1.エフェソにある教会の天使にこう書き送れ
(1)ヨハネの黙示録は、伝道者ヨハネが流刑されたパトモスの島から、かつて巡回して伝道、牧会し、今、ローマ帝国の迫害の中にあるアジア州の7つの教会に宛てた手紙です。2章~3章に、7つの教会に宛てた手紙が順番に開封されて行きます。最初の教会はアジア州の中心とも言えるエフェソの教会です。エフェソ伝道は、使徒言行録18章24節~19章に記されています。アポロが伝道し、パウロが伝道した町です。異教の神々が祀られ、暴動が起き、身の危険に晒され、パウロはこの町の伝道に苦労しました。3年間、腰を据えて伝道し、漸く教会が誕生しました。恐らく、エフェソの町には様々な伝道者の伝道によって生まれた教会が幾つかあったと思われます。その一つが伝道者ヨハネが伝道し、牧会した教会です。
(2)冒頭はこういう言葉から始まっています。「エフェソにある教会の天使にこう書き送れ」。この言葉は7つの教会に宛てた全ての手紙の最初に出てくる言葉です。呼びかけの言葉です。一体誰が呼びかけているのでしょうか。前回学んだ1章9節以下で、ヨハネの黙示録の言葉が生まれたのは、いつ、どこでかが語られていました。パトモスの島において、「主の日」の礼拝において、主から聴いた御言葉、主から見させていただいた幻でした。その幻の中央に立っておられたのが主イエス・キリストでした。それ故、「エフェソにある教会の天使にこう書き送れ」と呼びかけておられるのは、主イエス・キリストです。ここで注目すべきことは、「エフェソにある教会の天使」に宛てて手紙を送りなさいと呼びかけられていることです。主の日の礼拝で、幻の中に現れた主イエス・キリストは右の手に7つの星を手にし、7つの金の燭台の間を歩いておられた。7つの燭台は7つの教会、7つの星は7つの教会の天使たちを現していました。7つの教会にそれぞれ主から遣わされた天使がいる。主イエスが天使に関して語られた御言葉があります。マタイ福音書18章10節「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」。一つ一つの教会に天使が送られ、私どもが天の父の御顔を仰げない時も、天使が代わって天の父の御顔を仰いで執り成して下さる。なぜ、教会の天使に宛てて書きなさいと呼びかけるのでしょうか。伝道者ヨハネが命懸けで書いた言葉が教会の人々に聴かれ、伝わるためには、天使の執り成しが必要であったからです。そして手紙は「あなたは」と二人称単数で語られています。教会に生きる一人一人に向かって、語られています。
2.疲れても、疲れ果てることはなかった
(1)2節「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている」。「わたしは知っている」という言葉が繰り返されます。これは7つの教会へ宛てた手紙に共通する大切な表現です。主イエスは「わたしは知っている」と語られます。教会でのあなたの行い、労苦、忍耐を知っていると言われます。他の教会員が知らなくても、わたしは知っていると言われる。ここに私どもの慰めがあります。主イエスが知っていて下さるのは、「あなたの行いと労苦と忍耐」です。テサロニケの信徒への手紙一1章3節「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」。「信仰による働き」「愛の労苦」「希望による忍耐」。主から与えられた三つの賜物「信仰、希望、愛」です。信仰は働きと結び付き、愛は労苦と結び付き、希望は忍耐と結び付きます。主イエスは私どもの働き、労苦、忍耐の中に、信仰、愛、希望を見て下さる。
更に、主イエスが知っておられることがある。「あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている」。当時の教会は今日のように、一つの教会に一人の伝道者が定住してはいませんでした。様々な伝道者が教会を巡回しながら伝道し、牧会していました。その中には自ら使徒と称して実はそうでない伝道者もいました。「使徒」とは、ご復活の主イエス・キリストと出会い、ご復活の主イエス・キリストから遣わされた伝道者です。しかし、偽使徒もおり、彼らが語る福音には「うそ」、偽りが混じっていた。そのうそをあなた方は見抜いた。私どもの信仰にとって大切なことは、本物の福音が、偽りの福音かを見分けることです。それはどこでなされるのでしょうか。7節「耳ある者は霊が諸教会に告げることを聞くがよい」。主イエスはマルコ福音書4章で、種蒔きの譬えを語られました。そこで強調されたことは、「聞く耳のある者は聞きなさい」。福音が本物か偽りかを聴き分ける耳を持つことです。教会は福音によって立ちもし、倒れもするからです。
(2)3節「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった」。教会生活には忍耐が伴います。我慢が伴います。疲れが伴います。様々な試練、問題と遭遇するからです。なぜ私だけがこんあんい忍耐し、我慢し、疲れなければならないのかと嘆きます。いっそうのこと、教会から離れてしまえば、こんな忍耐、我慢、疲れを味わわなくてよいのにと誘惑に駆られます。しかし、主イエスは知っておられる。「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった」。なぜ私だけが忍耐し、我慢し、疲れを味わうのか。理由はただ一つ、主イエスの名のためにです。主イエスのためにです。主イエスこそ、私の忍耐、我慢、疲れを知り、私のために執り成して下さるのです。ここで注目すべきは、「疲れ果てることがなかった」。疲れても、疲れ果てることはない。疲れても、疲れ果てて絶望することはない。諦め倒れることはない。
