1.大いなる都、バビロンは、荒々しく投げ出され、もはや決して見られない
(1)私どもが生きている世界には、様々な歌声が聞こえてきます。その歌声が私どもの心を捕らえ、魅惑することがあります。その歌声とは文明賛歌、人間の叡智の賛歌、権力者への賛歌です。人間の叡智は豊かな文明を築き上げ、高度な科学技術を造り出して来ました。私どもに快適な生活をもたらしました。しかし、どんなに文明が発展し、科学技術が進歩しても、それを行使するのは人間です。自分たちの力、知恵を絶対化し、「主を畏れる知恵と謙遜さ」を有していないと、危ういことになります。ヨハネ黙示録18章は、高度に発達した文明への警告でもあります。黙示録が書かれた時代、ローマ帝国が強大な権力を有していました。それを構成する主な人は、地上の王たち、地上の商人たち、海上交易をする者たちでした。莫大な富を得ている者たちです。それらに対する厳しい審きの言葉が、18章で詩文のように歌われています。今日はその後半部分になります。
(2)黙示録の言葉はどのような時代に、どのようにして生まれたのでしょうか。ローマ帝国の時代、生まれたばかりのキリスト教会は迫害の中に置かれていました。ローマ皇帝を神として拝まなかったからです。伝道者ヨハネは教会員から引き離され、エーゲ海にあるパトモスの島に流刑されました。主の日、数名の者と礼拝していた時に、甦られたキリストが現れ、キリストによって天の幻を見させられた。それを書き留めた御言葉です。天の幻を見ることは、私どもが生きている地上の世界の現実を見ることです。地上の世界で起きている真相を見るまなざしが与えられることです。ローマ帝国は権力が集中し、世界の富が集中し、栄華を誇っています。「ローマは永遠なり」と歌われました。しかし、天の幻、神のまなざしには、異なった姿に見えていました。
17章で、ヨハネは幻の中に、赤い獣にまたがった大淫婦を見ました。大淫婦は人々を魅惑し、懐へ招きます。大淫婦とはローマ帝国を表していました。大淫婦とみだらなことをする者として、地上の王たち、地上の商人たち、海上交易をする者たちが挙げられていました。ローマ帝国から利権と利益を得ていました。自分たちの権力と富を謳歌していました。18章はこういう言葉から始まっていました。2節「倒れた、大バビロンが倒れた。そして、そこは悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟となった」。「バビロン」は旧約の時代に登場した大帝国です。南王国ユダ、その都エルサレムを滅ぼし、世界の覇権を手にした大帝国です。しかし、ここで「大バビロン」と呼ぶ時、それはローマ帝国を表します。ローマ帝国は強大な権力と栄華を有し、厳然と立ち続けています。しかし、天の幻、神のまなざしからすれば、「倒れた、大バビロンが倒れた」と見えた。ローマ帝国は悪霊どもの巣窟となっている。どのような大帝国もやがて滅びる。
2.ハレルヤ、救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの
(1)18章21節「すると、ある力強い天使が、大きいひき臼のような石を取り上げ、それを海に投げ込んで、こう言った。『大いなる見た子、バビロンは、このように荒々しく投げ出され、もはや決して見られない』」。海に投げ込まれた「大きなひき臼のような石」とは、ローマ帝国を表します。海の底に沈み込み、もはや決して見られない。歴史から姿を消す。大帝国の末路です。それは歴史の中で繰り返されたことです。「大いなる都バビロン」、すなわちローマ帝国が、ここでは「大きなひき臼のような石」に譬えられています。それは生活を支える日常の道具です。市民の生活を支えて来たひき臼の音が聞こえなくなることです。22節「竪琴を弾く者の奏でる音、歌をうたう者の声、笛を吹く者やラッパを鳴らす者の楽の音は、もはや決してお前のうちには聞かれない。あらゆる技術を身に着けた者たちもだれ一人、もはや決してお前のうちには見られない。ひき臼の音もまた、もはや決してお前のうちには聞かれない」。「もはや決して見られない、聞かれない」が、この歌の主旋律です。それが繰り返されています。「大きいひき臼の石」は当時の文明を支えた象徴的な道具です。それを考案した技術者の叡智のたまものです。臼をひく時、楽器が奏でられ、歌が歌われました。踊りが踊られました。しかし、生活の象徴であったひく臼の音も、楽器の音、歌ももはや聞こえなくなる。
23節「ともし火の明かりも、もはや決してお前のうちに輝かない。花婿や花嫁の声も、もはや決してお前のうちには聞かれない」。ローマ帝国を照らしていたともし火の明かりも、輝かない。12節ではローマ帝国を支え、灯していた明かり、様々な商品が挙げられていました。喜びの象徴である花婿や花嫁の声も聞かれなくなる。23b節「なぜなら、お前の商人たちが、地上の権力者となったからであり、また、お前の魔術によって、すべての国民が惑わされ、預言者たちと聖なる者たちの血、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」。黙示録はローマ帝国の滅びの原因の一つに、商人たちが地上の権力者となったことを挙げています。富が神のように崇められる。物が絶対化される。富、物が魔術のように人々を魅惑する。
また、魔術、呪術の虜にされると、神の言葉に耳を傾けなくなる。神が遣わした預言者たち、聖なる者たち、すなわち、キリスト者たちを通して語られる神の言葉に耳を傾けなくなる。預言者、キリスト者を殺す。ローマ帝国の栄華の影で、実に多くの人々の犠牲の血が流されている。
