1.この天使は、悪魔、サタンでもある年を経たあの蛇、竜を取り押さえ、千年の間縛っておき
(1)ヨハネ黙示録の最後の場面に差し掛かりました。小羊キリストの「最後の戦い」の場面の御言葉を黙想しています。本日の20章の場面に入る前に、もう一度これまでの場面を振り返りましょう。小羊キリストに対抗する象徴的な存在が複数登場しました。12章18節で、「竜」が最後の戦いをするために、海辺の砂の上に立ったとありました。「竜」とはサタン、悪魔を表しました。13章で、竜によって呼び出された「獣」が海の中から上って来ました。「獣」とはローマ皇帝を表しました。そして17章で、獣に跨がっている大淫婦が登場しました。「大淫婦」とは欲望に満ちた帝国、ローマ帝国を表しました。小羊キリストは白馬に跨がる騎士として、御言葉を武器として、先頭に立って戦いました。18章で、「倒れた、大バビロンが倒れた」と、大淫婦ローマ帝国の滅亡が語られました。19章で、獣であるローマ皇帝の滅びが語られました。残るのは、大淫婦、獣を操っていた竜です。すなわち、サタン、悪魔です。竜であるサタン、悪魔との最後の戦いが、20章で展開されています。
(2)20章はこのような御言葉から始まっています。「わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を押さえ、千年の間縛っておき」。竜の正体が明らかにされます。サタン、悪魔であり、「年を経たあの蛇」です。創世記3章のエデンの園に登場し、アダムとエバを誘惑した蛇です。天地創造の初めから存在し、人間を誘惑して来た蛇です。年を経たあの蛇、サタン、悪魔は小羊キリストの最後の戦いを挑んだ。(12章9節)。しかし、天使によって押さえられた。3節「底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はすばらくの間、解放されるはずである」。竜、サタンは千年の間底なしの淵に投げ入れられ、拘束された。
20章で繰り返される象徴的な数字は「千年」です。4b節「彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した」。6b節「彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する」。「千年」と対比される数字が「42か月」(3年半)です。11章2b節「彼らは、42か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう」。獣、サタンの支配は3年半、不完全数です。永年に支配は続かない。それに対し、「千年」は完全数、長い年数です。
21章で愈々、「最初の天と最初の地は去って行き、新しい天と新しい地が到来します」。それに先立って、神は最初の天と最初の地を大掃除されます。11節「天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった」。14節「死も陰府も火の池に投げ込まれた」。終わりの日が来る前に、竜、サタンが底なしの淵に投げ入れられ、キリストと共にキリストの群れが千年の間統治する時が来ると、約束されています。これが「千年王国説」「千年王国の信仰」「千年至福」として語られるようになりました。
2.彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する
(1)4節「わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像を拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した」。伝道者ヨハネは天上の座に座っている者たち、裁くこと(統治する)が許されている者たちを見ました。彼らはイエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちでした。獣である皇帝礼拝を拒否し、キリストへの信仰を貫き、首をはねられた殉教者です。殉教者たちが生き返って、キリストと共に千年の間統治しました。
5節「その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である」。殉教者たちの復活、これが「第一の復活」です。殉教者は終わりの日に先立ち、キリストと共に千年の間統治する。その他の死者は千年経つまで生き返らず、終わりの日に復活する。これが「第二の復活」です。
6b節「この者たちに対して、第二の死は何の力もない」。「第一の死」は肉体の死です。「第二の死」は最後の審判の死、滅びの死です。しかし、キリストの証しに生きた殉教者にとって、第二の死は何の力もない。もはや滅びに定められていない。「彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する」。注目すべきは「キリストの祭司」です。千年の間キリストと共に統治するその統治は、「キリストの祭司」としての統治です。「キリストの祭司」の務めは、「執り成し」です。神が創造された世界のために、人類のために、「執り成し」に生きるのです。滅びではなく、神に立ち帰って生き、救いへと導かれるよう、ひたすら執り成しの信仰と祈りに生きるのです。
(2)7節「この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い」。殉教者のキリストと共なる千年統治の後、再びサタンが牢から解放され、最後のあがきをする。「ゴグとマゴグ」はエゼキエル書38章2節「マゴグの地ゴグ」から採られている。マゴグ民族の総首領ゴグがエルサレムを襲う。神はゴグと最後の戦いをされる。
9節「彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都を囲んだ」。「聖なる者たちの陣営」。聖餐が行われる主日礼拝の招詞である詩編34編8節の御言葉を想い起こします。「主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった」。地上には様々な戦いがある。しかし、主の使いが私どもの周りに陣を敷き、守り助けて下さる。「愛された都」、神が愛し、キリストが愛された都エルサレム。しかし、それはエルサレムという特定の場所を意味するのではなく、「地上の広い場所」とも表現されています。神がおられるところです。
9b節「すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはある獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる」。竜、サタンは、どんなにあがいても、神、小羊キリストに打ち勝つことは出来ない。滅ぼされる。
3.死も陰府も火の池に投げ込まれた
(1)11節「わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方を見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった」。大きな白い玉座に座っておられる神の御前から、神が最初に造られた天も地も逃げて行き、行方が分からなくなった。罪に染まった天と地は、創造者である神の御前で姿を隠した。創世記3章の、罪を犯したアダムとエバが神の御前で姿を隠したことと重なり合う。
12節「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。それは命の書である」。終わりの日、神の御前に死者たちが立たされる。その時、「命の書」が開かれた。「命の書」はこれまでも繰り返し語られていた。3章5節「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す」。13章8節「屠られた小羊の命の書」。天上の小羊キリストが手にしている「命の書」。
12b節「死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた」。最後の審判です。14節「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」。厳しい終わりの日の裁きが語られます。ここで強調されていることは、「死も陰府も火の池に投げ込まれた」。死も滅びる。陰府も滅びる。神、小羊キリストが勝利をする。
7章10節の天上の白い衣を着た大合唱を想い起こします。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊のものである」。
(2)ヨハネ黙示録20章から「千年王国説」が生まれました。終わりの日の前に、殉教者が甦って、キリストと共に千年の間統治する。問題は、その千年がいつから始まるのかです。そのことを巡って、教会の歴史において様々な解釈がなされて来ました。ペトロの手紙二3章8節「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」。主の前では千年は一日のようである。歴史のいつから千年王国が始まったと解釈することは、人間の知恵では出来ないことです。黙示録が強調するのは、サタンの支配は3年半、永遠には続かない。終わりの日を前にして、殉教者と共なるキリストの統治は既に始まっている。小羊キリストの統治を霊のまなざしで見ながら、「キリストの祭司」として、世界のために執り成しに生きる。そこに神の国を目指し、地上を旅する教会の使命があるのです。サタン、死、陰府の支配は必ず終わる。滅びる。神、小羊キリストは必ず勝利する。その信仰に生きるのです。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 4月10日の祈り ローマ14・7~8 「主なる神よ、甦り、今生きておられるイエス・キリストにわれらを結びつけてください。そしてわれらの生が、イエス・キリストにおいてみ心としておられることによって、のみつくされてしまいますように。地上でわれらを束縛しようとするすべてのものから解き放ち、常にかしらを高くあげる自由な者としてください。われらの救いが近づいているのですから。それゆえに全能の神よ、われらはこの困難な時代にあってもあなたに信頼しているのです。すべての民をかえりみてください。あなたはまさにこのすべての民を、み国に集めようとしておられるのです。神よ、あなたはわれらの避け所、われらの助けです。終わりまでわれらはあなたに信頼します。アーメン」。