3.あなたは初めのころの愛から離れてしまった
(1)「わたしは知っている」で始まった手紙の音色が、突然一変します。4節「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった」。エフェソ教会の恵みを数えながら、同時に問題点を指摘します。「しかし、あなたに言うべきことがある」。それは一体何か。「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」。夫婦の生活も初めの頃の愛が醒めてしまうことがあります。教会生活にも初めのころの愛から離れてしまうことが起こる。「初めのころの愛」とは何か。5節「だから、どこから落ちたのかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ、もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」。「初め」は時間的な初めと共に、根源的な初めという意味でもあります。根源的なところから落ちてしまった。
甦られた主イエス・キリストが、根源的なところから落ちてしまったペトロに現れ、炭火を興し、パンと魚を焼き、食べさせ、そして三度問われました。「あなたはわたしを愛しているか」。なぜ主イエスは三度「あなたはわたしを愛するか」と問われたのでしょうか。ペトロが主イエスを三度知らないと否認し、主イエスへの愛を失ったからです。ペトロは初めの愛から離れてしまった。落ちてしまった。そのペトロに主イエスは初めのころの愛、主イエスへの愛を呼び覚ますために、三度「あなたはわたしを愛するか」と問われたのです。ペトロが悔い改めて、初めのころの愛、主イエスへの愛に立ち帰らせるためです。それが挫折したペトロを再び使徒として、立ち直らせることであったのです。
伝道者パウロがコリントの信徒への手紙一13章で「愛の讃歌」を歌いました。「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」。「愛は忍耐強い。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。主イエスの愛、主イエスへの愛。それこそが私どもの教会生活の根源です。それ故、「あなたはわたしを愛するか」との主イエスの問いかけを受け、悔い改めて、主イエスの愛、主イエスへの愛に立ち帰るのです。「もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」。「あなたの燭台」は「あなたの教会」です。悔い改めなければ、あなたの教会を取りのける。厳しい言葉です。初めのころの愛に立ち帰ることに、教会のいのちが掛かっているからです。
(2)6節「だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを難いんでいる」。主イエスは再び、エフェソ教会の恵みを数え挙げる。「ニコライ派の者たち」は、2章15節、ベルガモンの教会への手紙にも記されている。恐らく、偽りの福音を語る一派であったと思われる。7節「耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」。「神の楽園にある命の木の実」。創世記3章に出て来たエデンの園の中央にある木の実です。神が食べてはいけないと言われた木の実です。しかし、蛇の唆されて食べてしまい、罪の根源、呪いの木となった木の実です。しかし、主イエスが呪いの木・十字架にかけられたことにより、呪いの木は命の木に変えられました。主イエスによって罪に勝利をした者、教会は、神の楽園にある命の木の実を食べることが赦されています。「命の木の実」は黙示録22章1節で再び語られます。「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に12回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る」。
4.御言葉から祈りへ (1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 9月20日の祈り 詩編90・1~2
「主なる神よ、われらの助けよ、われらは感謝します。あなたはわれら人間のあいだを、み守りをもってあゆんでくださいます。多くの者が、まことに多くの者がみ守りを経験することをゆるされています。死ぬ時にもなおあなたはまことに守りであり、助けであり、われらは生命に入るをゆるされるのであり、死の中へあゆむことはないのです。それゆえにわれらの心をみもとへ高めてください!われらがわれらの時代にあっても変わらぬ光あるものとし、きびしくみまえに立たせてください!主なる神よ、悪しきものから善なるものをつくってください!暗黒に光をのぼらせてください。あなたの約束を果たしてください。われらの心にかかるのは人間の願いではなく、あなたの約束なのです。あなたはそれを果たしてくださるでしょう。そしてわれらはこう言わずにおれません。われらが信じたのはむだではなかった、のぞみを待ったのはむだではなかった、と。主よ、われらの神よ、あなたはまことに数多くの善きことを与えてくださったのです。アーメン」。