(2)伝道者ヨハネは天の幻を通して、大いなる都バビロン、ローマ帝国が崩れ去る姿を見、音を聞きました。しかし同時に、天からの音を聴きました。19章1節「その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。『ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの』」。天上の大群衆の大声とは、天上の聖歌隊の歌声です。その数、14万4千人(7・4,14・1)と言われていました。皇帝礼拝尾を拒否し、キリスト礼拝を貫き、殉教の死を遂げ、天上の聖歌隊に加えられた者たちです。その歌声で、地上に生きるキリスト者を慰め、支えるのです。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの」。天上から聴こえて来たこの歌は、地上ではこう歌われました。「救いと栄光と力とは、わたしたちの皇帝のもの」。皇帝賛歌の歌でした。しかし、その歌声に対抗するように天からの大合唱が聴こえて来るのです。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの」。注目すべきは「ハレルヤ」です。新約聖書の中で、「ハレルヤ」が登場するのは、この箇所だけです。4回用いられています。「ハレルヤ」はヘブライ語です。「主をほめたたえよ」という意味です。礼拝の中で、ヘブライ語のままで用いられて来ました。4節では「アーメン、ハレルヤ」。「然り、主をほめたたえよ」。新共同訳で初めて、「ハレルヤ」となりました。主イエス・キリストの甦りを記念するイースターの讃美歌で用いられます。
旧約聖書では詩編で用いられます。詩編は礼拝で歌われた讃美歌です。詩編135編1節「ハレルヤ。賛美せよ、主の御名を。賛美せよ、主の僕らよ」。21節「シオンから、主をたたえよ。エルサレムにいます主を。ハレルヤ」。(詩編113編)。詩編146編~150編は、「ハレルの詩編」(ほめたたえの詩編)と呼ばれています。詩編は全部で150編ありますが、「ハレルヤ」で結ばれています。
3.神の裁きは真実で義しい
(1)2節「その裁きは真実で正しいからでる」。何故、主を「ハレルヤ」とほめたたえるのか。神の裁きは真実で義しいからです。ローマ皇帝、地上の権力者も裁きます。政治を行うことは裁きを行うことです。自分の裁きは真実で義しいと確信して裁く。しかし、地上の権力者の裁きは常に不真実、不正義で満ちています。自分に逆らう者たちの声に耳を傾けず、捕らえ、抹殺します。「みだらな行いで、地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、御自分の僕たちの流した血の復讐を、彼女になさったからである」。黙示録が問いかけているのは、歴史を真実に裁く方は誰かです。それは歴史を始め、歴史を導き、歴史を終わらせ、完成させる神のみである。神は地上を堕落させた大淫婦、ローマ帝国を裁かれる。御自分の僕たち、キリスト者の流した血の復讐をされる。歴史の終わりに、全ての者が神の真実と義しさの前で、裁かれる。権力者の不真実、不義が明らかにされる。
ローマの信徒への手紙12章19節「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われると書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』」。引用の言葉は箴言25章21~22節です。自分で復讐せず、裁かず、神の審き、報復に全てを委ねよ。主が求めることは、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる」こと。主イエスも語られていました。マタイ福音書25章31~46節。「そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」。エジプトでは悔い改めを求める時に、燃える炭火を頭の上に積みました。しかし、パウロは燃える愛の炭火で悔い改めを求めています。
(2)天上の聖歌隊の大合唱は続きます。3節「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る」。4節「そこで、24人の長老と四つの生き物はひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。『アーメン、ハレルヤ』」。私どもが最後に行うこと、最後に語る言葉は、このことに尽きます。玉座に座っておられる神を礼拝し、「アーメン、ハレルヤ」と賛美することです。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 3月20日の祈り 黙示録12・10~11
「主よ、われらの神よ、われらはよろこびの声をあげてみ国を仰ぎ、み国における支配をのぞんでいます。み国においてあなたはイエス・キリストを主となし、天においてばかりでなく、地にあっても、すべての人間の中で勝利を得させてくださいます。そしてすべての人間においてお互いどうし善い者となり、平安を見いだし、すべてがみ心のままになされるようにしてくださるのです。天においてと同じく地上においても、徹底的にみ心によってことがなされるようになさるのは、当然のことだからです。聖霊によってわれらと共にいまし、われらがあなたの子として堅く立ち、よろこび叫ぶことがゆるされる瞬間にまで至らせてください。すべての艱難から出ていこう!すべての悪、すべての死から出ていこう!そこを出て、われらの天の父であるあなたのもとに行こう!われらがなお嘆いている今日も、み名はほむべきかな!み国はほむべきかな!あなたが与えてくださったわれらの救い主イエス・キリストはふむべきかな!アーメン」。