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2024年4月17日

「ヨハネの黙示録を黙想する32~わたしはまた、新しい天と新しい地を見た~」

ヨハネの黙示録21章1~8節

牧師 井ノ川勝

1.わたしはまた、新しい天と新しい地を見た

(1)ヨハネの黙示録を黙想して来まして、遂に、黙示録の頂点とも言える21章の御言葉に触れます。この御言葉を目指して、黙示録は語られたとも言えます。ローマ帝国の迫害下、パトモスの島に流刑された伝道者ヨハネは、主の日、礼拝を捧げていた時に、甦られたキリストが現れ、天の幻を見せられました。日々、迫害を受け、涙が渇かない日々にあって、私どもは生きている歴史はどこへ向かっているのか。天の幻を通して、ヨハネはそれを示されました。その中心となる御言葉が21章です。

 このような御言葉から始まっています。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た」。ヨハネはこれまで様々な幻を見て来ました。そして今、私どもが生きる歴史が目指すところ、新しい天と新しい地を見たのです。ヨハネはどんなに興奮し、感動したことでしょう。新しい天と新しい地を見たからには、今、私どもが生きている天と地はどうなるのでしょうか。続けて語られます。「最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」。最初の天と最初の地、神が始めに創造された天と地です。創世記1章1節「初めに、神は天地を創造された」。しかし、初めに神が創造された天と地は永遠に続くのではありません。造り主なる神を忘れた私ども人間の罪で満ち溢れています。この最初の天と最初の地は過ぎ去って行きます。面白いのは、「もはや海もなくなった」という御言葉が加えられていることです。海、それは12章の結び18節で、「そして、竜は海辺の砂の上に立った」ところです。竜とはサタン、悪魔を意味していました。そして13章1節で、竜であるサタン、悪魔に呼び出されて、一匹の獣が海の中から上って来ました。獣とは地上の権力者、ローマ皇帝を意味していました。海は竜、獣が支配する場所です。人間の命を呑み込む虚無の力が支配する場所です。しかし、新しい天と新しい地が来る時、海ももはやなくなった。

 

(2)ヨハネ黙示録は旧約聖書の御言葉が土台となっています。「新しい天と新しい地」もそうです。イザヤ書65章17~19節。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び踊るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない」。この御言葉はどのような時に語られたのでしょうか。70年に及ぶバビロン捕囚から解放され、祖国エルサレムに帰還した神の民イスラエルが見たものは、廃墟と化した現実でした。エルサレム再建の道が全く見えない。しかし、そのような中で、預言者第三イザヤが語った幻、御言葉です。ここで繰り返されている御言葉は、「わたしは創造する」です。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」。新しい天と新しい地は、神が創造して下さる。最初の天と地を創造された時、神はそれを見て、「良し」とされ、喜ばれた。新しい天と新しい地も神が創造され、喜びとして下さる。その象徴がエルサレムです。「主の平和」という意味です。平和から最も遠い、廃墟に化したエルサレムが、新しいエルサレム、主の平和となって、神が創造され、喜びとして下さる。

 黙示録21章は終末の出来事が語られています。終末は、神の新しい創造がなされる。新しい天と新しい地が創造される。無から有を創造される神の新しい御業が行われる。

 

2.見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる

(1)2節「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」。神の新しい天と新しい地の創造が、更に具体的に語られます。聖なる都、新しいエルサレムが、花嫁として譬えられています。夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れて、天から下って来る。花婿は誰か。天の玉座に座す小羊キリストです。小羊キリストが花婿として来て下さる。花婿を待つ花嫁、新しいエルサレムは喜びに溢れて待ちます。

 3節「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた」。玉座から語りかける大きな声とは、神の声です。黙示録で、神が直接、ヨハネに語りかけているのは、この御言葉が初めてです。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり」。新しい天と新しい地、花婿キリストと花嫁新しいエルサレムの新居は、神の幕屋です。あらゆる時代、あらゆる場所に生きた者たちを招く神の幕屋は広大なものです。

 「神が人と共に住み」、「神は自ら人と共にいて」、「神、われらと共にいます」、インマヌエルの神です。イザヤ書7章14節の御言葉が土台となっています。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。この御言葉は主イエスの誕生の出来事でした。マタイ福音書1章21~23節。

 「人は神の民となる」、「神は自ら人と共にいて、その神となり」。この御言葉の土台に、エレミヤ書31章31節以下があります。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる」。33節「しかし、来たるべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる」。

 

(2)3b節「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。地上の歩みは迫害、苦しみ、悲しみの連続で、涙が渇くことはありません。しかし、神の幕屋にあって、主は私どもの目の涙をことごとく拭い取って下さる。ヨハネ福音書11章25節以下で、愛する兄弟ラザロを亡くし、悲しみの涙を流しているマルタとマリアに向かって、主イエスは語られました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。そして主イエスはマルタとマリアの涙をご覧になられ、自らも涙を流されました。自ら涙を流される小羊キリストが、死に勝利し、私どもの目から涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも労苦もない。神の幕屋にあってあるのは、主と共に永遠に住む喜びだけです。主をほめたたえる讃美に溢れています。

 

3.わたしは初めであり、終わりである、渇いている者には命の水の泉から価なしに飲ませよう

(1)5節「すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた。6節「また、わたしに言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである』」。神、小羊キリストこそ、歴史の最初に立たれ、歴史の終わりに立たれる方。竜でも獣でもない。黙示録の最初で語られた御言葉です。1章8節。17節。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」。

 6b節「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」。小羊キリストの招きの言葉です。ヨハネ福音書7章37節の主イエスの招きの言葉と響き合います。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。7節「勝利を得る者には、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」。「勝利を得る者には、これらのものを受け継ぐ」。伝道者ヨハネがアジア州の7つの教会に宛てた手紙の結びとして用いられた言葉です。「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの子となる」。エレミヤ書31章31節にあったように、心に内に刻まれ、決して消されることのない、小羊キリストによって結ばれる「新しい契約」です。

 

(2)8節「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である」。「第一の死」は肉体の死、「第二の死」は終わりの日の神の審きです。しかし、小羊キリストにあって「新しい契約」に生きる者は、ここに挙げられたような不信仰に生きることはない。第二の死から解放されている。そして私どもは小羊キリストと共に新しい天と新しい地の生き方を始めているのです。

 

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 4月17日の祈り ヘブライ4・9~11

「愛しまつる在天の父よ、われらがひととき安息を得て、うしろをふりかえる時、思い起こすことのゆるされるすべてを感謝します。あなたがわれらにしてくださったことが、常にわれらにとっていのちあるものでありますように。そして明るいまなざしで前をみつめることができ、われらの人生がみ手のうちにあって、くりかえし亜新しいもの、大いなるもの、栄光あるものに至ることをさとっていることができますように。あなたのすべての民、あなたを知り、人々の中にあってあなたの働き人とされているすべての人を、あなたはくりかえし、安息に導いてくださるのです。そしてついには最後の、大いなる安息が来たり、その安息に根ざしてみ国は完全に建設されうるのです。アーメン」。

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