁となって、再び来られる花婿キリストを待ち望んでいます。黙示録が語る信仰は「小羊キリスト」です。この信仰の土台にあるのは、イザヤ書53章「苦難の僕の歌」です。53章6節「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」。この苦難の僕、小羊こそ、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1・29)。苦難の小羊であり、勝利の小羊です。
4.御言葉から祈りへ (1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳)3月6日 詩編96・7,9,10
「主よ、われらの神よ、あなたはわれらの助け、われらの慰めです。われらはあなたを、あなたのもろもろの約束をのぞみ見ています。個人的なことがらにあっても常に強く、勇気を持ちつづけさせてくださり、われらが不平を言う子ではなく、地上におけるあなたの大いなる勝利を、新鮮に、よろこんで待つものとしてください。あなたはわれらの民をご自分の民にしようとしておられます。み民に霊を与えてください。少数の者だけではなくて、多くの者に与えて、われらの民はあなたのものと言えるようにしてください。主よ、われらの神よ、われらの願いはこれです。この地上に、もろもろの民の中にみ心が行なわれますように。天においてと同じく、地にもみ心が行なわれますように。アーメン」。